1963年 6月15日

坂本九が国際的スターに登りつめるまで!全米ナンバーワンをマークした唯一の日本人歌手

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坂本九のシングル「上を向いて歩こう」がビルボード(Billboard)誌で週間1位を獲得した日(米国)
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1963年6月15日、「上を向いて歩こう」ビルボード総合チャート1位を獲得


1963年6月15日。日本人初の偉業が達成された。この日付けの音楽業界誌『ビルボード』と『キャッシュボックス』の両方で坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が総合チャート1位を獲得したのだ。今年はそれから60年の節目。十干十二支が一巡した今もなお、全米ナンバーワンをマークした日本人歌手は坂本九ただ一人であり続けている。

その坂本は1941年12月10日、神奈川県川崎市で9人きょうだいの末っ子として生まれる。存命なら今日が82歳の誕生日である。ちなみに “九” は本名だが、読みは “ひさし” 。デビュー後は “きゅう” と名乗り “九ちゃん” の愛称で親しまれる。

高校時代、世を席巻していたロカビリーに傾倒した坂本は米軍基地でエルヴィス・プレスリーの歌などを歌い始め、1958年、ロカビリーバンドとして活動していた “井上ひろしとザ・ドリフターズ”(のちのザ・ドリフターズ)に加入。16歳の若さでボーカルとギターを担当する。同年8月には「第3回日劇ウエスタンカーニバル」に初出演。新人賞を受賞して頭角を現すが、母親が芸能界入りに反対していたこともあり、一旦は学業専念と芸能界引退を決意する。

その判断を覆したのが、マナセプロダクション創業者の四女・曲直瀬信子であった。戦後まもなく、曲直瀬正雄・花子夫妻によって設立されたオリエンタル芸能社を前身とする同事務所は米軍基地にバンドやショーの手配をすることから社業を拡大。夫妻の長女・美佐も1955年に渡辺プロダクションを起業し、夫で社長の晋と二人三脚でショービジネスの近代化を図っていた。余談だが、マナセプロの現社長・道枝は夫妻の五女。渡辺プロとマナセプロはまさに姉妹関係の会社として成長してきたのである。

ロカビリーファンの信子は坂本の才能に着目し、自宅まで足を運んで母親と本人を説得。ザ・ドリフターズのリーダーだった岸部清(のち第一プロダクションを創業)にも話を通し、翻意した坂本を自社の所属タレントとする。「歴史にIFはない」と言うが、信子にそこまでの熱意がなければ日本人歌手の全米1位はいまだに達成されていないであろう。

お茶の間の認知度を高めていく “九ちゃん”


1958年11月、水原弘が抜けた “ダニー飯田とパラダイス・キング”(略称 “パラキン” )に加入した坂本はジャズ喫茶や日劇ウエスタンカーニバルに出演を重ねる一方、テレビにも進出。1953年に放送を開始したテレビは皇太子殿下(現・上皇陛下)のご成婚(1959年4月)を機に急速に普及していたが、人気番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)に早くから出演した “九ちゃん” はお茶の間の認知度を高めていく。

パラキンは1959年にビクターからレコードデビュー。シングル1枚とアルバム2枚を発表するもヒットには至らなかった。当時の坂本はジャズ喫茶で黄色い声援を浴びながら、映画にも次々と出演。今で言うアイドル的な人気を獲得していたが、レコードのセールスには直結しなかったわけだ。

しかし、程なくして2人目のキーマンが登場する。音楽プロデューサーの草野浩二である。新興音楽出版(現:シンコーミュージック・エンタテイメント)を創業した草野貞二の次男として生まれた彼は、父親の会社で『ミュージック・ライフ』の編集長を務めていた兄・昌一の紹介で1960年、東京芝浦電気レコード事業部(のちの東芝EMI / 現:ユニバーサル ミュージック)に入社。発足6年目の新しい会社ということもあり、制作部門に配属後わずか3ヶ月でディレクターとなる。まだ22歳の若さであった。

青島幸男作詞家デビュー作、「悲しき六十才」


当時のレコード会社には原則として自社所属の作詞家と作曲家にしか発注しないという専属作家制度が存在したが、新興の東芝には演歌を書く数名の専属作家がいるだけで、ポップスを書ける作家がいなかった。「だったら外国のポップスをカバーすればいい」。そう考えた彼は兄の協力を得て、『ミュージック・ライフ』編集部に寄せられる各社のテスト盤を片っ端から試聴。その中から日本人受けしそうなメロディを持つ「ムスターファ」をセレクトする。中東発祥といわれる民謡を原曲とする同曲はヨーロッパでヒットしていた。

