北海道が生んだモンスターバンドGLAY 1997〜99年頃のGLAYの凄さを若い世代に伝えるのは、もはや困難かもしれない。ベストアルバム『REVIEW-BEST OF GLAY』が当時の歴代最高記録の488万枚を売り上げれば、シングルも12th「HOWEVER」から5作連続でミリオンセールスを記録。テレビ、雑誌、CMとその姿を見ない日はなく、その人気はまさしく “社会現象” と呼ぶに相応しいものだった。
極め付けは1999年7月31日。幕張メッセ駐車場で開催された『GLAY EXPO '99 SURVIVAL』は20万人という国内コンサート史上最大の動員を記録し、その様子は今なお “伝説” として語り継がれている。
……と、この北海道が生んだモンスターバンドを “数字” という側面から振り返るのは容易だが、当時の実際の “熱” とか “爆発力” を伝えるにはまだまだ不十分だ。幸運にも中学生という多感な時期にリアルタイムで “GLAY現象” を体感してきた身としては、心底そう思うのである。今回は、いかに当時のGLAYが凄かったのか。そしてGLAYがいかに偉大かをあらためて記録しておきたいと思う。
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第2次バンドブームとはどんなムーブメントだったのか 1998年はCDの年間売上額が6,074億円とピークを迎えた、日本の歴史上最も音楽が消費された年である。その1年間のナンバーワンに輝いたシングルこそがGLAYの13th「誘惑」(161.1万枚=オリコン調べ)だった。
メガヒットを記録した「HOWEVER」以来、8ヶ月ぶりのシングルの期待値は半端でなく、私自身も発売日の前日、放課のホームルームが終わると同時に教室を駆け出し、学校近くのTSUTAYAで “フラゲ” したのを昨日のことのように覚えている。もちろん2枚同時リリースのシングル「SOUL LOVE」とダブルで購入したのは言うまでもない。
GLAYが社会現象化したのは―― 正確に記せばこの前年、1997年のことだ。当時といえば、いわゆるビジュアル系の全盛期。それは同時に “第2次バンドブーム” の到来とも捉えることができる。
THE BLUE HEARTSやユニコーンといった等身大の若者的なバンドが席巻した “第1次”(1988〜90年頃) に対し、派手なメイクを施したルックスで耽美的な世界観を表現する “第2次” は、大抵の大人たちにとって眉をひそめるべき存在として認知されていた。いつの時代も、大人は自分たちの理解が及ばない対象に対して辛辣な評価を下すものだ。ビジュアル系も多分に漏れず、「最近の音楽はゴチャゴチャしていて分からん」「昔の音楽はよかった」という短絡的な偏見の対象となっていたのだ。
では一体なぜ、GLAYはそうした狭い評価から飛び出して “社会現象” になり得たのか? その答えは、主に2つの要因に依るところが大きいのではないかと考えられる。
ビジュアル系とJ-POPの中和 ビジュアル系のトップランナー・X JAPANのYOSHIKIが立ち上げたレーベル『エクスタシーレコード』ならびに『プラチナム・レコード』からGLAYがデビューしたのは1994年のこと。1988年に故郷・函館で結成してからわずか6年というスパンは、現代に比べて情報が行き渡りにくかった当時としては異例のスピード出世だ。北国出身のローカルバンドは、ここから一気に天下取りへと突っ走る。
初期こそビジュアル系らしい世界観が色濃く漂うが、徐々にポップス志向のキャッチーな楽曲を増やしていく。サウンドもさることながら、その特異性は歌詞に表れている。たとえば出世作「グロリアス」では、“土曜の午後の青空” “追われる仕事” といった、まるで青春ポップスのような青くさいフレーズが登場する。ビジュアル系の “血” “薔薇” “十字架” といったパブリックイメージとはかけ離れた世界観だ。
VIDEO 極端にいえばTシャツにジーンズ姿で歌っていても違和感のない歌詞だが、これをGLAYは清潔感のあるダークスーツに身を包み、イケてるヘアスタイルとメイクで演奏した。いわばビジュアル系とJ-POPの中和に取り組んだのである。
