時代はラブ&ピースからエンターテインメントへ
かつて、80年代を駆け抜けた男がいた。
その男は、時代が1980年に切り替わる前夜に颯爽とテレビの世界に現れ、全力で80年代を駆け抜けた。そして90年代、後進のために道を開けると、華麗なステップでライブへと軸足を移した。
ひと言で言えば、1980年代は、エンターテインメントの時代だった。だから、その男も100%のエンターテイナーだった。
それ以前―― 1970年代は、ラブ&ピースの時代だった。しかし1975年、ベトナム戦争が終結すると、反戦を叫んでいた若者たちは、急速に政治への興味を失った。代わってアメリカ西海岸にアウトドア文化が花開き、1977年には映画『スター・ウォーズ』が公開。マイケル・ジャクソンはアルバム『オフ・ザ・ウォール』を全米で800万枚売り上げ、後の『スリラー』への足掛かりを築いた。
日本でも70年代後半、フォークソングに代わってニューミュージックが台頭。華やかなコマーシャルの世界からヒットソングが次々に生まれ、ランキング自体をライブで見せる新趣向の音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)も登場した。
日本映画は、出版界の風雲児・角川春樹がメディアミックスでヒット作を連発。文壇でも新人作家・村上春樹が、従来の純文学とは異なるアメリカ文学の風薫る文体でデビューし、大器を予感させた。
テレビ界では「楽しくなければテレビじゃない」をスローガンに、フジテレビが目を覚まそうとしていた。
80年代を駆け抜けた男、田原俊彦
そして迎えた1980年―― 1人の男性アイドルがデビューする。同年6月21日発売のファーストシングルは、アメリカの歌手レイフ・ギャレットの「New York City Nights」をカヴァーした「哀愁でいと」。なんとこれが、新人では異例のオリコンチャート最高2位のロケットスタート。そこから彼は、1990年3月21日リリースの「ジャングルJungle」まで、オリコンシングル37作連続TOP10入りの偉業を打ち立てる。そう、まさに80年代を駆け抜けた男――。
そして、デビューから41年目となる今年、2021年6月16日―― 60歳の還暦を迎えた男は、74枚目のシングルをリリースする。タイトルは「HA-HA-HAPPY」―― なんて重みのない、軽やかなタイトルなんだ(褒めてます)。そう、まさに生涯一エンターテイナー。
男の名は、田原俊彦。
今回は、そんな彼の話である。
田原俊彦、一念発起してジャニーズ事務所の門を叩く
HA-HA-HAPPYで 愛×3な俺らじゃん
しぶとく恋せ 乙女ら
かっこつけてよろしけりゃ
あの世でもよろしく
いいだろ?
田原俊彦、本名である。1961年2月28日生まれ。トシちゃんというと、山梨県甲府市のイメージだが、意外にも生まれは神奈川県横須賀市だそう。横須賀というと、2歳上の山口百恵サンの出身地でもあるが、もしかしたら幼少期、2人は街のどこかですれ違ったかもしれない。
というのも、トシちゃんは小学校に入学して間もなく、父親を糖尿病で亡くし、母親の故郷である山梨県甲府市に転居する。そこから母の手ひとつで育てられ、高校卒業まで甲府市で過ごすことになる。家族は姉2人・妹1人を加えた5人。母子家庭の苦労もあり、かなり質素な暮らしぶりだったという。彼のハングリー精神は、その時に培われたものかもしれない。
転機は高校1年の夏休み―― 1976年8月だった。東京で寿司職人の見習いをしている中学時代の友人を頼って上京し、一念発起してジャニーズ事務所の門を叩いたのだ。事務所にいた秘書の方に「ジャニー喜多川さんに会いたい」と直訴したら、あっさりと「今、日劇にいるので、連絡しておくから行きなさい」とタクシー代を渡されたという。恐らく、秘書の方の目から見ても、既にトシちゃんのルックスやスタイルはかなりのレベルにあったのだろう。
