稀代のディスコクイーン、ドナ・サマー ドナ・サマー、米ボストンにて1948年12月に生まれる。今から12年前の2012年5月17日肺がんのため63歳でこの世を去った。存命ならばこの春75歳になっていたということで、やはりあまりにも早すぎる死だったと言わざるを得ない。彼女の命日が巡ってくる度に、稀代の “ディスコクイーン” が残した数々の偉大なるヒットソングが、頭の中で知らず知らずのうちに鳴ってくる… そう、ドナほど世界のダンスフロアを席巻したディーヴァは、“クイーン・オブ・ポップ” マドンナ以外見当たらないと言っていいだろう。
ドナ・サマーはアメリカ生まれのアフロ・アメリカン、10代終盤の1960年代にはプロの歌手として活動を始めていた。もちろんまだ時代的にはディスコ・ムーヴメントなんていうものもあるわけでもなく、ドナがメジャーシーンに台頭していくことは叶ってはいない。特に本国アメリカでは何も起こらない中、1973年ころ英国プロデューサーのピート・ベロッテ、及びイタリアのプロデューサー、ジョルジオ・モロダーと運命の邂逅を果たし、25歳でようやく初アルバムをリリースすることに。しかし、欧州でリリースされたデビュー作は、一部の国での小ヒットシングルが生まれるにとどまり、一般大衆に広く知れ渡ってはいない。
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アメリカで展開された前代未聞のプロモーション 1975年、大衆音楽のメインストリームにディスコ旋風が吹き荒れつつある中、ピート&ジョルジオのプロデューサーチームはディスコ市場であるダンスフロア需要に振り切ったシングル「愛の誘惑(Love To Love You Baby)」をリリース、ドナ26歳の時だった。
ディスコDJたちに1曲入りのLPサイズのレコードを配布し(最も古い12インチシングルとされる)、ほどなくして発売されたアルバムには、初代ディスコクイーン、グロリア・ゲイナーの手法を踏襲ともいえる片面まるまる「愛の誘惑」の長尺バージョンを収録するなど、ディスコ・ムーヴメントの発信源でもある本国アメリカにおいて、前代未聞のプロモーションが重点的に展開された。
このような地道、かつ斬新なプロモーション展開が功を奏し、1975年にはフロアでの人気が徐々に増大、1975年末には遂に念願のビルボードのメインチャート “Hot 100” に初エントリーを果たす。1976年に入るとその勢いを増して、1974年秋に新設されたディスコチャートで1位、R&Bシングルチャートで3位、そして “Hot 100” で2位と、ビルボードの各主要チャートで上位を占めることに。遂にドナは母国アメリカへの凱旋を果たすとともに、新たな “ディスコクイーン” の座を自らの手で手繰り寄せたのだ。辛酸をなめながら長い下積みを経た末に獲得したディスコクイーンの称号、ドナの喜びはひとしおだったであろうことは想像に難くない。
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1979年はドナ・サマーにとってピークの年 その後ドナはディスコ・ムーヴメントが増幅していくに伴ってヒットシングルを次から次へと連発していく。そのムーヴメントがピークを打った1979年は、まさしくドナにとってもピークの年。ダンスフロアの定番となった「ホット・スタッフ」「バッド・ガールズ」が余裕の全米ナンバーワン、米国を代表する女性歌手バーブラ・ストライザンドとのデュエット「ノー・モア・ティアーズ」もナンバーワン、ブルックリン・ドリームスとの最高のダンスチューン「ヘヴン・ノウズ」や「ディム・オール・ザ・ライト」もトップ10ヒットを記録。さらにアルバム『バッド・ガールズ』も前年の『ライヴ・アンド・モア』に続いてアルバムチャート1位…。この年はドナ・サマーの名がヒットチャートの上位から消えることはなかった。
75年の「愛の誘惑」以降、後のハイエナジー~ユーロビートの源流である「アイ・フィール・ラヴ」(1977年)、ウィスパリング多用からソウルディーヴァ的歌唱に振り切り大ヒットを記録した「ラスト・ダンス」(1978年)、他を寄せつけない典型的ドナ流組曲風ディスコとも言える「マッカーサー・パーク」(1978年)といったエポックメイキングな曲を挟み込みながら、1970年代後半の途切れないヒット攻勢はとにもかくにも圧巻の一言。
ディスコ隆盛の時代は同様にドナ・サマー隆盛の時代だったということだ。ディスコDJ用12インチプロモ盤という手法も1980年代にかけて常套プロモーションとなったし、歌手としてのクオリティコントロールを実力で獲得したことは、後進の女性シンガーたちのロールモデル的存在になっていたのは間違いない事実だった。
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ドナ・サマーを担ぎ出したユーロビート旋風の立役者 1970年代後半に隆盛を極めたディスコムーヴメントは、1980年代の幕開けとともに潮が引くように終焉を迎えた。もちろんダンスミュージックが大衆音楽のメインから消え去ることはなく、旧態然としたディスコサウンドからニューウェイヴやブラックコンテンポラリーを軸としたポストディスコ期へと突入したというわけだが、ドナのダンスミュージックシーンへの影響力は徐々に失速していったのは否めない。
ディスコ隆盛期の余波で「オン・ザ・レイディオ」「ザ・ワンダラー」(ともに1980年)といった大きなヒットは輩出していたが、80年代の印象的なトップ10クラスのヒットソングといえば「ラヴ・イズ・イン・コントロール」(1982年 / 最高位10位)、「情熱物語(She Works Hard For The Money)」(1983年最高位3位)の2曲のみ。80年代後半になるにつれヒットチャートから少しずつ遠ざかっていく。
このまま新たな大ヒットソングは望めないのか、と諦観の念が漂い始めたのだが… 救いの手を差し伸べたのが、なんと1980年代後半の新たなダンスフロア・ムーヴメント “ユーロビート”! 世を席巻したユーロビート旋風の立役者たるプロデューサーチーム、ストック・エイトキン・ウォーターマン(以下SAW)が、真打ち登場とばかりにドナ・サマーを担ぎ出したのだ!
往年のディスコクイーンがユーロビート⁉ と当初は違和感を覚えたものの、できあがった楽曲「ディス・タイム・アイ・ノウ・イッツ・フォー・リアル」(1989年)はSAW入魂の珠玉なポップ・ユーロビートに仕上がり、全世界が納得。ドナの歌声も実にのびのびと余裕の横綱相撲的歌唱が功を奏して世界各国で大ヒットを記録、ドナ / SAW両者にとってウィンウィンな結果をもたらせた。
その後、1990年代を通してハウスミュージックシーンを主戦場にして、大衆音楽の第一線にい続けていたことを考えれば、SAWとの邂逅は復活のきっかけになったということになる。それにしてもSAWの面々、ドナに声がけした時、実際目の当たりにした時、震えたんだろうな。
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ヒットシングルを網羅した「ドナ・サマー・ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ-」 今年2024年は、初アルバム『Lady Of The Night』、そしてそのシングル「恐怖の脅迫電話(The Hostage)」の発売から50周年となる。これらを記念してユニバーサルミュージックから『ドナ・サマー・ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ-』がCD3枚組 / DVD1枚のボリュームで4月にリリースされた。
なんと初CD化となった「恐怖の脅迫電話」含めておおよそ1970〜1990年代の主だったヒットシングルはほぼ網羅!これは一家に1枚級の偉業でしょう。永遠のディスコクイーン、ドナ・サマーの歌声変遷の軌跡を、これを機会にあらためて浸ってみるのも一興ではないだろうか。
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2024.05.17