連載【佐橋佳幸の40曲】vol.22
渋谷で5時 / 鈴木雅之
作詞:朝水彼方
作曲:鈴木雅之
編曲:有賀啓雄
佐橋佳幸にとって “あのお兄さんたち” だったラッツ&スター 「僕らがUGUISSでデビューした83年は、ちょうど “シャネルズ” が “ラッツ&スター” へとバンド名を改名した年でした。デビューした時からずっと、いわばEPIC・ソニーの “顔” として活躍していたセンパイがた。だから自分たちがデビューした時、僕は “ああ、あのお兄さんたちと同じレコード会社になったんだなぁ…” と感無量でしたよ」
佐橋佳幸がラッツ&スターのことを “あのお兄さんたち” と呼ぶ理由は、彼が都立松原高校に通う高校時代へと遡る。UGUISSの面々に出会う前、友人たちと組んだバンドで文化祭出演をめざしていた1年生の頃の話だ。
ある日、その同級生バンドの面々と共に、東京・大井町にある “シブヤ楽器” のスタジオで練習をしていた時のこと。佐橋は、休憩時間に店の外にある自動販売機で飲み物を買おうとしていた。すると後ろから、「オレはコーラがいいな」「オレはサイダーな」とドスの効いた声が…。振り返ると、見るからにおっかない不良リーゼントお兄さんたちに囲まれているではないか。恐れおののいた佐橋は一目散に逃げ出した。その後、いたいけなサハシ少年をビビらせたお兄さんたちは同じ東京・城南地区で活動していたアマチュアバンド、まだ結成間もない頃のシャネルズだったことが判明する。
ギターを弾かせたら超高校級の天才少年もシャネルズにはかなわなかった。これが、今ではすっかり話に尾ヒレがついて(←つけたのは、何かにつけMCのネタにしていた佐橋本人だが)伝説となった “大井町カツアゲ事件” である。
ソロになった鈴木雅之のレコーディングに呼ばれるようになった佐橋佳幸 そんなシャネルズは1980年にシングル「ランナウェイ」でデビュー。UGUISSがデビューした1983年には心機一転、ラッツ&スターという新たなバンド名の下、改名第1弾シングル「め組のひと」を大ヒットさせ、さらに続く第2弾、アマチュア時代からの師匠筋にあたる大瀧詠一の作曲・プロデュースによる「Tシャツに口紅」をリリース。快進撃を続けていた。やがて86年、鈴木雅之は大沢誉志幸に作曲を依頼したシングル「ガラス越しに消えた夏」で本格的にソロ活動をスタートさせる。
「デビューしてから、お互いのバンド時代にはほとんど接点はなかったんだけど。マーチン(鈴木雅之)さんがソロになって、わりと早くからギターで呼んでもらっているんです。その理由はふたつあって。ひとつは、マーチンさんのレコーディングでは、これまで何度も名前が出ている、当時EPICの人が本当によく使っていた “スマイルガレージ” というスタジオが使われることが多くて。そこには、僕のことをものすごくよく知る伊東俊郎さんと佐藤康夫さんというおふたりのエンジニアがいたという縁。もうひとつは松本晃彦と有賀啓雄というふたりのアレンジャーの存在。当時まだ若手だった彼らをマーチンさんが気に入って、たびたび起用していたんです。僕はふたりとも仲が良かったので、彼らから呼ばれる形でギターを弾くことが多かったんです」
と、そんなふうにして、佐橋はたびたび鈴木のレコーディングに呼ばれるようになった。ちなみに、山弦の相棒でもある小倉博和も鈴木雅之作品ではおなじみのギタリストのひとり。山弦として参加する機会はなかったものの、同じアルバムの中で別々の曲に参加していたり、実は山弦を結成するずっと前から鈴木のスタジオセッションでは何度もニアミスをしていたらしい。
佐橋、小倉へ、鈴木雅之からのサプライズプレゼント 2000年2月、当時FM香川で放送されていた山弦がパーソナリティを務める番組『山弦 One More Music』(1999〜2004年)に鈴木雅之がゲスト出演した時のこと。番組が始まったとたん、鈴木はおもむろにポケットから1枚の紙を取り出した。それは、これまで佐橋、小倉がそれぞれに参加した鈴木のレコーディング曲の一覧だった。長いつきあいのふたりの番組に出演するのだから…と、前夜、自宅でCDのクレジットを調べながら自ら書き出したという手書きのリスト。これまで数多くの名曲をサポートしてくれてきた彼らへの感謝をこめた、粋なサプライズプレゼントだった。佐橋と小倉の弾くギターが、ボーカリストとしての自分をどれだけ盛り上げてくれたか…。番組の中で鈴木からあらためてそんな話を聞き、恐縮しまくる山弦のふたり。佐橋は今でも、その時にもらったリストを大切に持っている。
