1996年 8月5日

SPEED デビュー!今井絵理子、島袋寛子、上原多香子、新垣仁絵 3年8ヶ月の疾走!

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新・黄金の6年間 ~vol.12
■ SPEED「Body & Soul」
作詞:伊秩弘将
作曲:伊秩弘将
編曲:水島康貴
発売:1996年8月5日


時代に選ばれし者たちが歴史に名を残す、「新・黄金の6年間」


一口に「新・黄金の6年間」と言っても、前半の3年間と後半の3年間では、少々趣が異なる。

新・黄金の6年間―― バブル崩壊後の1993年から98年までの6年間、エンタメ界を中心に新しい才能たちが次々とビッグヒットを放った現象を、僕は当リマインダーでそう呼んでいる。キーワードは「スモール」、「フロンティア」、「ポピュラリティ」―― 彼らは、比較的小回りの利くチームで動き、新しい開拓地を求め、直接大衆に語りかけた。

前半の3年間は、まだバブルの残り香があり、世の中の空気感は比較的コンサバティブだった。「CROSS ROAD」でブレイクした頃のミスチルの桜井和寿サンは短髪のアイビーカットで、ドラマ『29歳のクリスマス』(フジテレビ系)の主題歌にも起用されたマライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」が街をきらびやかに彩り、男子の好きな女優は和久井映見だった。

それが後半の3年間になると、安室奈美恵に憧れるコギャルたちが台頭。女子高生の茶髪・ガングロ・ルーズソックスが時代のアイコンとなる一方、PUFFYに代表されるユルいストリートファッションも人気を博した。木村拓哉はフジテレビのドラマ『ギフト』で、ロン毛を後ろで縛って自転車で疾走―― 荷物を届ける記憶喪失の青年を演じた。アバンギャルド―― それが時代の風向きだった。

俗に、「人生の成功において、最も大事なのはタイミング」と言われる。才能のある人間なんて、世にごまんといる。その上で、時代に選ばれし者たちが歴史に名を残す。その意味では、“勝機”を嗅ぎ取る嗅覚も、才能の一つかもしれない。

わずか3年8ヶ月でその活動に終止符を打ったSPEED


さて、今回のテーマは、90年代後半に一世を風靡した女性ダンス&ボーカルグループ「SPEED」である。彼女たちは時代と並走し、わずか3年8ヶ月でその活動に終止符を打った。デビュー時点の平均年齢13.5歳の圧倒的な若さ、その一方でボーカルとダンスの類い稀なるクオリティ、そして余力を残しながらの突然の幕切れ―― 時代に与えた影響、4人組という編成とも相まって、僕はそこに不思議とビートルズを同じ匂いを感じた。

 Body & Soul 太陽浴びて
 Body & Soul 踊り出そうよ
 同じ Step の毎日じゃ生きてる事さえ
 忘れちゃう… それじゃ張りがない!

そう―― 奇しくも、今日8月5日は、今から27年前の1996年に、彼女たちのデビューシングル「Body & Soul」がリリースされた日にあたる。

安室奈美恵やMAXの後輩、沖縄アクターズスクールの出身


話は少しばかり、さかのぼる。

SPEEDの4人は全員、沖縄県生まれである。皆、沖縄アクターズスクールの出身―― そう、安室奈美恵やMAXの後輩にあたる。ちなみに、同スクールの創業者のマキノ正幸は、日本映画の父・牧野省三を祖父に、映画監督・マキノ雅弘を父に持ち、長門裕之や津川雅彦が従兄というエンタメ界のサラブレッドである。

デビュー前、SPEEDの前身となったグループが、スクール内に存在したことはあまり知られていない。1992年、安室奈美恵らSUPER MONKEY'Sがデビューのために上京すると、その次を担う人材として、マキノは生徒の中から精鋭8人を選抜した。それが「BRAND NEW KIDS」。エース格は今井絵理子で、後にSPEEDになる他のメンバー3人も含まれていた。

