2026年5月15日に全581曲のデジタル配信が始まった美川憲一。61年のキャリアを本人の解説により紐解いていくスペシャル・インタビューの後編は、1980年代後半に大復活を遂げてからのエピソード、新たな作家との出会い、シャンソンへの傾倒など、余すところなく語っていただきました。今の時代に聴いても斬新かつ心に沁みる名曲の数々、美川憲一ワールドを知らない方も、是非この機会に聴いてみてください。
韓国の流行歌、トロットを歌った理由
―― 1976年1月25日にリリースされた「カスマプゲ(胸がせつない)」は、トロットと呼ばれる韓国の流行歌ですが、なぜこれをレコーディングしたのでしょうか。
美川:私、この頃韓国が好きでよく行っていたんです。戒厳令が敷かれていて、日本の歌は韓国では禁止されていた時代ですが、友人もいたし、親しくしていた洋服のデザイナーもいたので、何度も出かけました。それで私が “韓国の歌を歌いたい” と言ったらこの曲を勧められたんです。
―― この翌年に、韓国の歌手・李成愛(イ・ソンエ)さんが日本で「カスマプゲ」をリリースして、韓国の流行歌と日本の歌謡曲の共通点が盛んに語られるようになりましたが、それより1年も早く美川さんがリリースされていたんですね。
美川:李成愛さんも、向こうに行った時にしょっちゅうお会いしました。そのあと歌手を辞めてしまったけれど、今は復帰されていますね。日本語の歌詞は星野哲郎先生が書いてくださいました。星野先生は男っぽい歌詞を書かれるイメージがあるけれど、私には「お金をちょうだい」とか、切ない女心の歌が多いんです。そういう繊細な側面もお持ちなんですよね。
―― 1979年の「スカーレット・ドリーマー」はディスコ調の意外なナンバーでした。作曲は都倉俊一さん。
美川:オシャレっぽい歌を作って欲しいと依頼したんです。こういう世界も歌っていて楽しかったですよ。当時、かなり反響がありました。
「タンスにゴン」のCMで再ブレイク
―― ヒットからは遠ざかっていた時期もありましたが、その時はどのような思いでしたか。
美川:それが、逆に “これで遊べる!” と思って、ヨーロッパとか色々なところに出かけました。それでクヨクヨしたことはないです。母も “のんびりすればいいのよ。お金はあるんだから” って言ってくれてね。でもね、泥棒に入られたこともあったんです。幸い、何も盗られなかったけれど、本当に色々なことがありました。自分の失敗もあったけれど、そういう苦労がバネになり、このままじゃ終わらない、しぶとく生きてやると思うようになりました。
―― そんな美川さんが再ブレイクを果たすのが、1980年代の終わり。金鳥『タンスにゴン』のCMと、コロッケさんの物真似がきっかけでした。
美川:あの頃は自分に、もう一度売れる、絶対に私の時代が来ると言い聞かせていたんです。その時に『タンスにゴン』のコマーシャルのお話が来て、演出は市川準さんでした。
―― ちあきなおみさんが “タンスにゴン!” と呟きながら商店街を歩いていると、後ろから美川さんが自転車で “もっと端っこ歩きなさいよ” と言いながら去っていく、大ヒットCMです。
美川:実は私、自転車に乗れなかったんですよ(笑)。それで本番前に路地裏の誰もいないところで練習しました。ちあきとやれるのは私しかいないし、この役を誰かに取られたら嫌だ!と思っていたんです。本番で商店街に自転車で出て行ったけど、ヨタヨタしちゃってセリフが出てこないの(笑)。それでも撮影は一発OKになって、ちあきも喜んでくれました。ここで役者の経験が生きたのね(笑)
―― ちあきなおみさんともお親しかったんですね。
美川:よく楽屋で一緒になりました。いろんな話をしたけれど、CMをやった頃は、ご主人の郷鍈治さんがガンになって、大変なの…… とこぼしていました。"あの人に何かあったら私は歌をやめる” とも言っていて “あんたは歌が上手いんだし、やめたらダメよ。私もファンだし、絶対に歌をやめないで” と言ったんだけど、ご主人が亡くなられてからは頑なに出てこないでしょう。それもすごいことですよね。
今も続く、コロッケとのジョイントコンサート
―― コロッケさんとは今もジョイントコンサートを続けられていて、最早互いに欠かせないパートナーというイメージがありますが、最初の出会いはやはり、モノマネでしたか。
美川:もともと私が、コロッケに “私の物真似をやって” とお願いしていたんです。それでフジテレビ系の『新春特番!オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦』に出ることになりました。 ご本人登場は、この時の私が初めてだったんです。久しぶりの正月番組だし、一番いい格好をして行かなきゃと思い、出演者に見つからないように、楽屋はなしで車の中で出番を待って、本番でカーテンに隠れながら袖まで行ったんです。出ていったらもうバカ受けして。毒舌キャラになったのもこの辺りからね。これがきっかけでコロッケに "あんた私とジョイントコンサートやらない?” と誘って、それが今に続いているんです。「さそり座の女」をA面にしたこともそうだけど、私はどこかでプロデュース的なカンが働く時があるんですよ。
―― それが全部当たるのは凄いことです。斬新な企画としては、1991年に発表した『GOLDEN PARADICE』というアルバムが面白かったです。ジャケットはペーター佐藤さんのイラストで、美川さんの代表曲が大胆なアレンジでリメイクされ「柳ヶ瀬ブルース」がスウィング、「おんなの朝」は琉球音楽風、「お金をちょうだい」がマンボとかなり斬新なリアレンジになっています。今の時代にも通じるサウンドになっていて、是非、今回のサブスク解禁で聴いていただきたい作品です。カバー曲の選曲も面白いですね。