資料提供:佐橋佳幸 「仕事の上では、ギタリストとしての佐橋佳幸を尊重してくれて。でも、会えばいっつも “おう、サハシ!” みたいな感じでね。ちゃんとセンパイ風を吹かせてくれる。その “風” が僕はすごく心地いいんです」
ラブソングの王様と永遠のアイドルの顔合わせ「渋谷で5時」 鈴木との共演作の中、とりわけ思い出深い1曲が「渋谷で5時」。今さら説明は不要だろう。93年のアルバム『Perfume』に収録され、翌年1月には「違う、そうじゃない」との両A面シングルとしてもリリースされた菊池桃子とのデュエット曲だ。“ラブソングの王様 ” 鈴木と “永遠のアイドル” 菊池、という異色の顔合わせが生み出したデュエットソングの新境地。今ではデュエットものの大定番、時代を超えて長く愛され続けている。
「この日も有賀くんに呼ばれてスマイルガレージに行ったら、スタジオには(佐藤)康夫さんがいて。いつもの顔ぶれでギターダビングが始まったの。たしか僕が最後のダビングだったんじゃないかな。その時点ですでに歌も入っていたし、ブラスのダビングも終わってた記憶がある。まず有賀から、これこれこういう曲なんだけど、という説明があって。“佐橋くんからもちょっとここに何かアイディア出してほしいんだよね” って相談されたの」
「で、“わかった。じゃ、まず一度曲を聴かせて?” と、有賀の手書きコード譜みたいなのを見ながらオケを聴き始めたら、いきなり女の子のフワフワッとした声が聴こえてきたの。マーチンさんの曲だって聞いてたのにさ。“何これ!?” ってビックリ。そしたら、歌っているのはあの菊池桃子さんだというじゃない。まぁ、有賀たちはすでに作業をしてるから知っていたんだけど、僕はデュエット曲ということすら知らされていなかっただけに、それはもう、ものすごいインパクトだった(笑)」
「マーチンさんの、あのソウルフルな歌声とのデュエットで「♪渋谷で5時〜」とか歌っててさ。うわー、これ、めっちゃ面白いねーって盛り上がった。もちろん、僕がレコーディングスタジオで驚いたように、やっぱり世間にも衝撃を与えたよね(笑)。J-POP史に残るひとつのスタンダード曲になったし。マーチンさん自身のキャリアの中でも、ちょっと面白い曲になりましたよね」
VIDEO
誰もが想定外だった菊池桃子とのデュエット ロックンロールからテクノ、R&B、さらにはアイドル… と百戦錬磨、たいていのことには驚かない売れっ子セッションマンのサハシも驚いた。鈴木雅之のデュエット曲といえば、ラッツ&スター時代に姉・鈴木聖美を迎えた「ロンリー・チャップリン」という名曲もある。が、その姉弟デュエット以上に誰もが想定外だった菊池桃子とのデュエット。この曲が世に出たらものすごいインパクトになるだろうな… と想像して、佐橋は大いにワクワクしたという。
全米トップ40ヒットに育てられ、さまざまなヒット曲誕生物語を読んでは胸躍らせてきた音楽オタクの佐橋が、この瞬間、間違いなく大ヒットするであろう名曲が生まれる瞬間に自分が居合わせることになったわけだ。ギタリストとしての仕事にもより、一層熱が入るというものだ。
「まず全編にリズムギターを入れました。で、いちおう完成して “おー、いい感じ” となったんだけど。ここでまた、例によって僕は “あっ!” とひらめいてしまったんです(笑)。ここにジョージ・ハリスン的なスライドギターを入れてみたらさらにいい感じになるんじゃないか、と。ま、僕がスライドを入れようと思いつく時はたいていジョージなんだけどね(笑)。槇原敬之くんの「もう恋なんてしない」の時と同じようなパターンなんですけど、アレンジャーの有賀に、“ちょっとスライド入れてみてもいい?” と。で、ここでハモろうかとか、ここには入らないかなとか、このフレーズはどうかなとか、有賀と相談しながらスライドを入れていったの」
「今みたいに、デジタルで音のコピペをしたりできない時代だから、繰り返すところもいちいち全部弾いて。けっこう時間をかけていろいろ試してみて。で、ああいう形になったんです。でね、このスライドギターを入れたいと思った理由は、もうひとつあって。この曲を最初に聴かせてもらった時から、曲調も含めて、僕の中でのイメージとして思い浮かんでいた曲があったんです。それはね、シルバーの「恋のバン・シャガラン」(笑)」
