4月21日

元祖ロックの女王【白井貴子インタビュー】① 歴史的名盤「FLOWER POWER」リリース!

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女性ロックシンガーの先駆的存在であり、開拓者であった白井貴子


1981年にデビュー。“学園祭クイーン” ”ロックの女王” と呼ばれ、女性ロックシンガーの先駆的存在であり、開拓者であった白井貴子。

11月1日には歴史的名盤『FLOWER POWER』がアナログ盤でリイシューされ、来年の1月20日には白井貴子&THE CRAZY BOYS名義でこのアルバムの完全再現ライブが行われる。この素晴らしきタイミングでインタビューを試みることができた。白井貴子にとって、熱狂の80年代、そして今に繋がるロックスピリットを存分に語ってもらった。

メンバーには「生きている限りバンドをやろう!」と言っていたので


―― 今回は『FLOWER POWER』のリイシューと、来年は白井貴子&THE CRAZY BOYS名義でステージに立たれるということで、この辺りの話を中心にお聞きしたいと思います。

白井貴子(以下、白井):この先、音楽がどうなっていくのだろう? と、すごく不安もあります。時代の流れの中で、レコード、CD、MDそして今はストリーミングが中心となって、”形” がなくなっていく。そんな中、まさかLPで復刻されるというのは思ってもいなかったです。

80年代からの歴代マネージャーが揃って、「貴子、もう1回やろう!」と言ってくれたのがきっかけでした。60になってもロックをやれるなんて、そうそうない機会ですから。それで、ライブをやろう! という話から「LPを復刻しないか?」という話になって。

「やろう!」と言ってくれたのは嬉しかったし、私もまだまだ元気。バンドのメンバーには「生きている限りバンドをやろう!」と言っていたので。

あの頃の話を楽しく暴露したライナーノーツは1万字


――『FLOWER POWER』は、すごくエモーショナルなアルバムだと思います。当時を知る世代のファンには嬉しいニュースだと思います。今回のリイシューにどのような思いがありますか?

白井:そこはすごく悩むところです。というのはCRATZY BOYSも “THE” をつけたり、色々な変化がありました。そういう細かい部分も含めて、マイナーチェンジすべきか、昔のままで行くべきかとかね。それで進化していくことが大切だと思って、ちょっとしたことですが、ロゴを変えさせてもらいました。それに『FLOWER POWER』が出るのもこれで最後かと思い、ライナーノーツも書かせてもらいました。1万字書きました。



―― 今の白井さんの気持ちでお書きになったということですね。

白井:そうです。あの頃の話を楽しく暴露させてもらいました(笑)。

”私たちはバンドなんだ” という意識が強かった


―― それは楽しみです。あのアルバムは85年ですよね。白井さんが “学園祭クイーン” と言われた後の作品ですよね。

白井:渦中という感じでした。

―― そこでCRAZY BOYS名義の初のアルバムとなったわけですが、満を持してという感じでしたか?

白井:もちろんありました。ソロアーティストというよりは、”私たちはバンドなんだ” という意識が強かったですね。

―― まさにバンドサウンドという仕上がりでした。

白井:ずっとバンドでありたいと思っていました。ティーンエイジャーの頃からビートルズを聴いて育って、そういう音楽しか知らなかったから。アビーロードのスタジオにみんなで集って音楽を構築していくというスタイルですね。それがやりたかったし、そういうサウンドが好みだったし、ああいう風に作っていくというのが大きな夢でした。

『FLOWER POWER』をリリースした時のツアーは、普通なら “FLOWER POWER TOUR”になるはずですが、あの時は “WE MUST CHANGE TOUR” になっていました。だから、私は変えなきゃ、という決心が固かったんだと思います。

――1曲目の「It Must Change」にも “時の女神がやさしくほほえむ” というのがありますね。この部分にも、当時いい流れが来たんだなというのが僕らファンにも分かりました。白井さんのデビュー時期は、ロック寄りではなく、シティポップ寄りという印象がありました。

白井:いわゆるニューミュージック全盛で、女性シンガーソングライターというと自ずとその括りに入れられてしまうというところがあったと思います。だけど、私がデビューのきっかけになったソニーのSDオーディションに受かった曲は「あなたにロックンロール」というタイトルでした(笑)。それが「夢中だいすき」とタイトルが変わってファーストアルバム『Do For Loving ―すべて愛のせいよ―』に収録されています。



大転機は「SOMEDAY」今も街に行けば行くほど歌う曲


―― 当時の女性シンガーでロックンロールを全面に打ち出す人はいなかったと思います。そこで白井さんや山下久美子さんが先駆的存在になったと思います。

白井:その部分をデビュー当時に気づいていればよかったのですが、日本の音楽業界が全く分からなくて…。ソニーの皆さんには悪いですが、私はビートルズが好きで、デヴィッド・ボウイが好き。だからレコード会社は東芝! と言っていたと思うんです。そんなこともわからないままデビューしました。