美川:竹内まりやさんの「駅」のカバーがいいんですよ。すごくドラマがあるわよね。
紅白にはトータルで26回、復帰してから19年連続出場
―― 同じ1991年には第42回『NHK紅白歌合戦』にも17年ぶりの復帰を果たしました。
美川:この時もコロッケに来てもらいました。ちょうどその頃、幸っちゃん(小林幸子)の衣装が派手になっていった時期で、それなら相手はジュリーじゃなくて私だな、私も派手にやろうと思ったんです。イリュージョンで空を飛んだり、引田天功さんにプロデュースしていただいたり、いろいろやりましたよ。『紅白』はトータルで26回、復帰してから19年連続で出ました。
―― 復帰以降の『紅白』で非常に印象的だったのが2005年、第56回の時に、越路吹雪さんの「愛の讃歌」を歌われていたことです(翌年にはシングルでも発売)
美川:この曲を歌うのが夢でしたから、本当に嬉しかったです。越路さんとの交流は、淡谷のり子先生の紹介でした。淡谷先生は越路さんと親しくて、私も淡谷先生にはいろいろお世話になっていたんです。「柳ヶ瀬ブルース」が出た頃、“ブルースの女王と夜の貴公子” という対談の企画でお会いしたんです。その時、淡谷先生が “あなたの声は低いからシャンソン向きね。今は若いからわからないだろうけれど、年を取ったら良さがわかるわよ。シャンソンはピアノ1つで語れるから、ずっと歌っていきなさい” と言ってくれたんです。
―― シャンソンに向かうきっかけは淡谷さんの助言でしたか。
美川:そうなんです。それで越路さんを紹介していただき、親しくなって、よく越路さんのご自宅にも伺いました。その時は、ルイ・ヴィトンを着て行きましたよ。当時、ルイ・ヴィトンには靴がなかったので、ヴィトンのボストンバッグを購入して、靴屋さんに持って行き、靴を作ってもらったんです。その靴を見た越路さんが “私も欲しいわ!” と感激されて。だから作ってプレゼントしましたよ。靴ができるまで、何度も催促の連絡が来たわ(笑)。越路さんがお亡くなりになった後で、事務所の方から “いただいた靴をとても大切に履いていました” と言われ、靴は私の元に戻ってきました。今でもその靴は大事にとってあるわ。
―― シャンソンのお話が出たので、ここでお伺いしたい曲が、2013年に発表された「生きる」です。
美川:この曲はシャンソン歌手の深緑夏代さんが大事にしていた歌だったんです。作詞された矢田部道一さんは、新宿の『シャンパーニュ』というシャンソン喫茶のオーナーだった方で、深緑さんに歌って欲しいと書かれた作品でした。私はその歌が好きで、一度だけでいいから歌わせてほしいと深緑さんにお願いして、どうにか許可をいただいて、銀座でシャンソンのコンサートをやった時に初めて歌ったんです。その際に深緑さんが石井好子さんと一緒に聴きにいらして “あなたの声に合うわね。いいわよ、歌って” と許可が降りて。それから歌っています。
この歌はずっと私についてきてくれて、私が病気になった時、初めて "生きる歌” になったんです。不思議なものですね。テレビで披露したら、すごく感動したという声をいただいて、それからはどこへ行っても歌うようになりました。ガンで入院されている方が、わざわざ病院を抜け出して、私の「生きる」を聴きにいらして、元気をもらって病院に帰る、そんなこともありました。
GLAYのTAKURO作詞、B’zの松本孝弘作曲「これで良しとする」
―― 歌の力を感じますね。現在のところ最新曲は、2024年にリリースされた「これで良しとする」です。GLAYのTAKUROさんの作詞、B’zの松本孝弘さんの作曲はどのようにして決まったのでしょうか。
美川:松本さんとは以前から親しくさせていただいて、私のデビュー60周年の記念の曲を書いてもらいたい、とお願いしたら快諾してくれました。その時、作詞はGLAYのTAKUROくんがいいなあ…… と漠然と考えていたんですが、偶然にも松本さんの方からTAKUROくんを推薦してくれました。2曲書いてくれて、カップリングの「華散れど月は輝く」の方が私らしい曲調でしたけど、歌い上げるよりテンポよく歌える「これで良しとする」をメインにしたんです。
―― 昨年、ご病気になられて我々も大変心配していたのですが、今はだいぶ良くなられたのでしょうか。
美川:そうですね。最初は洞不全症候群という病気で1ヶ月半入院して、手術してペースメーカーも入れて、他に悪いところがないか調べてもらったらパーキンソン病が見つかったんです。このときはああ、もうこれで私は終わったと思いました。でも、そんなことじゃダメ、しぶとく生きるわと自分に言い聞かせたんです。
60年以上走り続けてきたから、神様が休息を与えてくれたのかな、と思うようになりました。今はだいぶ良くなって、リハビリも続けて買い物にも行けるようになったし、声も出るし、ステージもやりますよ。
―― それにしてもデビュー以来61年間、シングルをほぼ毎年発売して、さらにアルバムの枚数まで含めると驚異的な活動ぶりだと思います。今回の581曲サブスク解禁にあたって、どんな思いがおありでしょうか。
美川:自分でもこんなに歌っていたとは思っていませんでした。それに今は歌を出し続けていくのも大変な時代じゃないですか。その意味では私、しぶといんだなと思いました(笑)。でも、本当に嬉しいです。私の歌を知らない若い方も、この機会にぜひ聴いてみてください。
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2026.06.23