草野は『ザ・ヒットパレード』の演出を担当していた椙山(すぎやま)浩一(当時はフジテレビのディレクター / のちに作曲家 “すぎやまこういち” として数々のヒットを放つ)に訳詞を依頼。そうすれば番組で紹介してもらえるかもしれないという計算があったからだ。その椙山が「俺よりもいい人物がいる」と言って紹介したのが、当時放送作家として活躍していた青島幸男だった。

「俺には詞なんて書けないよ」。そう渋る青島を説得した草野はその頃ヒットしていたザ・ピーナッツの「悲しき16才」をもじって邦題を「悲しき六十才」に設定。のちにクレイジーキャッツの作品などで一世を風靡する青島の作詞家デビュー作となる。一方で「この曲には坂本九の声が合う」と考えた草野はマナセプロにプレゼン。首尾よく了解が得られたため、パラキンの東芝移籍が決定する。



坂本九が今も歌い継がれるヒット曲をたくさん出すことができた理由とは?


1960年8月に発売された「悲しき六十才」は『ミュージック・ライフ』の人気コーナー「東京で一番売れているレコード」(オリコンが集計を開始する1968年まで最もメジャーなヒットチャート)の1位になるほどのヒットを記録。メインボーカルを務めた坂本にとっても、これが初仕事だった草野にとっても出世作となった。この出会いがなければやはり「日本人初の全米1位曲」は誕生していなかったに違いない。

「九坊(坂本の愛称)は僕のプロデューサー人生において重要な位置を占めるアーティストです。ロカビリー出身らしいヒーカップ唱法(しゃくりあげるような裏声で独特のアクセントを醸し出す歌い方)が特徴ですが、決して技巧派ではありません。でも音程が正確だとか、そういうことを超越した彼にしか出せない味があった。いつも朗らかで親しみやすい、あのキャラクターも含めてです。それはポピュラー歌手として大事な要素。今も歌い継がれるヒット曲をたくさん出すことができたのが何よりの証拠です」

今年11月に出版された制作回想記『見上げてごらん夜の星を 音楽プロデューサー草野浩二伝』(シンコーミュージック・エンタテイメント)で坂本の魅力をそう語った草野はパラキンの次のシングル「ビキニスタイルのお嬢さん」のカップリングに収録した「ステキなタイミング」(オリジナル:ジミー・ジョーンズ)の訳詞を兄の昌一に依頼。それまで “新田宣夫” 名義で歌本の訳詞を手がけていた昌一はレコード用に新しいペンネームを考案する。そう、“漣健児(さざなみけんじ)” である。以後、400を超える訳詞を手がけ「ルイジアナ・ママ」「ヴァケーション」「可愛いベイビー」などのヒットを出す稀代の訳詞家は弟からのオファーで誕生したのだった。



草野と漣健児はパラキン以外でもタッグを組んで、森山加代子、弘田三枝子、スリー・ファンキーズなどでヒットを量産。洋楽に日本語の詞を乗せたカバーポップスで歌謡界に一大ブームを巻き起こす。

初めてソロとしてリリースしたオリジナル曲「上を向いて歩こう」


ブームの一翼を担った坂本はその後も「カレンダーガール」(オリジナル:ニール・セダカ)などでパラキンのメインボーカルを務めるが、その彼が初めてソロとしてリリースしたシングルが日本人作家によるオリジナル曲「上を向いて歩こう」であった。作詞の永六輔と作曲の中村八大は1959年、水原弘「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。どのレコード会社にも属さないフリーの作家であった。

1961年7月21日、東京・大手町の産経ホールで開催された中村八大のリサイタルのために書き下ろされた同曲は、中村の指名で坂本がステージで歌唱。永六輔が1986年に出版した『六・八・九の九 坂本九ものがたり』(中央公論社)には当時19歳の坂本が脚をガタガタ震わせながら直立不動で歌う姿が、舞台袖にいた永の視点で描かれている。

その翌月、永と中村が構成と音楽を担当するNHKのバラエティ番組『夢であいましょう』で披露したところ大きな反響があったため、2人が毎月新曲を発表していた同番組の人気コーナー「今月のうた」で10月から放送されることが決定。「だったらレコードを出そう」ということになり、草野は有楽町の朝日新聞ビル(現:マリオン)内にあった大阪朝日放送のスタジオでレコーディングを行なう。