当初は音大卒業だったので当たり前にピアノの先生をやる予定でしたが、その直後にソニーのオーディションに受かって… 就職するみたいにデビューしていました。でも、だんだんとこの世界が分かってきて、「これじゃまずい」と思い始めました。呑気な娘でした。でもすでに「絶対ヒット路線」のレールの上にいるのだと気づいたんです。それもそのはずです。飛ぶ鳥を落とす勢いだった酒井班所属だったからです。

―― 南 沙織や山口百恵を世に送り出した酒井政利プロデューサーですね。

白井:そうです。それで、とにかく売れなくてはいけないというレールの上に飛び乗りました。それでシングル2枚目、3枚目あたりから暗い風が吹き始めて(笑)ベストテンに入らないことにプレッシャーも感じました。何回もシュートを打っているけど、入らない。そんな時にやってきたのが「Chance!」でした。

―― その前に4枚目のシングルで「SOMEDAY」がありますよね。僕は、この曲で白井さんの存在を知りました。それで、佐野元春さんのバックコーラスを担当していたプリティフラミンゴスにいらっしゃったと。ここも大きな転機だった思います。

白井:大転機でしたね。当時は「SOMEDAY」でヒットを出すんだ! という思いが強かったです。

―― 歌ってみてどうでした?

白井:不思議な曲で、歌えば歌うほど金太郎飴のように良さが分かってくるというか…。今となっては佐野さんの代表曲でもありますし、いい曲をいただいたんだなと、日に日にありがたさが増しています。今もツアーをやっていて、街に行けば行くほど歌う曲だし、ファンの人たちも喜んでくれます。



“総立ちの女王” が山下久美子さん、私は “ロックの女王”


――「SOMEDAY」からCRAZY BOYS結成まで、3年間ぐらいですよね。その間に学園祭クイーンと呼ばれるようになって…。

白井:82年、83年あたりからですね。それまでの学園祭はお笑いの人たちが出演するケースが多かったようですが、急に音楽で、という傾向が強くなった時代だと思います。それで、たくさんの学校に呼ばれて。多いときは1ヶ月に20校近く呼ばれて、自分のコンサートもあったので1ヶ月に25本ぐらいこなしたこともありました。普通の女の子だったら倒れていると思います。私は丈夫だったんですよね。体育系で(笑)。

―― 当時の熱狂はすごかったですよね。

白井:熱狂もすごかったし、体力の消耗もすごかったです。うちの事務所の社長が「貴子はロックで行くんだ!」と決めた時から大変でした。新宿ルイードでやっていた時代も、私がノリの悪いライブをやると、ドアを蹴飛ばして帰ってしまうんですよ(笑)。だから次は総立ちになるぐらい盛り上げたいと思いましたし、私が洋楽を聴いてそういう風景を見て育っているので、ああいうのをやりたくてしょうがなかったんですよね。

―― 当時はライブで観客が立って熱狂するという習慣がなかったと思います。“総立ち” というのがキャッチコピーになる時代ですよね。

白井:“総立ちの女王” が山下久美子さんで、私は “ロックの女王” とそんな風に呼ばれていました。こないだ久しぶりに山下さんと会って、相川七瀬さんと3人でコンサートをやりました。その時、山下さんが “総立ちの久美子です” と。だから私も “ロックの女王” です、と言ってすごく盛り上がりました。

―― 白井さん、山下さんから始まって、相川七瀬さんに続いていったという流れがありますよね。

白井:私たちは苦しい時代の線路引きですから(笑)。

―― 本当にそうですよ。イノベーターですね。渡辺美里さんという後継者も出てきて。

白井:彼女たちは今も頑張っているから。頑張ってよかったと思っています。

選曲も全部自分でやっていた「オールナイトニッポン」


―― 話は変わりますが、白井さんの『オールナイトニッポン』が大好きでした。始まったのが15歳の時で、火曜日の深夜に毎週聞いていました。いろんな音楽がかかって「インディーズをいじめるな」のコーナーとか。色々な音楽を聴く間口になっていました。

白井:選曲も全部自分でやっていましたから! 夜8時ぐらいまで仕事をして、『オールナイトニッポン』は深夜3時からですが、そのままニッポン放送に入って、何十枚もレコードを持ち込んで、全部聴いていました。

―― リスナーとの距離がすごく近い番組でした。

白井:その頃のハガキ、今も大事に持っています。今、そういうメッセージを使って番組を作ったら面白いと思ってしまうぐらいだから。

―― あの番組で元気をもらった人は多いと思います。

白井:そういう話を今も言ってもらえますし、「最終回に僕のハガキを読んでくれました」と言った人が今も追いかけてくれている。本当に嬉しいですよね。

―― 番組での印象同様に、白井さんの音楽は、聴いた人が元気になれる要素が詰まっていると思います。

楽しくて、明るくて、ビートが弾けるような生命力のあるロックミュージックを作りたい


当時、女の子のロックってケバケバしいアンダーグラウンドな印象しかなかったですが、私は、ポップで健康的で、楽しくて、明るくて、ビートが弾けるような生命力のあるロックミュージックを作りたいと思いました。

