新・黄金の6年間 ~vol.3■ COUNT DOWN TV
放送局:TBS
放送開始:1993年4月8日
1993年4月8日に始まった『COUNT DOWN TV』
新・黄金の6年間がある。
1993年から98年にかけてエンタメの世界に新しい才能たちが台頭し、大ヒットを連発した時代である。テレビドラマはフジテレビの月9を筆頭に、視聴率25%超えが当たり前になった。
音楽界は小室ソングが牽引するように、ミリオンセラーを連発した。『週刊少年ジャンプ』は『SLAM DUNK』などを核に最大発行部数653万部を記録し、アニメ界は庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象となった。
しかし―― そんな栄華も1998年、ひとりの天才歌姫(ディーバ)、宇多田ヒカルの登場で時代は次なるステージへ移行し、新・黄金の6年間は終わりを告げる。小室哲哉曰く「ヒカルちゃんが僕を終わらせた」――。
新・黄金の6年間を象徴するワードがある。
「スモール」、「フロンティア」、そして「ポピュラリティ」だ。
スモールとは、小回りの利く小さなユニットで創造的に動くこと。フロンティアとは、既成の概念に捉われずに新天地へ乗り出すスピリット。ポピュラリティとは大衆性、即ちベタ。ある属性の人たちのセンスを問うカルチャーではなく、誰もが共感できるクリエイティブを指す。
そんな時代を象徴する1本の音楽番組が、今回のテーマである。奇しくも、今から30年前の今日、1993年4月8日に始まった『COUNT DOWN TV』(TBS系)がそう――。
「ザ・ベストテン」の終了、そして“音楽番組冬の時代”へ
かつて、“音楽番組冬の時代” があった。
――と書くと、今がそうじゃないように聞こえるけど、実は今も、音楽番組冬の時代。夏と冬の音楽祭は盛り上がるが、レギュラーの音楽番組はほとんど話題にならない。同様に、1980年代末から90年代初頭にかけても、音楽番組は冬の時代にあった。
それを象徴するのが、1989年9月の『ザ・ベストテン』(TBS系)の終了である。そして翌年、『歌のトップテン』(日本テレビ系)と『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)も相次いで姿を消した。
気づけば、ゴールデン帯の音楽番組は『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)のみに――。それも、視聴率は10%前後と低迷した。
“音楽番組冬の時代” である。
次なる時代の変化の兆しは、1992年10月だった。奇しくも、同じ月に2つの音楽番組が久々にゴールデン帯に登場する。『MJ -MUSIC JOURNAL-』(フジテレビ系)と、『突然バラエティー速報!! COUNT DOWN100』(TBS系)である。
前者は秋元康サンが構成で関わり、毎週一組のミュージシャンを多様な視点で掘り下げるもの。ある意味、音楽業界誌的な構成だったが、テレビ的じゃなかった。後者は毎週100位から1位のランキングを発表し、合間にゲストのライブやトークを挟むフォーマット。画がうるさく、演出もバラエティに寄せ過ぎた嫌いがあった。
どちらも視聴率が伸び悩み、『MJ ~』は1年半後、『突撃バラエティー~』はわずか半年で打ち切られる。要因として、両者ともランキング上位に来るアーティストをなかなかブッキングできないという裏事情があった。しかし―― 実はそこに、次なる音楽番組のヒントが隠されていたのである。鍵を握るのは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いでランキングを席捲した、あのグループである。
―― そう、ビーイングだ。
90年代の “ビーイング時代” の幕開けへ
ビーイングは、オフィス・トゥー・ワンを退社した長戸大幸氏が、1978年に設立した音楽制作会社である。出資者に作詞家の阿久悠が名を連ね、ミュージシャンの織田哲郎も設立メンバーのひとりだった。当初はヒットが出ずに苦しむが、1985年にTUBE、88年にB'zがデビューして、ようやく軌道に乗る。
そして90年―― BBクイーンズの「おどるポンポコリン」が、よもやのミリオンセラーを記録し、いよいよ90年代の “ビーイング時代” が幕を開ける。
それが、お茶の間に可視化されたのは―― 奇しくも先の2つの音楽番組が始まった1992年の暮れだった。同年ラストの週でオリコン1位に登場したのは、中山美穂&WANDSの「世界中の誰よりもきっと」――。
―― そして、同曲は翌93年の初週も1位を獲り、ダブルミリオンを達成する。
それが、狼煙の合図だった。
