新人発掘と毎週の競争と新陳代謝
以前、NHKで『のぞき見ドキュメント 100カメ』という番組があった。ある特定の場所に100台もの固定カメラを設置し、そこにいる人々の生態をのぞき見るというもの。その第1回が集英社の『週刊少年ジャンプ』編集部だった。
廊下の壁一面にこれでもかと貼られた販促用のポスター、デスクの上にはギャグ漫画のように山積みされた資料に、カップラーメンと携帯電話が似合う編集者たち―― とまぁ、絵に描いたような雑誌編集部の様子が生々しく映し出されて面白かったんだけど、中でも興味深かったのが、持ち込みの新人作家への対応と、毎週の読者アンケートのランキング発表だった。
編集部への持ち込みは毎日10件以上もあり、なんと、絶対に断らないという。大体、編集者が原稿を読んでいる間、新人作家たちは緊張してお茶も喉を通らない様子で、その後にもらうアドバイスは結構辛らつな意見も多いんだけど、愛のある厳しさが垣間見えたりもした。
一方、そんな編集者たちも、毎週やってくる読者アンケートの発表の日は一転、緊張した面持ちに。それもそのはず、その結果次第で、担当する連載の打ち切りが決まることもあるから。実際、番組では携帯電話で担当する作家に打ち切りを伝える様子も映し出された。
とはいえ、そんな打ち切られた作品に代わり、新人作家の作品が華々しくデビューするサイクルが繰り返され、今日の “ジャンプ帝国” が築かれたのだ。新人発掘と毎週の競争と新陳代謝―― これがジャンプの三大原則「友情・努力・勝利」と並ぶ、同編集部のDNAである。
少年誌群雄割拠の時代に培われた「週刊少年ジャンプ」のDNA
そう、DNA――。時に、今から54年前の今日、1968年7月11日に『週刊少年ジャンプ』は創刊されたんだけど、当時は先行する『少年マガジン』(講談社)、『少年サンデー』(小学館)、『少年キング』(少年画報社)らに人気作家を取られ、仕方なく新人作家ばかりを集めて船出したという。
その後、そんな新人たちから永井豪先生や本宮ひろ志先生らスター漫画家が育ち、ジャンプは先行する少年誌らを抜き去り、1973年に発行部数でトップに立つ。そんな歴史から、常に新人作家の発掘に余念のない、持ち込み作家を決して断らない同編集部のDNAが生まれたのである。
え? そこから今日まで、ジャンプ一強の時代が続いているのかって?
いえいえ、そう簡単にコトが運ばないから、世の中面白い。実は少年誌の競争にとって、かつて最も面白い時代があった。それが1970年代後半から80年代前半までの、いわゆる少年誌の群雄割拠時代。少々、前置きが長くなったが、今回はその時代の話である。
そう、群雄割拠――。NHKの大河ドラマも大抵、人気が高いのは、戦国時代モノである。中国の歴史ものでは、群雄割拠の『三国志』が人気。テレビのプロ野球中継も、最も視聴率が高かったのは、巨人のV9時代(1965年~73年)ではなく、その後の70年代半ば~80年代半ばの群雄割拠時代である。ほら、大洋ホエールズを除く5球団が代わり番こに優勝したあの時代――そう、日本人は屈指の群雄割拠好き。それは少年誌でも同じだった。
1970年代後半、圧倒的だった少年チャンピオン人気
時に、1970年代後半―― 当時、僕ら小学生の間で最も人気の高い少年誌は、今では信じられないが、圧倒的に『少年チャンピオン』(秋田書店)だった。連載漫画は『ブラック・ジャック』(手塚治虫)を筆頭に、『ドカベン』(水島新司)、『がきデカ』(山上たつひこ)、『魔太郎がくる!!』(藤子不二雄)、『ふたりと5人』(吾妻ひでお)、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)、『750ライダー』(石井いさみ)、『ゆうひが丘の総理大臣』(望月あきら)等々。そして、遂にチャンピオンはジャンプを抜いて、発行部数で250万部と、トップに立ったんです。
当時のチャンピオンの編集長は、コワモテで知られる伝説の壁村耐三サン。工業高校を中退して秋田書店に入社した叩き上げで、若い時に手塚治虫の担当を務めた縁で、後年、スランプに悩む漫画の神様に「医者の漫画を描いたら?」と提案して、あの『ブラック・ジャック』が生まれたという。