3年間続いたレッスンの日々
で、日劇に行くと、初対面のジャニーさんから昼食を誘われ、そこで軽い面接のようなものを受けて、「来週から毎週日曜日、レッスンを受けなさい」と、思わぬ合格通知―― なんと、業界随一と言われるスカウトの名手の御眼鏡に適ったのだ。こんな強力な後ろ盾はない。デビューは時間の問題と思われた。
だが、そうはならなかった。
結局、トシちゃんはそれから3年間、毎週日曜日に、甲府から新宿まで片道2時間以上かけて中央線に揺られ、レッスンに通うことになる。途中、何度も「高校を中退するので、デビューさせてください」とジャニーさんに訴えても、「高校は卒業しなさい」と一蹴され、いたずらにレッスンの日々が続いた。往復の切符代をジャニーさんに出してもらえるだけが、希望の光だった。
そして―― 晴れて高校を卒業したトシちゃんは、その日の午後、満を持して上京する。オーバーオールにトレーナー姿、小さなバッグにはジーパンと下着を数枚入れただけの着のみ着のまま、当時、飯倉片町にあったジャニーズ事務所の合宿所に入所したのだ。時に、1979年3月―― 80年代はすぐそこまで来ていた。
飛び込み面接は、なんと「金八先生」
無いものねだりが過ぎる俺たちは だけど
手に入れたもん全てに感謝
要らないもの何もない
当時、ジャニーズ事務所は “冬の時代” だった。長らく事務所の顔だったフォーリーブスが1978年8月いっぱいで解散。抜群のルックスと長身で期待された川崎麻世サンも、レコードセールスが伸び悩んでいた。そんな中、合宿所にはトシちゃんのほか、マッチ(近藤真彦)や少年隊、男闘呼組ら「研修生」の面々がいて、マグマのごとく、フツフツと噴火するタイミングを待っていたのである。
チャンスは思わぬところからやってきた。1979年夏、トシちゃんは他の研修生ら9人と共に、ジャニー喜多川さんに引率され、TBSへ向かった。そこで、飛び込みで面接を受けるという。相手は同局のドラマプロデューサーの柳井満サン。ポーラテレビ小説や東芝日曜劇場など看板枠を手掛ける実力者である。そして、この時、彼が準備していたのが、同年秋にスタートする新ドラマ『3年B組金八先生』だった。
3年B組の生徒に選ばれたトシちゃん、マッチ、よっちゃん
『金八先生』第1シリーズの教室の机の並びは、少し変わっている。普通、横5列・縦6列の30人編成が学園ドラマの平常運転(ドラマの教室はテレビ画面映りを考慮して、普通の教室よりかなり狭いンです)のところ、更に後ろに2席多いのだ。つまり、全32人。最後方のマッチなんて後ろの黒板ギリギリだ。
なぜ、こんなことになったかというと、生徒役が追加されたんですね。実は、ジャニーさんがTBSを訪れた時、既に柳井プロデューサーによって3B生徒30人のオーディションは終わっていた。しかし、ジャニーさんは「今、TBSの玄関に連れて来ましたから」と強引に頼み込み、柳井サンは渋々会うハメに。
ところが―― 会うと、各々個性的でキラキラ光っている。で、選んだのが、トシちゃん、マッチ、よっちゃん―― 後の「たのきんトリオ」だった。3人を選んだのはジャニーさんではなく、TBSの柳井プロデューサーだったのが面白い。結局、決定していた30人から1人を減らし、全32人の3B生徒が決まった。