その後、年月を経て同グループは6人に絞られる。そして迎えた95年―― 安室らSUPER MONKEY'Sが所属するライジング・プロダクションからスクール側に、新たなグループのデビューの話が打診される。そこでマキノは、スクールのエース・今井に加えて、成長著しい島袋のボーカル2人を推薦。それを受けてライジングは、ビジュアル面から上原多香子、そしてリーダー役として最年長でダンスに定評のある新垣仁絵を加えるよう提案――。

かくして、同年4月、晴れて4人組の新体制が固まる。時に、今井絵理子11歳(小学6年)、島袋寛子11歳(小学5年)、上原多香子12歳(中学1年)、新垣仁絵14歳(中学2年)―― 全員小中学生からなる、後のSPEEDがここに生まれる。名前はまだない。いわば、エース格の今井がジョン、可能性を秘めた島袋がポール、寡黙な美少女の上原がジョージ、最年長で後方から見守る新垣がリンゴと、どこかビートルズの編成と重ねて見てしまうのは単なる偶然だろうか。

globe の「Joy to the love」を歌いテレビ初出演


それから半年余りが過ぎた1995年11月11日―― 4人は、日本テレビ系の音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』にて、テレビ初出演を果たす。彼女たちが歌ったのは、globeの「Joy to the love」。粗削りながら、パワフルに歌い踊る姿に、司会の三宅裕司や安室奈美恵、MAXらレギュラー陣はスタンディングオベーション。そして、座りトークの中で彼女たちのグループ名が公募された――

3週間後の同年12月2日、4人は再び同番組に出演。今度は篠原涼子の「ダメ!」を熱唱した。その後、視聴者から寄せられたグループ名の候補の膨大なハガキを見せられる。いくつかの最終案の中から、本人たちが選んだのが「SPEED」だった。ちなみに、三宅裕司サンが推した「スーパーモンチッチ」は秒で今井絵理子に却下された。

SPEEDが日本テレビに厚遇された理由とは?


年が明けた1996年1月13日―― 4人は三度、同番組に出演。ここで正式に新グループ「SPEED」が結成される。ちなみに、この翌週の1月20日放送で、同番組は番組最高視聴率25.4%を記録する。当時、SPEEDのインパクトがいかに大きかったかの証左である。

それにしても―― 何ゆえ4人は、一介の新人ながら、ここまで日本テレビに厚遇されたのか。種明かしは、彼女たちが所属するレコード会社にあった。トイズファクトリー(当時)は、日本テレビ傘下のレコード会社・バップが源流。日テレとは深い関係にあった。加えて、『THE夜もヒッパレ』のレギュラー出演者である安室奈美恵やMAXを擁するライジング・プロダクションの強力なアシスト―― まぁ、要はバーターってやつである。

SPEEDのプロデュースを託された伊秩弘将


そんな次第で、SPEED―― このまま、とんとん拍子でデビューへと行きたいところだが、それは、まだ7ヶ月も先の話。そろそろ、あの男の話をしないといけない。彼女たちのデビュー曲から、グループ最初の解散まで全曲を作詞・作曲・プロデュースした人物、音楽プロデューサー・伊秩弘将サンである。

伊秩サンと言うと、僕のコラムにも度々登場するが、1987年に森高千里のデビュー曲にして名曲「NEW SEASON」で作詞家デビューを飾った御仁である。実は同年、渡辺美里の8枚目の両A面シングル「IT'S TOUGH/BOYS CRIED(あの時からかもしれない)」で作曲家デビューも。以降、その2人を始め、久宝留理子や谷村有美など、主にガールポップ歌手を中心に楽曲を提供。それと並行して、自身もソロシンガーとして数々のCMやテレビ番組とのタイアップを実現させる。ひと言で言えば “多才な方” である。

