リレー連載【80年代アイドルの90年代サバイバル】vol.2- 本田美奈子
「1986年のマリリン」でトップアイドルとなった本田美奈子
本田美奈子が「殺意のバカンス」でデビューしたのは1985年4月のこと。この年には斉藤由貴、松本典子、中山美穂、浅香唯、南野陽子、井森美幸などもデビューしており、アイドルの当たり年とも言われている。こうした状況のなか、本田美奈子は「1986年のマリリン」(1986年)などのヒット曲を出し、トップアイドルの一角に位置していた。
当時としては、いわゆる可愛らしさに特化するというよりも、歌の表現に力点を置いたアイドルという印象だったが、振り返ってみると彼女のアプローチには “アイドルという括られ方に対するアンチテーゼ” とも言える要素が多かったことに気づく。
たとえば、彼女の楽曲には初期からデジタルビートを積極的に取り入れるなど、洋楽的なアプローチが見られた。さらに、3枚目のアルバム『CANCEL』(1986年)はロンドンでレコーディングされ、シングルカットされた「the Cross -愛の十字架-」(ゲイリー・ムーアに提供された楽曲)をはじめ、ダイアー・ストレイツ、カジャ・グー・グー、クイーンなどのメンバーが参加している。
さらに、1987年にはクイーンのブライアン・メイが手掛ける「CRAZY NIGHTS / GOLDEN DAYS」を12インチシングルでリリースしたり、海外アーティストとの共演も積極的に行っていたし。1988年には女性バンド “MINAKO with WILD CATS” を結成し、ロック色をさらに強めていった。
しかし、こうした動きは音楽的側面から見れば非常に興味深いけれど、アイドルビジネスの側面から見ると、人気の伸び悩みを打開するための試行錯誤や話題づくり、という捉え方もあっただろう。事実、これらの試みは商業的には成功したとは言えず、“MINAKO with WILD CATS” は1989年に解散、彼女自身のCDリリースも1990年のシングル「SHANGRI-LA」以降、1994年まで途切れることになる。
ミュージカル「ミス・サイゴン」のヒロインに抜擢
1990年代に入ると、本田美奈子はこれまでとは全く違う軌跡を描いていく。1990年に東京・帝国劇場で上演されたミュージカル『ミス・サイゴン』のヒロイン役に抜擢されたのだ。
ベトナム戦争を舞台にしたミュージカル『ミス・サイゴン』は1989年にロンドンで上演がスタートし、1991年にはニューヨークのブロードウエイでも上演されて大ヒットしたが、日本でも東宝がライセンスを得て上演が企画されていた。
本田美奈子は1万人以上が応募者したというオーディションを受けた結果、見事合格してヒロイン役(ダブルキャスト)を得ることになった。当初、アイドルシンガーがメインキャストを張ることに対する懐疑的な見方もあったが、彼女は見事に一年半に及ぶロングラン公演で大役をやりとげて高い評価を得た。
その後も『屋根の上のヴァイオリン弾き』(1994年~2001年)、『王様と私』(1996年~2002年)、『レ・ミゼラブル』(1997年~2001年)など、代表的なミュージカル公演で主要キャストを演じて、トップミュージカル女優として評価されるようになっていった。
本田美奈子の歌唱力は、アイドルとしての成功に十分生かせたか?
