6月5日

6月16日は萩田光雄の誕生日 − 大場久美子の作品にみるそのぶっ飛びさ加減

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萩田光雄、音楽の出会いと成長


“あなたはあなたが食べたものでできている” と言われるが、音楽についても “聴いてきたもので耳ができている” と思っている。それを体現して、音楽を聴くわたしたちに示してくれたのが、萩田光雄さんだ。

1946年生まれの萩田光雄さんの音楽との出会いは、1960年、中学1年生の3学期にブラスバンドの応援を音楽の先生に頼まれたこと。打楽器に触れたことがきっかけで吹奏楽部に入部する。その後チューバを担当した。ここでリズム隊の基本を体得したという。

慶応志木高校の入学祝いにステレオセットをプレゼントされた萩田さんは、FM放送やFENでラテン、シャンソン、タンゴ、イージーリスニング、クラシックなどあらゆる音楽を聴いていた。とくにマントヴァーニ、レイモン・ルフェーブル、101ストリングス・オーケストラ等がお気に入りだったという。また高校時代に独学でギターをはじめ、慶應義塾大学工学部に進み、クラシカルギタークラブに入部。時代は1960年代後半でビートルズがリアルタイムの世代だったが、萩田さんはクラシックやイージーリスニング、そしてベンチャーズを好んで聴いていたという。

その後、1970年にヤマハ音楽振興会の作編曲コースに入学し、アルバイトを経て音楽の道に入ることになる。ヤマハが刊行していた音楽雑誌『ライト・ミュージック』の掲載記事のバンドコピー譜のコンテンツを担当したり、ポプコンに届いた応募曲の編曲をすることが実地の勉強となり、ヤマハの嘱託を経て、フリーのアレンジャーとなる。

萩田さんは書籍『ヒット曲の料理人 編曲家 萩田光雄の時代』において、このヤマハでの時期を「習作時代」「ヤマハはアレンジャー・萩田光雄のゆりかご」と称している。

ラテンで行こう! 作・編曲を担当した「エトセトラ」歌うは大場久美子


萩田さんは70年代半ばからは数多のヒット曲のアレンジを手掛けた。山口百恵さん、太田裕美さん、南沙織さん、岩崎宏美さん、男性陣では新御三家などの当時アイドルと言われた方々、ベテランでは梓みちよさん、小柳ルミ子さん、布施明さん。ロック系の桑名正博さん、他にもフォーク・ニューミュージック系含めて様々なジャンルの楽曲のアレンジや作曲をしている。80年代に入っても歌謡界になくてはならない作・編曲家のひとりだった。落ち着いた雰囲気の流麗なストリングスアレンジは萩田さんの作品の大きな魅力だが、それだけでなく変幻自在に、各歌手に合わせた作品を生み出している。

萩田さんが作曲まで担当したひとりが大場久美子さん。1977年に17歳で東芝レコードからデビューしたアイドルだ。「一億人の妹」のキャッチフレーズで、歌手だけでなくHOYAやハウスプリンなどのコマーシャル、グラビアや映画、『コメットさん』などのテレビドラマでも活躍した。

デビュー曲の「あこがれ」(1977年)から一部の曲を除いてシングル曲は萩田光雄さんがアレンジを手掛けた。初期は典型的なアイドルソングだったが、ある時期からぐっとラテンやディスコ的な、萩田さんにしては珍しく遊んだ雰囲気の作品が目立ってくる。前述の書籍によると、大場久美子さんを担当していた東芝EMIのディレクターの渋谷森久さんと萩田さんで、ラテンで行こうと決めたはず、とのこと。

ロッテチョコレートのCMに起用された3枚目のシングル「大人になれば」(1978年2月、作曲:浜口庫之助さん)が既にボサノバでラテンの萌芽があったが、路線が加速したのは萩田光雄さんが作曲・編曲を担当した4枚目のシングル「エトセトラ」。賑やかなホーンズやパーカッションが目立つ、華やかでトロピカルなサウンドが聴いていて楽しい。テレビの歌番組では白いミニワンピースに高いヒールを履いて踊りながら元気に歌っていた。歌の最後では「エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ」に合わせたアクションが可愛らしい。

大場久美子のヴォーカルも計算のうち? 実際歌うと難しい凝ったメロディライン




お人形さんのような顔立ちと、ミニスカートの衣装。踊りも決してうまいかというとそうでもない。普通のちょっとかわいい女の子がアイドルをやっていたという感じに見える。歌う声は実際の年齢よりも少し幼く、危なっかしくて守ってあげたいような不安定さ(マキタスポーツさんが言う “フェアリー”)があり、破壊的な歌唱力とか、当時は散々言われていたものだ。

「エトセトラ」含め、彼女のオリジナル楽曲は歌うには難しい曲が目立つ。試しに動画に合わせて歌ってみたら難しいこと。彼女がアイドル歌手として活動した2年間の歌番組での歌唱映像を見る限り、アップテンポで、かなり凝ったメロディラインの曲が多いのだ。「ディスコ・ドリーム」(1978年12月発売)「スプリング・サンバ」(1979年3月発売)といい、どれも結構難曲だ。2曲とも作曲は和泉常寛さんでアレンジは萩田さんのクレジットだが、いま聴いてみると彼女の個性的なヴォーカルを多種の楽器のうちのひとつとして捉えて、多少音程が外れるのも作り手側の計算のうちだったようにも思える。

未完成なアイドル作品だからできたことかもしれない。その後歌手活動を辞める際の記者会見で「音痴だから」という発言があったようだが、アイドル歌手後半は、故意に外し加減に歌っていたのではないかとも思える。1979年8月発売のシングル「フルーツ詩集」のテレビ番組での歌唱を見て私が感じたことだ。

数々の音楽を聴いてきた萩田光雄ならではの作品群




彼女の作品で他に面白いものとして、アルバム『Kumikoアンソロジー』(1979年3月発売)収録の「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のカヴァーがある。まごうかたなきビートルズのカヴァーで、歌詞を割合忠実に日本語に置き換えていて、ファンに向けてのスタッフや久美子さんからの愛情がダイレクトに伝わる歌詞となっている。その歌詞が載るサウンドはフュージョンから16ビートにのせたラップ風の歌唱、60年代のロックミュージカル的場面等、時空を飛び越えたような様々な音楽のごった煮で、一聴の価値がある。

「女優の世界にお嫁に行きます」1979年10月19日、嵐の中の日本武道館でのコンサートをもって、大場久美子さんは歌手活動にピリオドを打った。これは日本武道館における女性アイドル歌手のはじめての単独公演だった。

アイドル歌手として活動した2年間を、「とにかく楽しかった」と大場久美子さんは後年テレビ番組で語っている。1979年にしては新しすぎるアイドルだった。ルックスも、楽曲も。

それにしても、楽曲のサウンドを構築した萩田さんのセンスの鋭さには恐れ入る。この後も数々のアイドル作品の作曲やアレンジを手掛けられたが、その後ここまでぶっ飛んでいてかつ破綻のないシングル作品群はなかったように私は思うのだ。学生時代から数々の音楽を聴いてきた萩田さんならではの賜物だと感じている。

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2022.06.16
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カタリベ
1965年生まれ
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