2017年 11月22日

日本の音楽シーンを支える企業「ヤマハ」について考える ー 育成篇

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「ヤマハ音楽振興会」は、日本の音楽の教育と普及と振興のために当時の文部省(現文部科学省)の認可を得て、1966年に設立された財団法人である。その中核事業である「ヤマハ音楽教室」のスタートは1954年だから、こちらの方が後にできたことになる。

ヤマハは世界最大の楽器メーカーだ。戦後日本に音楽教育を確立し、自らユーザーを育てながらそのツールを供給し続けるという完璧なビジネスモデルを世界中で展開し、その地位を築き上げていった。

その推進役はヤマハ4代目社長 川上源一。

1950年にトップに就任し、1981年に長男にその座を譲るまで、グループの総帥として君臨し続け、強烈なリーダーシップで会社を牽引し続けた中興の祖である。

彼が日本の音楽界にもたらしたものは計り知れない。それは単なる楽器メーカーとしての関わりをはるかに超えるものだ。才能ある音楽家を見出して世に送り出す仕組みを作り上げ、彼らを支援してきたのである。

『ヤマハポピュラーソングコンテスト』通称ポプコンは、70年代から80年代にかけて、プロのミュージシャンを目指す若者たちの登竜門として、一般にも広く知られる存在であった。主催はヤマハ音楽振興会。発案は創設者であり理事長の川上源一である。

元になったのは、作曲家の育成を推進するための作曲コンクールであり、どちらかといえばプロを対象とするコンテストであった。時代はフォーク、ロックのムーブメントの真っ只中。ギター一本でオーケストラを凌駕する存在感を示す音楽の力を思い知った川上は1972年の第4回大会より『ヤマハポピュラーソングコンテスト』と名称を変え、翌年の大会より広くアマチュアにも門戸を開く。さらに世界中から一流アーティストを招聘し、国内のアーティスト達と競演させる場として1970年から『世界歌謡祭』を主催。ミュージシャンのキャリアアップにも一役買った。

すると1974年、第8回のポプコンで優秀曲賞と入賞のダブル受賞を果たした才気あふれる女性ミュージシャンが登場する。当時16歳の八神純子である。

彼女はヤマハが主催するボーカルタレントスクールに通う学生だったが、歌の上手さに目を付けたヤマハからの依頼で、ポプコンの作曲部門に応募された楽曲に予選で歌をつけるというアルバイトをしていた。今考えると八神純子が歌をつけるのだから、歌ってもらった応募作品は幸運である。きっと評価も3倍増しになったことだろう。

やがて八神自身も歌の実力を自覚するようになると、自らの作品でポプコンに出場することを思い立つ。コンテストの常連となった彼女は翌年も優秀曲賞を連続受賞。その活躍ぶりが設立者である川上の目に留まり、レコードデビューを果たす。シングルのリリースはグランプリ獲得のご褒美でもあったから、これは異例の対応といっていい。1978年1月には「思い出は美しすぎて」でメジャーデビュー。5月発売となった同タイトルのアルバムにはプロデューサーとして何と「川上源一」の名がクレジットされている。

このように彼はアーティストのデビューを支援し、マネージメントを行い、活躍の場を与えた。1971年からスタートしたニッポン放送のラジオ番組『コッキーポップ』と1977年から日本テレビで放送された同タイトルのテレビ番組は、ヤマハが番組を提供し、ポプコン出身アーティストを次々と出演させてプロモーションの役割を担った。

また頻繁に彼らとの食事会や旅行会を開いて交流を深め、そして独り立ちできるようになると快く送り出していった。ビジネス界では豪腕で鳴らしたワンマン社長でも多くのアーティストたちにとっては父親のような存在であった。

そうして川上を慕うその代表格は中島みゆきである。

中島みゆきのポプコン入賞は1975年の第9回大会。次の第10回大会では名曲「時代」でグランプリを獲得。その後、開かれた『世界歌謡祭』でもグランプリを獲得するのだが、その時にはこんなエピソードがある。

ポプコンで彼女の歌を聴いた川上は中島本人にこう告げたという。

「あなたはすごい詞を書く。将来、詞で勝負するようなアーティストに育って欲しい。できれば大音量をバックにするよりも、ギター一本で歌った方が、あなたの詞が人々に伝わる」

これを聞いた彼女はそれを忠実に実行する。世界歌謡祭本戦のステージで自らオーケストラを制して、ギター一本で演奏し、見事にグランプリを獲得した。

実は中島みゆきはこの時、実の父親を亡くそうとしていた。家業の産婦人科医を手伝いながら音楽活動を続けていたが、ポプコン本戦を前に院長でもある父親が突然病に倒れ、こん睡状態に陥ってしまう。彼女は病室から本戦会場へ向かい出場、続いて翌月に開かれた『世界歌謡祭』にも出場した。これはそうした中で掴んだ栄冠であったのだ。そこで自分を見出してくれた音楽界の父と呼ぶべき人物との出会いは、彼女にとってどれほど力強い大きな支えとなったことだろう。

ポプコンで世に出て、一度はヤマハと関わりを持ちながら巣立っていったアーティストは数多い。しかし彼女は成功を手に入れても、決して川上の元を離れようとはしなかった。既に2002年、彼はこの世を去っているが、2017年11月にリリースされたアルバム『相聞』にも間違いなく「DAD川上源一」のスタッフクレジットが記されているはずだ。中島みゆきならぬ “美雪” は、現在「ヤマハ音楽振興会」の理事、「ヤマハミュージックコミュニケーションズ」の取締役である。

ポプコンの存在について、やはり当時エントラントの常連であった渡辺真知子はこう語っている。

「ヤマハは楽器や音楽教室を営む健全なイメージがあって、私たちが “芸能界へ行く” っていうと親は反対したでしょうけど、ヤマハのコンテストへ行くっていうと笑顔で送り出してくれました」

70年代から80年代にかけて、ヤマハは音楽家を志す若者たちに道を開いてきた。成功者は一握りかもしれないが、間違いなく夢と希望を与え、サポートし続けてきたのである。

2017.11.27
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カタリベ
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