1971年 8月1日

もんたよしのりはフォーク歌手だった?ダンシング・オールナイト以前の圧倒的存在感

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もんたよしのりのデビューシングル「この足の鎖ひきちぎりたい」発売日
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もっと評価されていいアーティスト、もんたよしのり


10月18日はもんたよしのりの命日。一般的には「ダンシング・オールナイト」(1980年)の大ヒットはあるけれど、いわば “一発屋” というイメージを持っている人が多いかもしれない。けれど、彼はけっしてキワモノ的な存在ではなく、もっと評価されていいアーティストだ。

もんたよしのりは1951年神戸市生まれ。中学生の時にビートルズと出会い、ロックやR&Bを中心にボーカリストとして活動していった。しかし、僕が彼の名前を最初に目にしたのは、1970年に行われた第2回『全日本フォークジャンボリー』(中津川フォークジャンボリー)の記録を見た時だった。彼は “モンタ頼命” として五つの赤い風船のメンバーだった中川イサトらと “インスタンツ” というグループを組んで出演していたのだ。

「この足の鎖ひきちぎりたい」でデビューした もんたよしのり


もんたよしのりは1971年にシングル「この足の鎖ひきちぎりたい」でレコードデビューを果たす。この曲の作詞はもんたよしのり自身だったが、作曲は葵まさひこ(葵はこの翌年に平浩二のヒット曲「バス・ストップ」を作曲している)。歌詞は日常のしがらみを振り払って自由に生きたいと切望する気持ちを込めたメッセージソングで、メロディや編曲は典型的なブルース調歌謡曲。和田アキ子が歌っても似合いそうな雰囲気をもった曲だった。

そして、このシングルのカップリング曲「イブのブルース」は、ベテランのシンガーソングライター “すずききよし” のカバーだった。1931年に満州で生まれたすずきは日中戦争に翻弄された苦難の経験を持ち、帰国後は “うたごえ運動” に参加するなど、自分の体験から抱いた思いを託す歌を多くつくっていた。1970年の大阪万博のために雇われた地下鉄工事の労働者をテーマにした「俺らの空は鉄板だ」の作者でもある。

そう、1960年代の子供たちにとっては、ビートルズもフォークソングも、ともすれば陳腐に聞こえていたであろう歌謡曲に対して、自分たちの実感に近く、自分たちも入っていけそうだと思える新しい音楽だった。だから、メディアがよく言うほどにフォークソングとロックは敵対するものではなく、共に自分たちのための音楽として受け入れられていることが多かった。

そして、デビュー曲「この足の鎖をひきちぎりたい」が歌謡曲のように聞こえたことも無理のない時代だった。1971年当時、一般的に見ればフォークソングやロックはまだまだマイナーな存在。吉田拓郎が脚光を浴びてフォークがクローズアップされはじめたのは翌1972年のことだった。だから、デビュー当時のもんたよしのりは歌謡曲の匂いはしていたけれど、その内容はメッセージソングだったし、なによりも彼の歌にはすでに圧倒的な存在感があった。

もんたよしのりのボーカルの圧倒的な存在感を示したアルバム「ホライゾン」


もんたよしのりの音楽志向をより強く感じられるのが、1976年に発表されたファーストアルバム『ホライゾン』だ。



この頃には、日本の音楽シーンでフォーク系アーティストがメジャーな存在となっていたこともあるのだろう。収められている11曲のうちインストゥルメンタルの1曲以外はすべてもんたよしのりが手がけ、作詞も4曲手がけている。そういった意味でも押しも押されもしないシンガーソングライターのアルバムになっているし、レコーディングにはチト河内をはじめ、吉田拓郎などのバッキング経験もあるバンド、トランザムのメンバーが参加してクオリティの高いサウンドを提供している。

収録されている曲もバラエティ豊かで、R&Bやブルース、ソウルを感じさせる曲もあればフォーキーな曲もある。レゲエやファンクなど、今聴いてもかっこいいサウンドも少なくない。しかし、なによりも印象的なのが、どんなスタイルの曲でも、もんたよしのりのボーカルの圧倒的な存在感だ。だが、『ホライゾン』は商業的には成功せず、もんたよしのりも歌手としての活動を一時休止する。しかし、1980年に6人編成のバンド、もんた&ブラザーズとして「ダンシング・オールナイト」で再デビューし、ついにブレイクを果たすことになる。

誰でも一発で覚えてしまうキャッチーさがある「ダンシング・オールナイト」


もんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」は、アッパーなメンフィスソウルをベースにしながらも適度に歌謡曲のニュアンスをミックスした、トリッキーだけれど親しみやすいナンバーだ。歌い出しはセンチメンタルさを感じさせながら、ハスキーだけれどパワフルな声を生かしてグングン盛り上げる。そして「♪Dancin' all night 言葉にすれば」と盛り上げるサビには、聴けば誰でも一発で覚えてしまうキャッチーさがある。



この曲には、1960~1970年代に多くのアーティストが試行錯誤した洋楽的要素の消化と歌謡曲的な親しみやすさとが、ほどよくマリアージュされていて、洋楽ファンが聴いても、歌謡曲ファンが聴いても、それぞれがニッコリしてしまう魅力がある。今聴き直しても、これはヒットして当然だ。と納得させる魅力がある。

結果的に「ダンシング・オールナイト」は1980年代で最も売れたシングルレコードになった(累計200万枚)。そしてこの曲以降、もんた&ブラザーズは「赤いアンブレラ」、「DRSIRE」などをヒットさせたが、1984年に解散した(2000年代に再結成)。その素晴らしい声と歌唱力はもちろんだけれど、もんたよしのりが1960〜1970年代の関西のフォークソングやブルース、R&Bなどのムーブメントを体現してきた貴重な存在だったということにも目が向けられていいと思う。

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2025.10.18
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カタリベ
1948年生まれ
前田祥丈
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