しかし―― そんなチャンピオンの全盛期は、長くは続かない。70年代末、人気連載が続々と終了すると、一気に部数は激減。代わって、80年代に入って部数を伸ばしたのが、『少年サンデー』だった。当時の目玉連載は、『がんばれ元気』(小山ゆう)、『まことちゃん』(楳図かずお)、『うる星やつら』(高橋留美子)、『タッチ』(あだち充)―― と、時代はラブコメ流行りへ。1982年末発売の合併号では228万部を記録して、いよいよトップの『週刊少年ジャンプ』の背中を捕らえたかに見えた――。
だが、そこへ全く違うアプローチで攻めてきた少年誌があった。『少年マガジン』である。
少年誌からグラビアアイドルを!「少年マガジン」が拓いた活路
『少年マガジン』はもともとサンデーと並んで1959年創刊と、なんとジャンプの創刊より10年も早く登場した。当初は、藤子不二雄や赤塚不二夫らを擁するサンデーに人気で後れを取ったが、60年代半ば以降、『巨人の星』(作:梶原一騎、画:川崎のぼる)や『あしたのジョー』(作:高森朝雄、画:ちばてつや)のスポ根路線で巻き返し、少年誌初の100万部超え。そして、70年代には劇画路線を開拓して青年向け雑誌に転向し、大学生の間で「右手に(朝日)ジャーナル、左手にマガジン」と言われたこともあった。
だが、気がつけば、小学生らにそっぽを向かれたマガジンは部数を徐々に落とし、一方、小学生向けの作品を揃えた『少年ジャンプ』が代わって首位を取る。先にも述べた1973年のことである。この辺りからマガジンの低迷時代がしばらく続くが、78年にラブコメ路線の『翔んだカップル』がヒットしてから徐々に人気を回復。そして82年―― 少年誌初のオーディション企画「ミスマガジン」が始まる。
それは、写真家の野村誠一を起用し、読者投稿で少年誌からグラビアアイドルを誕生させるというもの。栄えある第1回グランプリに輝いたのは伊藤麻衣子、第2回はグランプリが加藤香子で準グランプリに白石さおり、そして第3回グランプリが斉藤由貴だった。アイドル登竜門として成功した同企画に影響を受け、この時期、サンデーやチャンピオンも表紙を水着姿のグラビアアイドルが飾ることが定着する。
だが、その流れに追随しない少年誌がただ一誌あった。『少年ジャンプ』である。
「北斗の拳」が確立した、ジャンプだけのオリジナリティ
1970年代後半から、ジャンプはギャグ漫画路線を歩んでいた。当時の人気連載は、『東大一直線』(小林よしのり)、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋本治)、『すすめ!! パイレーツ』(江口寿史)、『キン肉マン』(ゆでたまご)等々。だが、絶頂期の少年チャンピオンを前に、苦戦を強いられていた。そこで80年代に入ると、今度はラブコメ路線の少年サンデーに対抗して、新たに女性キャラクターが活躍する作品を投入する。それが、『Dr.スランプ』(鳥山明)、『ストップ!! ひばりくん!』(江口寿史)、『キャッツ♥アイ』(北条司)だった。
気がつけば、広角打法で多様な読者層に受け入れられるようになっていた『少年ジャンプ』。部数も300万部に伸ばし、少年誌のトップに君臨していたが―― 足りないのは、ジャンプならではの、他にはないオリジナリティあふれる作品だった。
そして1983年―― 遂に、その作品が登場する。『北斗の拳』(作:武論尊、画:原哲夫)である。バトルものながら、敵が絶命する際に叫ぶ「ひでぶ」「あべし」「たわば」などの奇妙なフレーズや、主人公・ケンシロウの決め台詞「お前はもう死んでいる」などの独特の世界観がウケて、大ヒット。シリアスな話なのに、台詞はギャグという全くの新しい作風で、ジャンプは1年間で100万部も部数を増やし、400万部を突破する。
『少年ジャンプ』が孤高の653万部に向けて走り出す前夜―― 少年誌の群雄割拠の時代があったことを忘れてはいけない。
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2022.07.11