1993年 5月15日

Jリーグ開幕30周年!当時のチェアマン 川淵三郎の開会宣言はなんとわずか30秒

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新・黄金の6年間 ~vol.6
■ Jリーグ開幕
開幕:1993年5月15日

わずか30秒の開会宣言。1993年5月15日、Jリーグ開幕


「開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに、大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン、川淵三郎。」

―― この間、わずか30秒。

これは、今年30周年を迎えるJリーグが、その歴史的扉を開けた国立競技場での開幕セレモニーで、川淵三郎チェアマン(当時)が発したスピーチである。民放テレビで流れるCMと同じサイズだった。僕は当時、テレビでこの短いスピーチを聞いて、やたらと感動したことを覚えている。間違いなく、それは新しい時代の扉が開いた瞬間だった。

思えば、一昨年の2021年に開催された東京オリンピックの開会式で、IOCのバッハ会長が発したスピーチは13分もあった。また、昨年夏の甲子園大会の開会式で、主催者の朝日新聞社社長が行った挨拶は、コロナ禍で式が簡素化される中で3分もあった。そう、偉い人の話は長い―― それは、小学校の全校集会の校長先生の挨拶から、僕らが学んだことだった。

ところが―― Jリーグはわずか30秒。しかも、開幕セレモニーはリーグ史において一度きりの大イベントである。川淵サンは当時、この尺にした理由を問われ、「これなら、当日夜のニュース番組でも編集なしで使ってもらえる」と、ユーモラスに答えている。

そう、今回のコラムは、今から30年前の今日、1993年5月15日に新しい扉が開いた歴史的イベント、Jリーグの開幕である。それは、僕が唱える90年代のエンタメ全盛期―― 1993年から98年の“新・黄金の6年間”の幕開けを飾るに相応しい、象徴的な事件でもあった。キーワードは「地方」―― そして「フロンティア」である。

日本サッカーリーグ創設までの道のり


話は少しばかり、さかのぼる。

日本のサッカーの歴史は、華々しい黎明期と、その後の長いトンネルの冬の時代と、そしてJリーグ開幕から現在に至る時代と、大きく3つの時期に分けられる。まず黎明期――“日本代表” はいきなり爪痕を残す。1936年のベルリン・オリンピックで学生主体のチームながら、優勝候補のスウェーデンを3対2で破り、ベスト8に入ったのだ。世にいう「ベルリンの奇跡」である。

そして戦後―― 1960年に西ドイツ(現・ドイツ)から、後に「日本サッカーの父」と呼ばれるサッカー指導者のデットマール・クラマーを招聘する。クラマーは世界レベルのコーチングを日本に導入、その甲斐あって代表チームは1964年の東京オリンピックで強豪アルゼンチンを破り、ベスト8に進出。更にクラマー帰国後も、釜本邦茂、杉山隆一らクラマーの教え子たちは技術の向上に励み、68年のメキシコ・オリンピックで価千金の銅メダルを獲得する。

更に、クラマーは帰国にあたり、日本サッカーにもう一つの置き土産をした。それが――“リーグ戦の創設” である。曰く「リーグ戦形式にしなければ日本の強化にはならない」―― かくして1965年、日本初のサッカーのアマチュアリーグ「日本サッカーリーグ」(JSL)が創設される。先のメキシコ五輪の銅も、このリーグ戦を通じて代表選手たちが切磋琢磨できた要因が大きかった。

日本で徐々に高まるサッカー熱、「キャプテン翼」の影響も


ところが―― 70年代に入ると、日本サッカーは長いトンネルに入り、冬の時代を迎える。オリンピックはメキシコの次のミュンヘン以降、出場はおろか、アジア予選で敗退を重ねる。ワールドカップに至っては、1954年の初参戦以来、まったく歯が立たない状況だった。

一方で、日本サッカー協会(JFA)は、1977年の国立競技場でのペレの「引退試合」で7万人を動員した成功体験を皮切りに、79年にはFIFAワールドユース選手権を招致する。同大会は、アルゼンチン代表のマラドーナが6ゴールを決めて、MVPに選出。一躍、日本にマラドーナブームが到来したことでも知られる。

更に、1981年からは、欧州と南米のクラブチームによる世界一決定戦「トヨタカップ」が中立国である日本で毎年開催されるようになり、80年代―― 日本のサッカー熱は徐々に高まる。同時期に週刊少年ジャンプで連載が始まった高橋陽一原作の漫画『キャプテン翼』の影響も少なくなかった。

思えば、僕の中高時代がまんま80年代前半と重なるんだけど―― 当時のサッカー部は、野球部と並ぶ花形クラブだった。どうかしたら、サッカー部のほうが女子にモテたくらい。しかし、肝心の日本サッカーリーグの試合は閑古鳥が鳴く状況だった。日本代表に至っては、86年のW杯メキシコ大会、88年のソウル五輪と、またもやアジア予選敗退。いよいよJSLとJFAが危機感を募らせる。



前途は多難のプロリーグ化。川淵三郎がとった方法とは?


