「さそり座の女」「柳ヶ瀬ブルース」などの大ヒットを放ち、現在も確固たる存在感で活躍する歌謡界のレジェンド・美川憲一。昨年(2025年)デビュー60周年を迎えた美川の楽曲が、今年の5月15日に一挙デジタル配信された。そう、デビュー以来在籍しているクラウンレコード(現:日本クラウン)から、61年間にわたってリリースされた未配信楽曲を含む全シングル117作品に加え、セリフ入りのオリジナルアルバム、ライブアルバムなどアルバム37作品の全581曲。ヒット曲のみならず、知られざる名曲、意外な作家の曲、秀逸なカバー曲まで、ひと口では言い表せない美川憲一の多彩な音楽性が見えてくる。
今回のRe:minderスペシャル・インタビューでは、デジタル配信スタートを記念して、長いキャリアの節目節目で生まれた名曲たちのエピソードを中心に、波乱万丈の歌手人生をご本人に語っていただいた。前編はデビューから名曲「さそり座の女」誕生までのエピソードをお届けします。
1965年、正統派の青春歌謡「だけどだけどだけど」でデビュー
―― 幼少期はどんなお子さんだったのでしょうか。
美川憲一(以下:美川):映画が好きな子どもでした。自宅が新橋にあったので、有楽町などの映画館に近く、よく学校をサボって映画を観にいきました。特に美空ひばりさんは神様のような存在でしたから、ひばりさんの歌はもちろん映画もほとんど観ていました。高峰秀子さんの映画も良く観ましたよ。秀子さんのお母様が神谷町で料亭をやっていて、そこにうちの母が仲居さんで勤めていたことがあったので、秀子さんの結婚式のお写真とかも持っていたんですよ。
―― 映画好きのためか、美川さんも最初は歌手でなく俳優を目指していたそうですね。
美川:東宝芸能学校に2年間通って、1963年に大映のニューフェースに応募して合格しました。大映が青春路線を始めるということで、私に決まったんです。それにあの頃、歌謡映画が流行っていたので、私に歌を歌わせようと、古賀政男先生のところでレッスンを受けることになり、代々木上原の邸宅までバスで通いました。
でも、私は母の苦労している姿を見ていたので、とにかくお金が欲しかったんです。それで一攫千金を狙って(笑)、俳優ではなく歌手になることにしたんです。大映の所長さんが家まで引き留めに来ましたが、母が謝って、研究所にも入らず、仕出し(エキストラや、通行人などの端役のこと)もやらずに辞めてしまったんです。古賀先生はコロムビア(日本コロムビア)の専属作家なので、本来ならコロムビアからデビューするのが筋ですが、コロムビアが分裂して新たに生まれたクラウンレコードからスカウトがあり、デビューできることになったんです。
―― 1965年6月1日に「だけどだけどだけど」でデビューされます。正統派の青春歌謡で、美川さんのその後の歌い方とは違い、キーもやや高めで爽やかな楽曲ですね。
美川:担当ディレクターが西郷輝彦さんと同じ方で、当時、西郷さんはクラウン青春歌謡のスターでしたから、私も多分その線で売り出すつもりだったんでしょう。私も初めて出したレコードですから、嬉しかったですよ。その路線で「あの娘が好きと云った花」も出しました。私も青春路線は好きでしたけど、どうも私に暗いイメージがあったようで、あまり合っていなかったんです。
―― キャンペーンなども行なわれましたか。
美川:ジャズ喫茶でよく歌っていました。私の顔を見てファンになった追っかけの子もできたけれど、歌で人気が出たわけじゃなかったんです。母が新橋のレコード屋さんに行っても、私の曲は置いてなかったんです。"お金置いてくれたら取り寄せますよ” なんて言われて(笑)。結局この年は、クラウンのイチ推しではなかったから枚数も出ていなかったんです。
ムード歌謡路線の「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒット
―― その翌年、1966年4月1日に発売された3枚目のシングル「柳ヶ瀬ブルース」が爆発的なヒットとなります。