特に日本を見渡したら、ベストテンにランクインする曲は全て歌謡曲でしたから…。曲作りは相当悩みました。多くのヒット曲は、居酒屋で聴いても似合う日本人が好きなパターンでしたから。その中で、少なくとも日本酒のイメージではない音楽を届けようとしている自分はどうなのか? すごく悩みました。

―― 白井さんの音楽は、湿度を感じないんですよね。

白井:そう! いいところを言ってくれました。笑ってしまうのですが、カラオケ行くと、曲によっては男女の絡みの映像があったりしますが、「Chance!」は女の子がジョギングをしている映像なんです(笑)。

―― そういうイメージの女性のロックシンガーって世界的に見てもあまりいませんでしたよね。当時だとThe Go-Go’sが近い感じなのでしょうか?

白井:Go-Go’sは雛形のひとつになっていると思います。私は、ああいうサウンドが大好きでした。だから「She is a Go Go」という曲を書いたりもしました。

―― それが白井さんのキャラクターにも合っていました。

白井:当時は、ステージ衣装にしても、自分が思うイメージのものがなかったから、母と布を買いに行って自分のイメージしたものを作ってもらっていました。

―― 本当にイノベーターでしたね。

白井:それが笑ってしまうのですが、事務所は、アリスとかバンバン(ばんばひろふみ)が所属していたフォークが母体のところでした。だから、私が休みたいというと、「アリスは1年に360日コンサートをしたんや!」と(笑)。そんな事務所で鍛えられたというのもあるかもしれません。

どんどん時間が流れていく中で、「Chance!」のヒットに繋がっていく


―― そんな中で、どんどん自分のやりたいことが具現化されてきたということですね。

白井:そうですね。絶対ヒットを出さなくてはならない “酒井班” にいたものですから。それでもベストテンに入らず…。どんどん時間が流れていく中で、「Chance!」のヒットに繋がっていきます。



――「Chance!」はシチズンのCMにも使われました。

白井:ありがたいことに、タイアップが最初から決まっていて、そのイメージで曲を作って欲しいと。だから制約の中で作らなくてはならない。必死になって作りました。

―― それで、自分の描いたイメージ通りに曲が出来上がったということですね。

白井:博報堂のディレクターの方とお話しながら作っていったのですが、たくさん注文が合って、何度も博報堂に通いました。

―― やはりCMとなると、クライアントがいて大変な部分も多かったかと思いますが、その中で白井さんのキャラクターだったり、オリジナリティだったりが集約された曲になっていたと思います。「Chance!」のヒットでご自身の周りが大きく変わったと思うことはありましたか?

白井:当時の私は全く気づきませんでしたが、大きなホールでコンサートができたということはそういうことだと思います。ツアーの数も20ヶ所とか30ヶ所とか、どんどん増えていって…。

―― 売れていく中で、やりたいことができる反面の不安とかはありましたか?

白井:事務所の社長が、どんなに盛り上がっても喜ばない人ですから(笑)。当時のニューミュージックには、中島みゆきさんとユーミンというシンガーソングライターの大スターがすでにいらっしゃったこともあり、私も自分にしかできないことはなんだ!? と思った時「やはり自分はロック!」とそう選ぶ自分がいて、しかも事務所の社長も「貴子はロックの女王になるんや!」と、そういう感じでした。方向性はみんなで決めていたし、「ロックやろうぜ!」というクレージーなやつらがどんどん私の周りに集まってきました。

「Chance!」のあたりまでは、自分で曲を作って譜面を書いて、レコーディング時はスタジオミュージシャンの人たちに説明して、自分のライブの時は同じ譜面で、また説明してやっていましたが、忙しくなるにつれて効率が悪いと思いました。やはりバンドでやった方が、レコーディングして、そのままツアーに出られると。だから従来のレコーディングのスタイルをどんどん崩していきました。


白井貴子インタビュー ② につづく(10/26掲載予定)


<リリース情報>



▶ 白井貴子 & THE CRAZY BOYS『FLOWER POWER』アナログ盤
発売:2023年11月1日(水)
価格:4,070円(税込)

<ライブ情報>
▶ 公演名
TAKAKO SHIRAI & THE CRAZY BOYS
未来へ咲かそう!FLOWER POWER 2024
『FLOWER POWER』 完全再現LIVE & SDGs カーニバル

▶ 公演日時・場所
2024年1月20日(土)
開場15:00 / 開演 16:00
KT Zepp Yokohama

▶ 料金
一般 7,800円 / 中学生以下 3,000円(ドリンク代別)

▶出演
白井貴子&THE CRAZY BOYS
本田清巳(G)、南明朗(G)、岡部晴彦(B)、片山敦夫(Key)、河村 “カースケ” 智康(Dr)

▶オフィシャルサイト
https://takako-shirai.jp

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2023.10.24
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カタリベ
1968年生まれ
本田隆
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