―― で、本題はここからである。問題は、どの時点でトシちゃんが “見つかった” か。実は1話の時点で、一人大人びた彼は既に目立ってるけど(何せ、リアルでは大学1年世代だ)、同ドラマは生徒一人一人の主役回があり、トシちゃん演じる沢村正治がフィーチャーされた回が、第11話「母に捧げるバラード」だったと。金八先生と3Bの生徒たちが海援隊のコンサートに行く風変わりな話だけど、ここで両親のいない、姉と2人暮らしの正治(奇しくも、父親を早く亡くしたトシちゃんと重なる)が金八の何気ない台詞に傷つくシーンがあり、哀愁を帯びた表情を見せるトシちゃんが全国のお茶の間に見つかった瞬間だった。この放送日が、1980年の一発目、1月4日だったのだ。
アイドル黄金時代 “80年代”の幕開け
邪道 王道 道に名前なんてないぜ
踊りだす心 それが合図 ただ1つだけ
更に偶然は重なる。1980年1月、トシちゃんはNHK『レッツゴーヤング』の番組オリジナルグループ「サンデーズ」の新メンバーに合格する。同期の1人に松田聖子サンも。この時点で2人ともデビュー前であり、彼らを選んだ同番組のプロデューサーの “目利き” に恐れ入る。
そう、田原俊彦・松田聖子、2人の新人アイドルの出現によって、ここからアイドル黄金時代の80年代が幕開ける。2人はこの年、最優秀新人賞を争い、歌謡大賞では2人同時受賞、レコード大賞ではトシちゃんの勝利に終わる。『ザ・ベストテン』では夏以降、2人は常連となり、『平凡』や『明星』などのアイドル月刊誌でも、頻繁に表紙を飾ることになる。
1985年、聖子サンは結婚・出産に伴い、歌手活動を1年半ほど休止するが、その間もトシちゃんは精力的に走り続け、元来のダンス・センスにますます磨きがかかる。そして1988年には、野村宏伸サン演ずる「榎本」と、トシちゃん演ずる熱血教師「徳川龍之介」の名コンビが光るドラマ『教師びんびん物語』(フジテレビ系)がブレイク。奇しくも、演じた小学校の教師は、トシちゃんの亡き父の職業であり、ここにも『金八先生』の沢村正治に通ずる運命を感じる。
更に、同年1月7日―― 『ザ・ベストテン』に、トシちゃんの番組最多出演を祝う「ブルーシート」が置かれる。同番組の特別シートは、12週連続1位の寺尾聡サンの「ルビーの指環」を記念したルビーシートと2つしかない。80年6月のデビュー以来、コンスタントに3ヶ月ごとに新曲をリリースし、着実にランクインを重ねたトシちゃんならではの偉業だった。結局、同番組終了まで247回の最多出演記録を更新する。
テレビからライブへ、田原俊彦が移した軸足
ヤンヤンヤンチャな人生
行くぜ ふたたびの誕生
言わせて 誇らしく
そう 君がいるだけで最高
ここから先の話は長くない。
80年代を全力で駆け抜けた男―― トシちゃんにとって、90年代はいくつかの不幸が重なり、テレビにおける露出を急速に減らすことになる。よく引き合いに出されるのは、1994年2月の長女誕生の会見における「ビッグ発言」である。しかし、あれは彼一流のジョークであり、その真意が伝わらなかったのは、今となっては不幸としか言いようがない。
実は、トシちゃんにとって最大の明暗は、80年代と90年代の空気が一変したことではないだろうか。80年代のアイドルは “演じる” ものだった。まさに、エンターテイナー。オンとオフがあり、彼は “オン” を完璧に演じた。ダンスを磨き、トークではユーモアを忘れず、一流の服を着こなし、一流のクルマを操った。
ところが―― 90年代は、素顔を見せるアイドルが主流になった。ドラマの芝居も、強烈なキャラクターを演じるより、素の喋りのナチュラルな演技が求められるようになった。例の「ビッグ発言」が誤解されたのも、そんな時代の変化も影響したのかもしれない。
ちなみに、件の会見後、トシちゃんがその軸足をテレビからライブへと移し、後進のために道を開けた際―― その志を受け継ぐように、一気にテレビの露出を増やしたアイドルが、SMAPである。
バトンは、受け継がれたのである。
特集 田原俊彦 No.1の軌跡
2021.08.11