美川:この曲は宇佐英雄さんという方が自分で作詞・作曲して歌っていたんです。宇佐さんは北海道の出身で、アイヌの方でした。放浪の癖がおありで、流しをしながら全国を回って、たどり着いたのが岐阜の柳ヶ瀬だったそうです。それを、私がデビュー時に所属していたプロダクションの社長の奥さんが岐阜の出身で、柳ヶ瀬でたまたまこの曲に出会ったんです。最初は同じ事務所の鈴木ヤスシさんが歌うことも考えたそうですが、結局、私に回ってきたんです。
―― これまでの青春歌謡とは異なる、ムード歌謡路線ですね。
美川:でもね、最初は “あんな暗い歌は嫌だ” と母に言ったんです。特に歌詞3番の「♪青い灯影に つぐ酒は ほろり落した エメラルド」の意味がわからないって。その後の「♪もだえ身を焼く 火の鳥が」はもっとわからないと言ったら “そんなの知ったかぶって歌えばいいのよ” と言われて(笑)。社長にも “この歌、歌えません” と言ったら “ふざけるな!お前はクビだ!” と言われて、私も気が強いから飛び出してきちゃったの。そうしたら母にひどく怒られて、母に連れられて社長のところに謝りに行き、結局歌うことになりました。でもやっぱり嫌だから、わざとぶっきらぼうに歌ったんです。
―― それであのクールな歌唱法が生まれたんですか!
美川:私はこぶしがうまく回らないんですよ。発声は小杉仁三先生のところで習いましたが、 自分流に歌っていいよと言われたので、ああいう歌い方になりました。事務所もレコード会社も “笑わない、喋らない、動かない” というイメージを作ったんです。
――「柳ヶ瀬ブルース」は、ご当地ソングの走りと言われています。
美川:音楽評論家の小西良太郎さんが名付けたんです。最初はレコードジャケットも二色刷りだったのに、ヒットしたらカラーになったんですよ。ご当地ソングがブームになり始めていて、その流れで「新潟ブルース」や「釧路の夜」も生まれました。「新潟ブルース」は黒沢明とロス・プリモスとの競作で、あちらはB面でしたから私の方が大ヒットして、歌碑も「柳ヶ瀬」より先に「新潟ブルース」が立ったんです。「釧路の夜」は裏声を使ったのが良かったかもしれない。裏声を出すのは大変で、ずいぶん練習しました。
―― ちなみに「柳ヶ瀬ブルース」は東映で、「釧路の夜」は松竹でそれぞれ歌謡映画になっていて、美川さんはどちらにも出演されています。
美川:『柳ヶ瀬ブルース』では流しの役で、歌うシーンだけでほとんどセリフもなかったけれど、『釧路の夜』の時はセリフもいっぱいある役でした。監督の井上梅次さんにはすごく可愛がっていただいて、他の出演者に対してはすごく怒るのに、私は何も怒られませんでした。ただ、釧路の幣舞橋でのロケがすごく寒くて、毛布にくるまりながら本番を待ったことをよく覚えています。この頃は本当に忙しくて、1年365日のうち、265日ぐらいは営業で地方に行っていました。寝る時間が本当になくて、2部構成のステージの、1部と2部の間で寝ていました。でも体力はあったし若かったから頑張れましたね。
紅白歌合戦で歌えなかった「おんなの朝」
―― 1970年12月25日に発売された「おんなの朝」は米山正夫先生の作曲。美川さんがお好きだった美空ひばりさんの楽曲もたくさん作られています。
美川:米山先生もいつもニコニコしている優しい方で、ここはこういう風に歌えとか、一切おっしゃらないです。“好きなように歌っていいんだよ” と言われました。でも、この曲、ヒットしたのに、歌詞が過激だということでNHKの『紅白歌合戦』では歌えなかったんです。
ーー どの部分でしょうか。
美川:「♪ゆうべあんなに 燃えながら」のところがダメだって言うんです。そういう時代だったんですよ。NHKの人はみなさん大丈夫だと言ってくれたけれど、お一人だけ反対した識者の方がいたみたいで、ラブホテルのテーマソングみたいだって(笑)。本当にその時は許せない!と思いましたよ。結局この時は「想い出おんな」を歌いました。