そこから間を置かず、次にオリコン1位になったのは、今度はWANDS単体の「もっと強く抱きしめたなら」だった。そして2月には同事務所のT-BOLANが「おさえきれない この気持ち」で1位に立ち、3月には、あのZARDが「負けないで」で遂にブレイク、念願の1位に――。
怒涛のビーイング1位ラッシュ。この年、同事務所は年間50週のうち、実に26週を制する。
深夜帯ながら、視聴率6〜8%という大健闘
この状況を逆手に取ったのが、先の打ち切りが決まった『突然バラエティー速報!! COUNT DOWN100』の大崎幹プロデューサーだった。
彼は、先の番組がゲストに左右されたのを反省し、比較的評判がよかったランキング発表に特化した新たな音楽番組を企画する。番組の尺は60分から30分にスリム化し、ランキングもTOP100からTOP40に縮小。
一方、1曲あたりの紹介する秒数を増やし、アーティストのビジュアルや楽曲をより楽しめるようにした。何より画期的だったのは、スタジオも出演者も置かず、CGで見せたこと。そして、深夜帯に引っ越した。要するに―― 超・低予算番組である。
―― そう、『COUNT DOWN TV』がここに始まる。
番組スタートは、1993年4月8日の木曜深夜。関東ローカルである。『突然バラエティー~』の終了から、わずか12日後。新・黄金の6年間らしい “スモール” な船出だった(だから自由にできた)。
画面は全面CGで構成され、進行役もCGのキャラクター3人が務めた。向かって左端が野球帽をかぶった少年アビー君(声:石川寛美)、センターが逆三角形顔で眼鏡をかけた菊池君(声:菊池正美)、そして右端が女性アシスタント(※3代目以降、歴代のTBS女性アナウンサーが担当)である。
大崎プロデューサー曰く、当初は視聴率など考えずに、音楽業界向けに、ひたすらデータ重視で作ったという。TOP40としたのも、米ビルボードの匂いが感じられるから。
ところが、そんな無駄を削いだフォーマットが、逆に十代の視聴者には新鮮に映り、たちまち口コミで評判になる。半年後には、高校生でも見やすい土曜深夜に枠が移り、1年後には全国ネットとなった。
同番組は深夜帯ながら、視聴率6〜8%と大健闘する。
90年代に実現した日本におけるMVの普及
ヒットの要因は、シンプルにヒット曲を見れた(聴けた)からである。番組出演の少ないビーイング勢も、同番組ならPV(プロモーションビデオ)で堪能できる。
そう、日本におけるPVやMV(ミュージックビデオ)の普及は、80年代にMTVの登場で一気に拡散した米国から遅れること10年―― 90年代にようやく実現した。そのムーブに同番組が果たした役割は少なくない。
ちなみに、同番組のランキングの40位から4位までの1曲あたりの紹介秒数は均一である。トップ3のみ少し長い。下位と上位の尺を同じにしたことで音楽業界は好感を示し、一方、十代の視聴者は次に来るミュージシャンをより詳しく知ることができた。
何せ、前番組の『突然バラエティー~』時代、ランキング下位の紹介は1曲あたり、わずか2秒であった。
CDを買うために見る音楽番組
そして番組がヒットしたもうひとつの要因―― カラオケだ。カラオケ市場は1990年代に入り、それまで郊外にしかなかったカラオケボックスが市街地にも進出。急速に店舗を増やし、マーケットが一気に拡大した。
92年にはそれまでのレーザーディスクの進化形として、通信カラオケが登場。ヒット曲をリアルタイムで歌うことが可能になり、若者たちは競って最新ヒット曲の習得に励んだ。CDシングルのセールスが飛躍的に上昇するのも、この頃からである。
そう、『COUNT DOWN TV』が特に高校生たちに響いたのは、彼らは土曜の夜にいち早くヒット曲を知り、翌日の日曜日にレコードショップにCDを買いに行くため――。
カラオケで誰よりも早くヒット曲を歌いこなす―― それが、当時の高校生たちのステータスだった。
何より、同番組は新聞のテレビ欄でこう表記されたのだ。―― CDTV。まさに、それはCDを買うために見る音楽番組だった。同番組が90年代の音楽市場のミリオンセラーの量産に果たした役割は少なくない。
1994年10月、フジテレビ系でダウンタウンを司会に新たな音楽番組『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』が始まった。2年後の96年10月には、TBS系で『うたばん』、日テレ系で『速報!歌の大辞テン!!』が相次いでスタート。
気が付けば―― 音楽番組の季節は、夏を迎えていたのである。
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2023.04.08