6月21日

ラリー・リー「ロンリー・フリーウェイ」日本仕様のアルバムジャケは鈴木英人に依頼!

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ビビビッと感性に電気が走ったラリー・リーとの出会い


私の現役ディレクター時代は、CBSレコーズ・COLUMBIAレーベルのロック担当でした。メインのアーティストは、ジャーニー、ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーン、ピンク・フロイド、ボズ・スキャッグス、ミック・ジャガーのソロetc. 数多く担当しましたが、なにかと手がかかる大物系が多かったです。

“レコード売ってナンボ” のレコード会社ですから、スーパースターたちは、いつも大きな売り上げを期待されているし、全社挙げての大プライオリティになることが多いのです。担当者としては、なんとか新しいユーザーを開拓しよう! と知恵と工夫を凝らして仕事していても、なにしろ元から “売れて当然” と思われているのです。しかもこれが始まると、かかりっきりになって他のアーティストのことに、なかなか時間を割けなくなってしまいます。こういうのは自分にとって、結構なストレスでもありました。

もちろん、私も何組かの新人アーティストも担当したこともありますが、全米で大ヒットでもしていれば話は別ですが、そうでもない場合は、余程、日本人の感性にハマるものでないと勝負できません。そういう時に出会ったのが、ラリー・リーの音楽でした。

彼はオザーク・マウンテン・デアデヴィルズという、ちょっとマニアックなカントリーロックのバンドのメンバーであり、大した期待もなく彼のソロアルバム『MAROONED』に針を落としてみたのです。1曲目は嫌いじゃない。そして2曲目のトラック「DON’T TALK」のイントロを聴いた途端、ビビビッと感性に電気が走ったのです。

この曲はカントリー系でもなんでもなく、心地よいポップソングでした。ラジオがヒットをつくっている時代です。ラジオ向きのこの曲は絶対ヒットすると確信しました。



楽曲のイメージは西海岸。マーケティングの設計図をどう描くか?


そのラリー・リーのアルバム、邦題『ロンリー・フリーウェイ』は1982年6月21日に国内発売されました。と言うことは、発売決定会議は2ヵ月前の4月中旬。音楽を聴いたのは、その前、多分3月頃だと思います。

前年の1981年7月にはジャーニーのアルバム『エスケイプ』が発売され日本でも大ブレイク。上昇気流に乗ることができると、もう我々の手を離れ、後は勢いだけです。そしてディレクターの仕事としては、この82年4月の武道館公演で一段落を迎えていました。

ちなみに、これは後から分かるのですが、同じくスーパースター、ビリー・ジョエルの新譜『ナイロン・カーテン』はこの年の10月発売です。発売準備で8月末ぐらいからは忙しくなってます。仮にこのリリースが数か月早まっていると、この後にお伝えする私の動きは実現してなかったということです。

ラリー・リーの音との出会いは、まさにこの狭間のナイスなタイミングでした。やっと面白いことがやれそうです。

曲のヨサだけで全てが始まっています。後に学ぶアーティストデベロップメントは、この時点では全く考えていません。この楽曲への期待感だけでした。打ち出し方のイメージをどうするか、つまりマーケティングの設計図をどう描くかが最重要でした。まさにこれがディレクターの仕事です。

私が感じた楽曲のイメージは完全に西海岸。“カリフォルニアの青い空とフリーウェイを走る疾走感”。自分自身がポパイ少年でしたし、当時の若者文化の主流であったウェストコースト人気を利用しないテはなかったです。となると、このビジュアルイメージはアルバムジャケットで表現するしかありません。

オリジナルのジャケットはちょっと渋く、茶系で髭面の姿がばっちりです。曲を聴いた直後からジャケット替えするつもりでしたし、これが商品の命だと確信していました。デザイナーが用意してくれた若手イラストレイターの作品集をじっくり見つめ、曲のイメージに一番合うのが鈴木英人さんの画風でしたし、アメリカかぶれの私のツボにはまってました。

自分としては、こういう過程で決定したつもりでしたが、この前後に彼のイラストは、山下達郎さんのアルバム『FOR YOU』やヒューイ・ルイスの『ベイエリアの風』のジャケットを飾っています。結果として人気イラストレイターに便乗したアルバムジャケットのひとつ、と言われても否定のしようがありません。





音楽に情景を与えてくれる鈴木英人のイラスト


英人さんの既作品から選ぶつもりで彼のアトリエを訪ねましたが、イメージに合うものが見つからず、オリジナルで描いてもらうことになりました。私もジャケットの出来にこだわっていたので、1回差し替え2度目にあがったイラストで大満足。これで絶対に売れると更に確信しました。

逆にこのイラストを見つめていると、帯に書くボディコピーなどの言葉が続々と湧き出てきました。それほど彼のイラストは音楽に情景を与えてくれたのです。

このアルバムは私もいまでも大事にしています。当時32歳・独身の私、帯にこんなこと書いてます――

フリーウェイを駆け抜ける真赤なキャディ。まぶしい午後の乾いた心。

気ままにアクセル踏み、ラジオのヴォリュームをめいっぱいあげると音楽が青空に溶け込んでいく。

なぜか悲しげひとりぼっちのフリーウェイ

―― なんのこっちゃ… ですね。恥ずかしい限りです。雰囲気だけは当時の『ポパイ』が作り上げた西海岸文化、そのものですね。それにしてもラリー・リー、ミズリー州のアーティストです。いいのかこれで… ですね。