活動に応じて先鋭化していくバンドも少なくない中で、GLAYの取った生存戦略は(それが意図的だったのかどうかはともかくとして)、圧倒的なセールスという形でたちまち反映されることになる。もちろん、単に戦略がハマったから売れたわけではなく、ボーカル・TERUの唯一無二の歌声、リーダー・TAKUROの作詞家、メロディメーカーとしての類稀なる才能、そしてルックスを含めた4人それぞれの抜群の個性があってこその成功だったことは言うまでもない。
世紀末の日本を席巻していったGLAY 「HOWEVER」が出たばかりの頃、スーパーの食料品売り場で有線が流れており、それを聴いたウチの母親が “GLAYって曲もいいし、感じのいい人たちよね” と言ったのを記憶している。
通っていた小学校でもこの時期からGLAY人気が加熱。給食時間の校内放送でしょっちゅう流れていた記憶がある。アイドルやテレビの企画から生まれたグループが話題になることはあっても、小学生の間でロックバンドが人気を博したのはGLAYが唯一。おそらく我々世代の中には “初めて買ったCDはGLAY” という方も多いのではないか。ビジュアル系の敷居を下げ、音楽好きの若者ばかりか主婦、子供さえも虜にしながら、GLAYは世紀末の日本を席巻していった。
当時は既に世代間での音楽趣味の隔絶が進み、国民的歌手が生まれない時代だと囁かれたりもしていたが、その点でGLAYは子供から大人まで幅広い年代に愛され、爆発的な商業的成功を収めた最後の国民的バンドだったのかもしれない。
競い合ってこその成長、L'Arc~en~Cielの存在 人気を博す少年漫画には、必ずと言っていいほど主人公のライバルが登場する。“無双” ではつまらない。競い合ってこそ読者は熱中し、感情移入も強くなるという図式である。音楽業界でもそれは同じだ。松田聖子に対する中森明菜、田原俊彦に対する近藤真彦といった具合に、よきライバルの存在は互いの成長を爆発的に促すものだ。
その意味ではGLAYを語る上で、同じ時代に人気を二分したL'Arc~en~Ciel(ラルク アン シエル、以下ラルク)の存在は欠かすことはできない。“GLAY派” か “ラルク派” か。あの頃、全国の中学高校では冗談抜きで喧々囂々の議論が巻き起こっていた。本当かどうかは定かではないが、市内の別の高校では白熱するあまり殴り合いの喧嘩に発展した例もあったと聞く。
ライバル視していたのはファンだけではない。公言こそしないものの、本人たち以上に所属するレコード会社が互いの存在をかなり意識していたのは間違いない。GLAYが「誘惑」「SOUL LOVE」を2枚同時リリースした約2ヶ月後、今度はラルクが「HONEY」「花葬」「浸食 -lose control-」というシングル3枚を同時リリースし、うち2枚がミリオン達成という快挙を成し遂げることになる。
さらに、翌99年にはGLAYが先述の20万人ライブを成功させた約1ヶ月後にラルクが15万人 × 2daysの野外ライブを敢行。激しいデッドヒートはワイドショーでも話題になるなど、両者のライバル関係は音楽業界の域を超え、一種の文化的な社会現象ともいえるほどのムーブメントを巻き起こした。
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みんなGLAYになりたかった 空前のCDバブル、強力なライバルの存在という環境にも恵まれながら、GLAYは結成10年にして時代の寵児となった。あの頃、カラオケBOXではどの部屋からも感情たっぷりの「HOWEVER」が漏れ聞こえてきたし、学祭のライブはGLAYのコピーバンドで溢れていた。歌舞伎町のホストたちもこぞってGLAYのメンバーを意識し、小学生はGLAYの新譜の話題を喋ることでちょっと背伸びした気分になれた。
言うなれば “日本中の誰しもがGLAYになりたかった時代”。大袈裟ではなく、マジにそんな雰囲気だった。だが、本当に凄いのはむしろ “今” なのかもしれない。あれから25年経っても今なお現役バリバリで活動し、全国アリーナツアーを遂行できるアーティストパワーには恐れ入る。平成の世を駆け抜けたモンスターバンドは、メジャーデビュー30周年を迎えてもまだまだ健在だ。
*2022年6月8日に掲載された記事をアップデート
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2024.07.31