―― そして1971年の「お金をちょうだい」。純烈も2018年にカバーしている人気曲ですが、最初にこの曲をいただいた時はどう思われましたか。
美川:やっと私の好きな歌が来た!と思いました。作詞してくださった星野哲郎先生が、歌舞伎町のホステスさんから人生相談を受けて、そんな男はやめた方がいい、とか色々答えているうちに、この歌詞の発想が浮かんだそうです。悲しい女心の歌ですから、ちょうど「おんなの朝」がヒットしていた美川に歌わせよう、と思ったそうです。
この歌は今の時代にこそぴったりなんです。主人公の女性は、好きな人から愛されていないとわかって、アパートを借りるお金だけもらえたら、一緒に暮らしたこの家を出て行く…… いじらしい女なんですよ。ステージで歌う時も、最初はタイトルでみんな笑うけど、最後は切なくなって、シーンとなって終わっちゃうの。曲調も和風シャンソンというのかな。当時からこういう歌が好きで、それがのちにシャンソンを歌うことにつながっていくんです。
美川憲一の代名詞となった「さそり座の女」
―― そして、極めつけの代表作「さそり座の女」が出るのがその翌年、1972年12月20日の発売です。
美川:作詞の斎藤律子さんは、横浜にあった『バンドホテル』のオーナーの奥様なんです。たまたま書かれた歌詞を中川博之さんが受け取って曲をつけて、最初はB面になる予定でした。でも私は、こっちの方が面白い!と言ったんです。「♪地獄のはてまで ついて行く」なんて、今までそんな歌はなかったから面白いじゃない? 絶対にA面にした方がいいと主張して、決まりかけていたのをひっくり返したんですよ。
―― 「♪紅茶が冷めるわ さあどうぞ それには毒など入れないわ」っていう歌詞も女性の怖さを感じさせて、ある意味「おんなの朝」より過激ですが。
美川:でも、本当に毒入れたら死んじゃうからね(笑)。それも洒落ていて面白いんじゃない?って。
―― 美川さんの狙い通り、A面になったことで「さそり座の女」も大ヒット、今では美川さんの代名詞にまでなりました。この時期、『星占い HOROSCOPE 美川憲一女ごころをうたう』というアルバムも発売されています。12星座をテーマにしたユニークなコンセプトで、ほとんどの曲を中川博之さんが書かれていて、上村一夫さんのジャケットも美しい、画期的なコンセプトアルバムでしたね。
美川:ちょうど世の中で星占いが注目されてきた頃だったんです。どれもいい歌ばかりで、私も好きなアルバムです。でも惜しかったのは、発売時にこの中の曲をシングルカットしなかったことね。
――「さそり座の女」以降、女性の業の深さを歌う曲が増えていきますね。
美川:この時期から毒のある歌ばかり歌っていくようになるんです。次の「バラの棺」もいい歌でした。その後の「軽蔑」も大好きな曲で、ファンの方からのリクエストも多いんです。そのあとが「裁き」という曲ですが、これも怖いわよ(笑)
―― これら一連の楽曲は、ぜひ読者の皆さんにもサブスクで聴いていただきたいです。そして次の1974年1月25日発売の「三面記事の女」。これも凄い内容ですが、作詞の小谷夏さんは、TBSのドラマ『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』で知られるプロデューサー・久世光彦さんのペンネームです。
美川:自殺しようとして死にきれなかった女の思いが歌われていて、久世さんらしい発想の歌詞ですよね。この歌も時々ステージで歌っていますよ。その次の「ナナという女」もリクエストが多い曲です。この時期はこういう、スキャンダラスにも思える女性の生き様を歌うようになってきて、周囲からは “そんな歌、歌わない方がいいわよ” とも言われましたよ。でも、私はこういう歌を歌うのが好きなんです。「さそり座の女」があったからこそ、こういうタイプの歌も表現できるようになったんです。
次回の後編では、『タンスにゴン』のCMで再ブレイク、復帰してから19年連続で出場した『NHK紅白歌合戦』のエピソードから、現在の活動までたっぷりと語っていただいています。
2026.06.22