もともと本田美奈子の歌唱力には定評があった。あえて変な言い方をすると、身近なアイドルシンガーとして人気を得るためには歌唱力があり過ぎたのかもしれないという気もする。
今聴き返すと、デビュー曲の「殺意のバカンス」をはじめとするアイドル時代の曲も、むしろシティポップとして聴いた方が自然じゃないかという気もしてくる。
本田美奈子自身も、アイドルに対して強い想い入れは無かったようで、アイドルシンガーになった背景には、その方がデビューしやすかったという時代状況もあったのではないだろうか。おそらく当時、そんな葛藤を抱えていたアイドルシンガーは本田美奈子だけではなかったと思う。
アイドルは歌が下手な方が良いとは言わないけれど、アイドルシンガーの魅力をアピールする表現力といわゆる歌唱力は必ずしもイコールではないと感じている。少なくとも1980年代のアイドルにとって、歌唱力をどう生かして魅力として伝えるかというのは、なかなか悩ましい問題だったんじゃないかと思う。
もちろん本田美奈子がゲイリー・ムーア、ブライアン・メイらとのコラボレーションができたのも、彼女にしっかりした歌唱力があったからだ。けれど、その歌唱力をアイドルとしての成功に十分に生かせたか? というと疑問も残る。
本田美奈子の歌唱は、楽曲を使ってシンガーの魅力をアピールするのではなく、その楽曲の中に入り込んでそこに込められている感情を呼び起こして伝えていこうとしているように聴こえる。その意味では、アイドル時代の楽曲よりも、物語の機微を表現するミュージカルの楽曲の方が、彼女にとってより深い表現を可能とするものだったのかもしれない。
圧倒的な歌唱力、1990年代の代表曲「つばさ」
1994年に久々のシングルとして発表された「つばさ」、そしてアルバム『JUNCTION』は、本田美奈子がミュージカル体験によって、楽曲との向き合い方に確信を得たことをうかがわせる作品だ。
とくに1990年代の本田美奈子の代表曲とも言える「つばさ」の繊細さとスケール感を見事に融合させた圧倒的な歌唱は、シンガーとしての本田美奈子が「いるべき場所」を見つけたことを強く印象付けるものだった。
本田美奈子が1990年代に発表したアルバムは『JUNCTION』と『晴れ ときどき くもり』(1995年)の2枚だけだ。『ミス・サイゴン』で楽曲の日本語詞を手掛けた岩谷時子をプロデューサーにオリジナル曲だけでなく、洋楽カバーなど幅広い楽曲に取り組んだ『JUNCTION』。宮沢和史、山梨鐐平などのクリエイターと本気で正面から向き合った『晴れ ときどき くもり』と、アルバムのニュアンスに違いはあるが、どちらもアイドルの枠を脱した本田美奈子のシンガーとしての真髄を十分に伝えてくれる作品であることに違いはない。
クラシックの楽曲を中心とした「AVE MARIA」
1990年代後期になると、本田美奈子の歌唱表現の追求はさらに貪欲になり、クラシックの歌曲もレパートリーにするようになっていく。そして2003年にはクラシックの楽曲を中心としたアルバム『AVE MARIA』をリリースする。
こうして見ていくと、1980年代にはアイドルシンガー、1990年代にはミュージカル歌手、そして2000年代にはクラシック歌手と、本田美奈子はディケイドごとにそのスタイルを大きく変えていったように思える。
けれど、彼女にとってそれはいわゆるイメージチェンジではなく、自分の音楽表現を求めて行った結果にすぎなかったのではないだろうか。なぜならアイドルもミュージカルも、実は音楽ジャンルを示すものではないからだ。どちらも、その表現の様式には一定のスタイルはあるけれど、そこで演奏される音楽は極端に言えば、なんでもありだ。アイドルもミュージカルも、音楽的に見れば実に貪欲でアナーキーなフィールドなのだ。
だから、1980年代の本田美奈子は、アイドルシーンで活動しながらコンテンポラリーなポップスやロックへのアプローチを行なえたのだし、1990年代にはミュージカルという舞台で幅広いを音楽と取組むことができ、さらに内外のスタンダード曲やオリジナル楽曲とも向き合って自分の音楽表現の可能性を広げていった。そうした動きのなかでクラシックに出会っていったこともけっして不思議ではなかったのだと思う。
そんな本田美奈子の軌跡が2005年で途切れていなかったとしたら、僕たちはどんな歌の可能性に接することができたのだろう? 無いものねだりとはわかっていても、ふとそう思うこともある。
▶ 本田美奈子のコラム一覧はこちら!
2024.04.09