1985年、阪神タイガース 21年ぶりのリーグ優勝!
1985年10月16日は阪神タイガースのファンにとって忘れられない日であろう。1964年以来、21年ぶりのリーグ優勝を遂げた日。さらには2リーグ制になってから初の日本一も達成して大フィーバーとなった。
真弓明信、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布を中心とした “ニューダイナマイト打線” の活躍で、チーム本塁打はセ・リーグ記録を更新する219本塁打を記録している。投手陣も中西清起、福間納、山本和行ら、リリーフ陣が活躍して… とこれ以上続けると、野球に興味がない向きに離脱されてしまうと困るので野球の話はここまでにして早々にレコードの話へ移行します。
12球団最古の球団歌、古関裕而作曲「大阪タイガースの歌」
プロ野球関連のレコードは大きく3つのカテゴリーに分けられる。球団または選手の応援歌、監督や選手が自ら歌っているもの、優勝の記録などのドキュメンタリー、さらに番外篇でモノマネ系といったところ。
読売巨人軍に次いで歴史の古い阪神タイガースは、レコードの数もやはりジャイアンツの次に多いようだ。まずはなんといっても「六甲おろし」がある。これは通称で、正式には「阪神タイガースの歌」。当初は1936年に「大阪タイガースの歌」として発表され、1961年の球団名変更とともに改題された。古関裕而が作曲しており、同じ古関の作による「闘魂こめて(巨人軍の歌)」よりも古い、12球団中で最古の球団歌である。
ラジオパーソナリティ 中村鋭一が広めた「六甲おろし」
当初は球場で若山彰の歌唱によるものが流されていたというが、1970年代に入ってから、当時朝日放送のアナウンサーで後に政治家となった中村鋭一が、自身のラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で紹介したことで人気が拡がり、1972年にテイチクの朝日放送レーベルからレコードが発売されると、40万枚(公称)のヒットに。その後、1980年ビクターから発売された立川清登による歌唱ヴァージョンが球団歌として公認された。
中村鋭一は1976年にもキダ・タロー作曲による公認ソング「タイガース音頭 / 進め!タイガース」を東宝レコードからリリースした。ほかにも、1978年には藤井次郎が歌う「タイガース讃歌 輝け!青春 / タイガース・マーチ 憧れのユニホーム」が東芝から。1980年には山口洋子作詞、猪俣公章作曲でたいらいさおが歌った「行くのだタイガース / 炎の旗」がキングレコードから、演歌の作家陣ながら猛々しい応援歌となっている。さらに1982年には植草貞夫「トラトラマーチ」(ポリドール)、1984年にはオレンジ・ギャルズ「やっぱり阪神タイガース」(徳間ジャパン)など枚挙に暇がない。
田淵幸一、セ・リーグ連盟歌「六つの星」にコーラス参加
さて、選手が歌ったレコードにはどんなものがあっただろうか。藤村富美男、村山実に次ぐ3代目 “ミスタータイガース” 田淵幸一にはソロの歌唱はないが、1976年に出されたセントラル・リーグの連盟歌「六つの星」で細川たかしのバックコーラスを務めている。
セ・リーグ6球団から各一人ずつ参加したコーラス陣はほかに、王貞治(巨人)、山本浩二(広島)、星野仙一(中日)、平松政次(大洋)、松岡弘(ヤクルト)のオールスター連合。あの頃のプロ野球が面白かったわけである。
田淵は “世界の王選手” とホームラン争いをするなど、タイガースの主砲として活躍したが、1979年にパ・リーグの西武ライオンズへ移籍。同年には田淵パートだけが掛布雅之に交替した「六つの星」の新ヴァージョンがジャケットを一新して発売された。本当に歌い直されていたかどうかは定かでない。
スマッシュヒットを記録した、江本孟紀「恋する御堂筋」
忘れてならないのは、“エモやん” こと江本孟紀。1982年のベストセラーとなった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が思い出されるが、歌手デビューはもっと早く、1973年のこと。「アカシヤの面影」に続いて水島新司の漫画のイメージソング「あぶさん」を歌い、1979年に入江マチ子とのデュエットで出した「恋する御堂筋」はスマッシュヒットを記録した。以上はいずれもテイチクから。
その後1980年にもビクターから「霜降り橋まで」、1983年にはバップから「あなたまかせの夜」というシングルを出している。さらに1987年にはポリドールからアルバム『素敵なジェラシー』を出してアーバンなシティポップを歌っているのはさすが。
遠藤良春が歌った「GO!GO!掛布」。本人歌唱ではないけれど…
4代目 “ミスタータイガース” 掛布関連のレコードでは、本人歌唱ではないが1977年に遠藤良春が歌った応援歌「GO!GO!掛布」がヒットした。先述の「六つの星」と同じく中山大三郎の作詞・作曲。
スポーツ系の歌に演歌界の作家が関わるケースが多いのは、日頃の交友関係からだろうか。はたまた相撲の影響か。昭和の野球選手が歌うレコードはたいていがポップスよりも演歌寄りである。そんな中、掛布本人がはらたいらのプロデュースで1978年に出した「掛布と31匹の虫」は、作詞がはらたいら、作曲が長戸大幸という異色盤。かなりトリッキーな歌でヒットには至らなかった。
岡田彰布、真弓明信も歌手デビュー!
掛布の後継者ともいうべき岡田彰布は、阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(= 元ラブ・ウィンクスの平田和子)とのデュエットで「逢えば涙になるけれど」を1982年にミノルフォンレコードから出している。
1984年にはセ・リーグ讃歌「ビクトリー」に細川たかしのバックコーラスとして参加。これも中山大三郎の作曲で、各球団からのコーラス参加者は、原辰徳(巨人)、高橋慶彦(広島)、遠藤一彦(大洋)、宇野勝(中日)、荒木大輔(ヤクルト)と、プロ野球界のスターにも新旧交代が窺われる。
そして岡田真弓のネーミングの元となった一方の雄、真弓明信も1985年に「男の夢 / 愛はふたたび」で歌手デビュー。三木たかし作曲による哀愁の男うた。これまた演歌なのでありました。
小林繁のモノマネでブレイク、明石家さんま「Mr.アンダースロー」
優勝の年、1985年から1986年にかけても当然たくさんのレコードが出されたわけだが、最後に触れておきたいのは、1979年の明石家さんまのデビュー曲「Mr.アンダースロー」。小林繁投手の形態模写でブレイクしたさんまがタイガースのユニホームを着てピッチングポーズをとる、これぞモノマネ系の一枚である。
本物の小林繁もデビュー曲となった「亜紀子」をはじめ、「昨日の女」「まわり道」など、自慢のノドを聴かせるレコードを数多く出していた。悲劇のヒーローの早逝が偲ばれる。
※2019年10月16日、2020年10月16日に掲載された記事をアップデート
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2022.10.16