真っ赤なマスタングのオープンカーで全国縦断、ひとりぼっちのキャンペーン


実は、このプロジェクトに関して私のディレクター人生の中で、一生忘れない出来事がありました。イラストに描かれた真っ赤なオープンカーを駆使して1か月近くかけて日本の北から南までタイトル通りに、ひとりぼっちのキャンペーンで5,000キロ走りまくったことです。

社内の宣伝会議で誰かが無責任に「ロンリーフリーウェイなんで担当者がひとりで全国ドライブしたら?」と提案したのです。大変なのは担当の私だけですし、また地方中心の動きですから東京のスタッフはほとんど労力ゼロ。そういうわけで、やたら盛り上がって即決でした。自分たちが苦労しないキャンペーンは、すぐ決まるのです。

キャンペーンに使うクルマは、私が住んでいた世田谷の環状八号線に当時多くあったアメ車の中古車ディーラーから調達したものです。イラストに描かれた赤いキャデラックのオープンカーはさすがになかったのですが、やっと見つかったものが、チューンナップされた真っ赤なマスタングのオープン仕様。これで充分です。

今でもクリアに覚えてます。1日3万円で1か月レンタルしました。売れずに展示されていた車がひと月90万円稼ぐのですから、ディーラーさんも喜んで貸してくれました。公道で乗るには区役所へ仮ナンバーを申請する必要がありますし、仕事での運転ですから会社総務を通しての契約で保険もばっちりです。気になったのはこれ。交通事故で運転手が死亡した場合の保険金受取人は会社。「私の親族じゃないのか?」そういうものですか、会社って…。



「ズームイン!!朝!」で徳光和夫とのインタビューに成功


全国行脚は3回に分けてました。まずは一番メインの西行きの行程です。東名高速で名古屋、京都大阪神戸と各地の宣伝マンと合流し、ラジオ局訪問。番組関係者を助手席に乗っけて音楽を聴きながら街なかをドライブしたり、番組にゲスト出演したりします。ま、オンエアしてもらうきっかけです。

当時は山陽道も姫路以西に高速道路がなく、夕刻神戸からフェリーで瀬戸内海を渡り翌朝九州小倉へ上陸。そこから福岡、熊本そして鹿児島まで。帰りは日向から川崎までリゾート感満載の豪華なフェリーで帰京です。これが7泊8日。

翌週は早朝、日テレの『ズームイン!!朝!』での徳光和夫さんとのやりとりを狙って麹町のサテライトの前に赤い車を停め、うちのスタッフもポスターもってアピール。当時はまだこの宣伝合戦のライバルも少なく、徳光さんとのインタビューも成功し、そこからそのまま一路東北道を飛ばして福島、仙台。ここは1泊2日。

そして、その次の週、いよいよ札幌へ向かいます。と言っても、ここは陸路なしで往復フェリーで、船中2泊しなければいけません。夜遅く晴海ふ頭から出発し、翌々日の早朝に苫小牧に着岸。そして札幌まで走ります。市内は1泊ですが、これでキャンペーンも終わったし翌日は完全に観光モードで支笏湖ドライブです。帰りはさすがにまた船2泊は退屈なので、苫小牧から仙台までフェリーに乗って、仙台から陸路で帰京。ここは4泊5日。

車の運転は元来大好きです。会社の費用で真っ赤なオープンカーに乗って日本一周ドライブという貴重な経験をさせてもらいました。旅の途中には色々なことがありました。



真っ赤な車で5,000キロドライブ。死ぬまで忘れない思い出


東京出発時、用賀入口でヒッチハイクのアメリカの青年を拾ってドライブの道連れに。神戸から小倉のフェリーでは個室がなく4人部屋。行商のオヤジさんに、「にいさん、キャンペーンでレコード売ってるんだ、大変だね」と同情され、熊本では通行区分帯違反で最初の切符を切られています。

熊本から鹿児島へは当時高速道路がありませんでした。助手席に福岡の宣伝マンを乗っけて国道3号線を深夜走行でトコトコ早朝到着。朝の生番組出演まで時間調整で男2人でラブホでシャワー浴びて仮眠。予定では、番組が終わって宮崎の日向に向かい、夕方のフェリーで東京へ帰ることになってましたが、さすがに疲労困憊。もう運転できません。

腰痛と疲労で気持ちもやさぐれていきます。そのまま鹿児島泊まって翌日に東京へ戻ることもしないで、別府に来ている福岡営業所の社員旅行に割り込み、帰りの船便も、会社の出張規定にフェリー利用の項目がないことを幸いに、船に2部屋しかない最高級のスィートルームを利用。広い部屋の広いベッドにひとりだけ、ロンリー・フェリー状態でした。

仙台に向かう東北道では、早朝、徳光さんに「これから仙台に行ってきます」といった2時間後に福島県警にスピード違反で捕まり、札幌でも苫小牧からの運転で熊本同様に通行区分帯違反の切符切られて、計3回違反をおこしています。思えば最高の想い出です。

ここに書いた出来事は、このキャンペーンで起こったほんの一部です。書ききれないほどのエピソードが満載のキャンペーンでした。

ラリー・リーと言えば自分の中では、真っ赤な車で5,000キロドライブ。死ぬまで忘れないと思います。
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2023.05.17
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カタリベ
1950年生まれ
喜久野俊和
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