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風営法の大幅改正、新宿ディスコシーンの終焉とデッド・オア・アライヴ
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photo:FANART.TV  

80年代半ば、新宿、渋谷のディスコシーンには、高校生主導のホンモノのユースカルチャーがあった。

このムーブメントに地殻変動が起きたのは、85年2月13日に施行された風営法の大幅改正だ。これによって、ディスコの営業が午前0時までとなり、それをフォローすべく、新宿のディスコでは、営業時間が土日は午後2時スタートと大幅に早まり、陽の高い時間から大変な賑わいを見せていた。

当時ディスコに通う高校生は、翌日は学校があったり門限があったりするので、後ろ髪を引かれる思いになって終電前には帰っていた。それが、昼からたっぷり遊べるということで、日曜日ともなると、歌舞伎町にあった4つのディスコが入っている東亜会館では、高校生が階段に長蛇の列を作って待っていた。こんな状況だからオープン時間は午後2時から、あっという間に昼の12時に早まった。

東亜会館の中にはBIBA、グリース、B&B、そしてGBラビッツという4つのディスコが入っていて、どこも客層がほとんど十代だった。フロアを沸かせる曲は、当時のディスコでお馴染みのハイエナジーナンバーの他に、TVなんかで流れるようなヒットナンバーも数多くかかるようになってきた。ワム! の「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」やシンディ・ローパーの「シー・バップ」、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」などだ。

「ライク・ア・ヴァージン」がかかった時は、サビの部分を「あなたヴァージン? やったの誰ですか~」と替え歌にして大合唱したのもいかにも高校生らしいというか、当時のディスコの牧歌的な印象を物語っている。そして、照明が暗くなるチークタイムには小林明子の「恋におちて -Fall in love-」がかかっていたのもこの時期だった。

つまり、敷居がグッと低くなり、高校生たちの日常生活やお茶の間と隣接した部分でのエンタメ性がディスコにおける選曲に顕著に表れていたのだ。

当時のディスコは、すべての店がフリーフード、フリードリンクで、高校生にも当たり前のように酒を出していたが、急性アルコール中毒で搬送されるような痛ましい事故は一度も耳にしたことがなかった。僕も、バイオレットフィズやモスコミュールなどのいかにも80年代的なカクテルを良く飲んでいたわけだが、酔っぱらったという感覚はほとんどなかった。

今考えてみると、それはおそらく店側が事故のないように極めてアルコール度数が低いドリンクを提供するという意向もあったと思う。このファジーさがいかにも80年代的であり、踊り疲れて汗をかいたあとに飲むカクテルは、僕らにとってスポーツドリンクのようなものだった。

歌舞伎町には、この東亜会館のすぐ近くにゼノン、ニューヨーク・ニューヨークという二軒のディスコがあった。この二軒は東亜会館の客層とは異なり、高校生のお祭り騒ぎとは一線を画していた。オトナの雰囲気のゼノンには結局足を運ぶことがなかったが、僕は東亜会館を卒業すると、ニューヨーク・ニューヨークに足繁く通うようになった。

それは、2017年に惜しくもお亡くなりになった「赤シャツDJ」こと松本みつぐさんがDJをしていたからだ。松本さんは70年代のディスコ創成期から六本木、新宿で活躍、ジャンルにとらわれないスタイルで人気を集めていた。

ハイエナジーナンバーから、ポストパンク、日本のロックまで幅広くターンテーブルにのせていた。ニュー・オーダー、トイ・ドールズ、BOØWYの「NO N.Y.」までミックスするプレイに魅了され、ここで様々な音楽に触れ、今の音楽に対する価値観が出来上がったと改めて思う。

そして、このニューヨーク・ニューヨークと東亜会館の大きな違いは、各人が自分の好きな曲で踊るというスタイルだったと思う。DJも客に媚びずにたとえフロアが盛り上がらなくても、自分のイチオシの曲をかけ続けるという頑なさがあった。デッド・オア・アライヴの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」なんかが好例だ。

そして、85年9月には、このニューヨーク・ニューヨークでデッド・オア・アライヴ初来日のシークレットライブが行われた。彼らの知名度がさほどなかった時期だったと思う。しかし、シークレットと言えど、常連客には口コミで伝わっており、フロアは満員。特設ステージを作り、わずか3曲ほどの演奏だったが、ホールで観るライブとは違った臨場感を今でもリアルに覚えている。そんな地道なプロモーション活動から、その後彼らのナンバーはマハラジャを代表する六本木のディスコシーンで大ヒットし、バブルの象徴となった。

今考えてみると、あの時のデッド・オア・アライヴのステージが僕にとってのディスコ時代の終焉だったように思う。そして、その後ムーブメントは、より音楽を細分化したクラブシーンに移行。ディスコといえば、マハラジャ、トゥーリアなどを代表するバブリーなオトナの遊び場といったイメージのものになっていくのだった。

2018.01.19
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  YouTube / DeadOrAliveVEVO
 

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カタリベ
1968年生まれ
本田隆
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