一般に「通天閣は大阪のシンボル」とされているが、私は初めてあのタワーを見たときから、ぬぐいきれない違和感をずーっと持ち続けてきた。その理由は、ど真ん中に燦然と輝く『HITACHI』のネオンサインだ。
われわれ関東の人間からすれば、日立製作所は関東、それも北関東・茨城の会社である。小学校の授業で「日立鉱山の歴史」とか「日立グループと地域産業」とかを教えられてきた。
だから大阪と日立がどうしても心の中で結びつかないのだ。一目瞭然なのに、なぜみんなその矛盾を指摘しないのか、子ども心に不思議でしようがなかった。
逆に、東京下町の名所、浅草雷門の大提灯に「松下電器」の社名がデカデカと入っているのをご存知だろうか?
幼いころから幾度となくこの巨大な提灯の下をくぐり抜けて来た私にとって、これもまた奇妙で仕方がないことの一つだった。なぜナニワの会社が、江戸っ子の心のよりどころに協賛しているのだろうか、と。
この、江戸と浪華の[象徴的建造物]におけるスポンサー逆転現象は、私の内で長年の疑問としてくすぶっていた。その想いは、広告代理店で仕事をするようになり〈地元の観光名所の広告協賛は、地元の有力企業がするもの〉という鉄則を知ってさらに強くなった。
「いったいどこの代理店が仲介したんだ」
「なぜ地場の企業をつけなかったのか」と、
つまらぬ憤りすら感じていた。
それから25年、私は東京から大阪に単身赴任することになった。いの一番に通天閣のふもとに行き、『HITACHI』の看板を見上げてハタと気付いた。
そうか、これは「関東者が関西にしっかり根付いて、環境適応してるんだぜ」という証しなんだ。よそ者が未開の地に挑む、フロンティア精神の表れなんだとやっと分かった。俺も日立の看板になろうと心に決めた瞬間である。
そのとき聴いていたのが『悲しい色やね』だった。作曲は80'sを代表するヒットメーカー・林哲司である。
『悲しい色やね』は、皆がみな、大阪のご当地ソングだと思っているだろう。だが、最初のねらいはそうではなかったらしい。
そもそも作曲の林哲司も作詞の康珍化も静岡出身である。とくに林は歌詞が関西弁になるとは全く予想だにしていなかったようだ。事実、林は自らのエッセーで〈自分の知らぬ間に康が関西弁の歌詞をつけてしまい、当初のイメージとかけ離れた仕上がりに、大いに当惑し落胆した〉と綴っている。
しかしまた〈時間を経るうちに、これはこれでいいんだと思い直した〉とも書いている。いわば、素材は関東だけど、関西風にうまく味付けできたという例だ。通天閣の日立の看板と同じである。
ただ、この曲のサビで「♪大阪ベイブルース〜」と歌ってるけど、野球は関係ない。最初に聞いたとき「なんか阪神タイガースの助っ人外人みたいだなぁ」と思っていたことは大阪人にはナイショだ。
2016.04.24
YouTube / 橋本吉亨
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