1988年3月、JSL―― 日本サッカーリーグは事務局内に「活性化委員会」を立ち上げる。各チームの実務者による、チーム強化のための議論の場である。ここで会議を重ね、翌89年の3月に出た結論は――“日本サッカーリーグのプロリーグ化” だった。しかし、この案はJSLの評議会で否決される。評議会のメンバーは各チームの親会社の取締役が務める事が多く、サッカーの知識に乏しい彼らにしてみれば、サッカーチームは会社の福利厚生の一部門に過ぎなかった。

この時、一人の男が立ち上がる。彼は、改革に後ろ向きなJSLに見切りをつけ、同リーグ内の活性化委員会を解散。新たに、JFA―― 日本サッカー協会副会長の長沼健に要請し、JFA内に「プロリーグ検討委員会」を設置する。男の名は川淵三郎。JSLの総務主事を務めながら、JFAにも顔が利いた。ここへ至り、プロリーグの主体がJSLからJFAへ移ったのである。時に1989年6月―― Jリーグ設立へ向けた第一歩は、ここに始まる。

よく知られた話だが、Jリーグの初期、リーグとタッグを組んだのは電通ではなく、同じく広告代理店の博報堂だった。電通は1977年のペレの引退試合以降、FIFAワールドユース選手権にトヨタカップと、日本サッカー協会とは順調に信頼関係を築いてきたが、実のところ、当時は日本におけるプロリーグ化は勝算が低いと読んでいた。

実際、かつてアメリカに1967年から84年の17年間のみ存在した「北米サッカーリーグ」なる失敗例もあった。ペレやベッケンバウアーなど、外国から有名選手を集めるも―― マーケティングに失敗。4大スポーツの壁にも阻まれ、人気が失速。撤退するチームが相次いで空中分解した。正直、日本でもサッカーのプロリーグは時期尚早という意見が少なからずあり、前途は多難だった。

そこで、川淵サンがとった方法が「この指とまれ」方式だった。時に、1990年3月―― それは、既存のJSLの強豪チームにプロ化を働きかけるのではなく、プロリーグへの参加条件を掲げ、広く募集をかけるというもの。モデルにしたのは、ドイツのブンデスリーガだった。その条件とは――

■ チームの法人化
■ ホームタウンの確立
■ 1万5000人以上収容可能なナイター設備付きの競技場の確保
■ 18人以上のプロ選手との契約
■ ジュニア / ユースなど下部組織の運営―― 等々。

―― 正直、それらのハードルは相当高い。企業が片手間に福利厚生でやれるものじゃない。将来的に、チーム名から企業名を外すことも内示された。それにも関わらず、当初設定された8枠を大きく上回る20チームが名乗りを上げた。翌91年2月、予定から2枠増やし、プロリーグに参加する10チームが決定した―― Jリーグの初年度を飾る「オリジナル10」である。

選考で重視したのは、東名阪に偏り過ぎず、地方にも目を向けることと、ホームタウンの熱意だった。それは即ち、連邦制を掲げるドイツのブンデスリーガの姿である。住友金属(後の鹿島アントラーズ)はJSLの2部チームで、地元の鹿島町(当時)の周辺人口も4万5000人に満たず、当初は最も不利と思われた。しかし、住金と地元関係者の熱量は高く、最終的に屋根付きで1万5000人収容できるサッカー専用スタジアムを作ることが決め手になり、最後の10番目に選ばれた。if―― もしもあの時、住金が選ばれなかったら、その後のJリーグの歴史はどうなっていただろう。

6万人近い観客で埋め尽くされ国立競技場、新しい時代を迎える高揚感


1991年11月、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が設立。川淵サンが初代チェアマンに就任した。愛称の「Jリーグ」は博報堂の発案だった。この時点のJリーグの目標は、2002年のワールドカップの自国開催であり、それまでに自力でW杯の本選に出場することだった。オリンピックと違い、W杯は都市ではなく、全国が会場になる。そのために、全国各地にW杯の規定をクリアするスタジアムを作る必要があった。そのためのJリーグでもあったのだ。

1993年5月15日、国立競技場は満員の6万人近い観客で埋め尽くされていた。開幕ゲームのヴェルディ川崎対横浜マリノスのキックオフの30分前の夜7時―― 暗転のスタジアムでセレモニーが始まった。鳴り響くJリーグ公式テーマ曲「J'S THEME」と、会場を交差する幻想的なレーザー光線。次の瞬間、テーマ曲の作曲者であるTUBEのギタリスト春畑道哉サンとダンサーたちが登場すると、彼らはフィールド全体を使ってパフォーマンスを繰り広げた。



それから、「オリジナル10」の巨大フラッグたちがフィールドを覆った。暗転後―― それらは、巨大なJリーグのマークに早変わりした。かと思えば、Jリーグのマスコット「J-boy」が巨大なバルーンと化して立ち上がった。そして、冒頭でも触れた川淵チェアマンの粋な短いスピーチに、スタンドはチアホーンを鳴らして歓喜した。クライマックスは、TUBEの前田亘輝サンによる「君が代」独唱。完璧な歌声に、観衆は思わず息をのんだ。

その夜、国立競技場の人々と、テレビの前のお茶の間は、新しい時代を迎える高揚感に包まれていた。

「ドーハの悲劇」が起きる、5ヶ月前の話である。



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2023.05.15
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カタリベ
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