そんな伊秩サンが、ライジングの平哲夫社長からSPEEDのプロデュースを託されたのが、1996年―― グループ名も決まり、正式結成して間もなくのころ。当初、伊秩サンは流行りのユーロビート系の曲を書けばいいのだろう〜くらいにシンプルに考えていたとか。ところが、前述の『THE夜もヒッパレ』の彼女たちの出演回を録画で見返し、実際に4人と会ってみると、自分の見立てが間違っていたことに気づく。

彼女たちには、はっきりとスピリット(意志)があった。当時、一世を風靡していたアメリカの女性R&Bグループ「TLC」に憧れ、ヒップホップの世界への共感もあった。そこに “ニューエイジ” 感を嗅ぎ取った伊秩サンは、4人を夜の照明の下でユーロビートに埋もれさせるのではなく、太陽を浴びて砂漠で踊っているようなプリミティヴ(根源的)なイメージを与えようとした。

かくして、ここに “5人目のSPEED”―― 伊秩弘将プロデューサーが誕生する。ビートルズで言うところの “5人目のビートルズ”―― 4人を覚醒させ、ほぼ全ての楽曲を手掛けたプロデューサーのジョージ・マーティンと重ねて見てしまうのは僕だけだろうか。

2週間延期されたデビュー曲「Body & Soul」の発売日


デビュー曲のレコーディングは4月下旬から、およそ2ヵ月にも及んだという。当時、4人はまだ沖縄に住んでおり、レコーディングの度に上京した。その回数は7回を下らないとか。伊秩プロデューサーは、この原石を輝かせるには最初が肝心と、一切の妥協をしなかった。一方の4人も、初めてのレコーディングにハイになりつつ、限界まで歌い込んだ。伊秩サンはこれに手ごたえを感じ、最終的にキーを2音上げ、メインボーカルの今井と島袋は必死に食らいついた。

この “5人” の終わりのない格闘に、所属事務所のライジングとレコード会社のトイズファクトリー両者が理解を示し、作品の完成度を優先―― 結局、デビュー曲「Body & Soul」の発売は7月22日から2週間延期され、8月5日になった。初回の出荷枚数は7万枚。オリコン18位に初登場した後、そこから1ヶ月かけて最高4位まで上がった。累計セールスは60万枚以上。大成功だった。

 Body & Soul 全部脱いじゃえば
 Body & Soul 勇気を出して
 空を抱きしめて 風を受け止めて
 この手でつかもう!
 誰も止められない Body & Soul

SPEEDは社会現象になった。デビュー時点の4人の平均年齢は13.5歳。メインボーカルの2人は、中学1年と小学6年だった。アメリカ西海岸で撮影されたミュージックビデオには、太陽の下、パワフルに歌い踊る4人が映し出され、サビの印象的なメロディと、圧倒的なハイトーンボイスがティーンの心を捕らえた。4人のファッションも注目され、アメフトTシャツにハーフパンツ、ナイキのスニーカーのストリートファッションを真似する若者たちが街にあふれた。



ソロデビュー後、上原多香子はシングル「my first love 」でオリコン1位を獲得


新・黄金の6年間の後半の3年間、SPEEDは常に時代のトップランナーだった。音楽、ダンス、ファッション―― 彼女たちが時代を作り、また、時代が彼女たちを必要とした。2000年3月31日、解散。活動期間は3年と8ヶ月――このスピード感もまた、思春期の彼女たちらしかった。

様々な解散の原因が噂された。当初は今井絵理子を軸に作られたグループが、いつしか最年少の島袋寛子がグループの顔となり、人気・実力とも他の3人を凌駕。ある種のバランスを失ったのも原因の一端と考えられた。

4人はソロになった。最初に爪あとを残したのは、意外にもメインボーカル2人の影に隠れがちな上原多香子だった。シングル「my first love」は河村隆一のプロデュースで、オリコン1位を獲得。

それもまた、ビートルズの解散後、他の3人に先駆けてジョージ・ハリスンが「My Sweet Lord」でビルボード1位になったことに重ねるのは、僕だけだろうか。

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2023.08.05
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カタリベ
1967年生まれ
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