70年代半ばに米国西海岸を中心に活躍したシルバー。もともとシンガーソングライター、エリック・アンダースンのアルバムセッションをきっかけに結成されたロックバンドだ。中心メンバーのトム・レドンはトム・ペティの高校時代の同級生で、イーグルスの創設メンバーでもあるバーニー・レドンの弟さん。「恋のバンシャガラン(Wham Bam(Shang-A-Lang)」はそんなシルバーが1976年にリリースし、全米16位に送り込んだ唯一の大ヒットシングルだった。同年アルバムも発表しているが、その後すぐに解散。楽曲の完成度も演奏力も高く評価されながらたった1枚のアルバムを残して解散した短命のグループということで、どこかUGUISSに通じるものがあるような…。ここでいきなり「恋のバン・シャガラン」が出てくるのが、とってもサハシ。
「あの曲、シルバーのアルバムの中では唯一R&Bテイストの曲というか。ちょっと浮いてる感じがする曲なんですよね。でも、シルバーの曲でいちばんヒットしてるし、僕がシルバーを知ったのもそのおかげなんです。そういう、いい意味での “異質感” というのかな… 初めて「渋谷で5時」という曲を聴いた時の “何これ!? ” という驚きとか、今までのマーチンさんからは想像できないけど、その意外性も含めてマーチンさんらしくて面白いなと思ったこととか。そういういろんな要素が重なって「恋のバンシャガラン」を連想したのかもしれない。とにかく、そんなイメージがふっと浮かんだので、最後にどうしてもスライドギターを入れてみたくなったんです」
佐橋にとって無二の盟友だった有賀啓雄 さすが、子供の頃からのヒットチャートマニアならではの連想ゲーム。が、その思いつきが採用されたのも、「いいね!」と一緒に盛り上がってくれた有賀啓雄の存在があってこそ。この時期、佐橋がセッションギタリストとして、あるいは編曲家として、飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子になっていく過程には、有賀や、前回、川本真琴の回に登場したマニュピレーターの石川鉄男ら、躍進する同世代クリエイターたちとの邂逅も重要な役割を果たしている。
2023年2月、58歳という若さで亡くなった有賀啓雄。ベーシスト、作・編曲家、そしてシンガーソングライターとして多方面で活躍した、佐橋にとって無二の盟友。藤井フミヤ、小田和正、渡辺美里など、佐橋とも親交の深いアーティストたちとの仕事にも多数関わってきた。先だって佐橋も語っていた通り、まだ若手だった頃から鈴木雅之は有賀を多くの作品で起用。有賀亡きあとのコンサートツアーでは、有賀との思い出を語り、彼と作り上げた曲を歌うコーナーを設け、かけがえのない才能を追悼した。
有賀啓雄 「そう。この時も “面白いね、やってみよう” と、すぐにわかってくれて一緒にいろいろ考えてくれた。有賀の存在は大きかったな。仕事を始めた頃はアレンジャーもプログラマーもプロデューサーも、みんな上の世代のセンパイたちが圧倒的に多かった。でも80年代の終わり頃からかな、同世代のアレンジャーとの仕事がどんどん増えていって。同世代だとよりいろいろアイディアを求められるし、こっちも “何かこういうのをやってみたらどうかな?” とか、“うまくいくかわからないけど試しにやってみない?” とか、面白がったりしながらできるからね」
「特に有賀とのスタジオはいつもツーカーなやりとりで物事が進んでいくから。仕上がりも早かった。この時も有賀といろいろ試しながら作っていく作業がすごく楽しかったっけ。あっという間に終わった記憶があります。アイディアがうまくハマって、完成して、みんな大喜びで帰ったこともよく覚えてる。うわぁ、でも、このセッションももう30年前のことなんだねぇ…」
ちなみに、今回この曲を聴き返してみて、佐橋は自分のプレイにびっくりしたらしい。自分でも忘れていた “細かすぎて伝わらないモノマネ” 的なネタがそこには仕込まれていたようだ。
「この曲、まぁ基本はナイル・ロジャーズとか、ああいう80年代ファンクっぽいリズムのR&B系ギターを弾いてるんだけど。昨日あらためて聴き直したら、その中でオレ、エイモス・ギャレットを一発かましてるんだよ。どうしてそういうことしちゃうのかな。やっぱオレ、バカなのかな(笑)。ちょっと1小節、ほんの2拍だけエイモスを入れてみました。普通だったらおしゃれに「♪シャラ〜ン…」ってフィルを入れるところを、泥臭く「♪ふにゃー…」って(笑)。これ、あまり気づかれていないというか、たぶん言わなきゃ自分にしかわからないとこだと思うけど。一瞬、ちょっとエイモスっぽい気の抜けたフレーズかましております。みなさんもぜひ、今度この曲を聴く時には “サハシのエイモス” を探してみてください(笑)」
次回【佐橋佳幸の40曲】につづく(4/20掲載予定)
▶ 佐橋佳幸のコラム一覧はこちら!
2024.04.13