1961年10月に緊急発売された「上を向いて歩こう」は「今月のうた」で2ヶ月間紹介されたことも手伝って爆発的なセールスを記録。前述の「東京で一番売れているレコード」では同年11月から翌年1月まで3ヶ月連続で首位を独走する。



同曲で年末の紅白歌合戦に初出場を果たした坂本は以後11回連続で出演。1969年には白組司会を務めるなど、マルチな才能を発揮してスターの座を確立する。その彼が海外でも知られるようになったのはひょんなことがきっかけだった。その裏には草野の上司・石坂範一郎(東芝社長や経団連会長を歴任した石坂泰三の親戚)の尽力もあったようだが、ここからは海外における展開を追っていこう。

なぜ「SUKIYAKI」というタイトルになったのか?


まず1962年8月にフランスのレーベル、パテ・マルコーニが「上を向いて歩こう」を含む坂本の4曲入りレコードを発売。続いて英国のパイ・レコード専属のインストゥルメンタルグループ“ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメン”が「SUKIYAKI」というタイトルでカバーし、全英10位のヒットを記録する。なぜ「SUKIYAKI」にしたかは、パイ・レコードの社長が来日した時に口にしたすき焼きの味が記憶に残っていたからという説、ケニー・ボールが友人の女性歌手、ペトゥラ・クラークのアイデアを採用したという説などがある。

米国では1963年春、あるラジオ局のDJがたまたま入手した坂本盤を自分の番組で流したところ問い合わせが殺到。その反響が米キャピトル・レコードに伝わり、同年5月「SUKIYAKI」(タイトルは当初「SUKIYAKA」だったが、すぐに修正)としてリリースされることが決定する。



ビルボード誌では初登場79位のあと、週ごとにランキングを伸ばし、6月15日付けから3週連続で1位を獲得、キャッシュボックス誌では4週連続の1位を記録する。太平洋戦争の終結から18年、日本人が歌う日本語の歌が米国人に支持されたことは快挙であった。それは中村の洋楽的な旋律と軽妙で洒落たコード進行、意味は分からずとも聴き手の心に響く永の詞と坂本のボーカルがマッチしていた故だろう。

日本人としては初めて全米レコード協会のゴールドディスク賞を授与


同年8月、キャピトル・レコードの招きで渡米した坂本は現地で熱烈な歓迎を受け、ABCの人気テレビ番組『スティーブ・アレン・ショー』に出演。ハリウッドのスタジオで「上を向いて歩こう」などを歌ったことでさらにセールスが伸び、1964年5月には全米レコード協会のゴールドディスク賞を日本人として初めて授与される。

今より遙かに海外が遠かった時代、米国における坂本の活動はシングル3作、アルバム1作で終了するが、70ヶ国以上で発売された「上を向いて歩こう」は、全米3位をマークしたテイスト・オブ・ハニー盤(1981年)など、国内外のアーティストにカバーされる世界的なスタンダードソングとなった。日本では東日本大震災の復興支援ソングとして口ずさまれるなど、老若男女から愛され続けている。

坂本自身は1985年8月、日本航空123便墜落事故のため43歳の若さで帰らぬ人となるが、特筆すべきは「上を向いて歩こう」以外にも多くのレパートリーが歌い継がれていること。音楽の教科書にも掲載されている「見上げてごらん夜の星を」(1963年)、2001年にリバイバルヒットを記録した「明日があるさ」(1963年)、米国の民謡を原曲とする「幸せなら手をたたこう」(1964年)、岸洋子盤がヒットした「夜明けの唄」(1964年/オリジナルは坂本盤)、各社競作の先駆けとなった「涙くんさよなら」(1965年)など、坂本の歌唱で世に出たスタンダードソングは数知れない。

存命なら今も朗らかな笑顔で日本を明るくしてくれていたに違いない坂本九。今年6月には「上を向いて歩こう」の関連アイテムをBOXに収めた『THE BOX of 上を向いて歩こう/SUKIYAKI』(アナログシングル+SHM-CD+DVD+ブックレット)がリリースされるなど、その歌声は時の洗礼を受けても全く色褪せていない。J-POPの礎を築いたと言っても過言ではない九ちゃんの歌声はこれからも人々に希望のあかりを灯し続けていくことだろう。


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2023.12.10
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