1992年 7月29日

【佐橋佳幸の40曲】喜納昌吉「花」Dr.kyOn との出会い!レジェンド喜納昌永との共演

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連載【佐橋佳幸の40曲】vol.12
花 / 喜納昌吉
作詞:喜納昌吉
作曲:喜納昌吉
編曲:星勝

佐橋佳幸の人生を大きく変える喜納昌吉との出会い


喜納昌吉&チャンプルーズが1980年に発表した名曲「花〜すべての人の心に花を〜」。その美しい旋律と心に染み入る歌詞に誰もが励まされてきた日本のスタンダードナンバーだ。日本国内だけでなく台湾、タイ、ベトナム、アルゼンチンなど世界60か国以上で多くのシンガーによってカバーされ続けてきたこの曲。1980年のオリジナルバージョンでは喜納友子がリードヴォーカルをとっていたが、彼女がチャンプルーズを脱退した後、作者である喜納昌吉自身のヴォーカルで何度かセルフカバーされている。

そのうちのひとつが1990年12月、星勝のアレンジ / プロデュースの下でレコーディングされたバージョン。1992年に、おおたか静流、河内家菊水丸、サンディ、惣領智子ら多彩なシンガーによるこの曲のカバーを集めたコンピレーションアルバム『すべての人の心に花を』に収められて世に出たもので、ストリングスなども導入された7分超の大作に仕上がっている。佐橋佳幸はこのレコーディングに参加。そして、このセッションが佐橋の人生を大きく変える出会いの日となった。

「それまで喜納昌吉さんにはお会いしたこともなかったんですが、星勝さんからのご指名で参加しました。その頃、僕は玉置浩二さんのシングル曲とか、星勝さんのセッションにちょこちょこ呼んでもらっていたから。その流れで、どんな曲をやるのかも知らずにスタジオに行ったら、あのスタンダードナンバー「花」の再レコーディングだと聞いてびっくり(笑)」

「僕はダビングで呼ばれたんです。正確ないきさつは知らないけど、後から聞いた話を総合すると、スタジオセッション系の方々の演奏でベーシックを録り終えたところで、喜納さんが “もうちょっと違うニュアンスを加えたい” と星勝さんに相談したらしいの。そこで星勝さんが、サハシならアメリカンロックみたいなのは一通りできるし、デイヴィッド・リンドレーみたいなマンドリンとかいろんな楽器が弾けるし… ということで、僕を呼んだらしいよ」

ピアノ、キーボード、ギター、マンドリン…あらゆる楽器をこなすDr.kyOn


もともと喜納昌吉とチャンプルーズによる「花」のオリジナルバージョンにはライ・クーダーがゲスト参加してスライドギターやマンドリンを演奏していた。そうした米国ルーツ音楽的なエッセンスを今回も盛り込みたいというイメージから、喜納と星は佐橋を抜擢したのかもしれない。



「確かに星勝さんからも、“普段のように譜面があって、それをそのまま弾くだけではなく、喜納さんと相談しながらいろんなことをやってもらうことになると思うよ” って言われたのを覚えてる。それでスタジオに行ってみたら…。いたんですよ、そこに。ボ・ガンボスのkyOnさんが。そこでついに僕はDr.kyOnと出会ったわけです」

当時はまだボ・ガンボスの一員として活動していたDr.kyOn。彼もまたピアノ、キーボード、ギター、マンドリン… あらゆる楽器をこなすヴィルトゥオーソだ。ボ・ガンボスとしての活動の他にも自身の企画ライヴからスタジオセッションまで幅広く八面六臂の活躍を繰り広げていた。沖縄とも縁の深かったボ・ガンボスだけに、kyOnはすでに喜納昌吉とも交流があったのだろう。

「ボ・ガンボスがEPICソニーからデビューしたのは89年。だから時期も違うし、会う機会もなかった。でも、ずっと注目していたバンドだったの。たまたまテレビ番組で見た、京都の街を練り歩きながら演奏している映像なんかもめちゃめちゃカッコよくてさ。音楽の趣味も絶対にマニアックな人たちだっていうのは一目瞭然だし。すごい人たちだな、と思って。kyOnさんも、ギターを弾けば変則チューニングでボ・ディドリーみたいだし、ピアノを弾いたらドクター・ジョンみたいだし…。とんでもない人みたいだぞ、と(笑)。この人と会ってみたいな、いつか会えるかな… とずっと思っていたんです」
「そしたら、この日、スタジオにkyOnさんがいた。うれしくてね。すぐに僕のほうから挨拶に行って “サハシといいます。ずっと会いたかったです” って言おうとしたら、“kyOnです。いつか会えると思ってました” って向こうから先に言われちゃったの。出会った瞬間からカッコよかったんだよー、あの人は(笑)。で、向こうも、UGUISSやってたこととか全部知っててくれてさ。すぐに仲良くなって。連絡先も交換して」

kyOnと佐橋による鉄壁のデュオユニット “Darjeeling” へと発展


このセッションでの出会いをきっかけに、佐橋はkyOnとは急速に親しくなってゆく。ふたりでしか分かち合えない共通の好みも多い。同時に、互いにないものもたくさん持ち合わせている。そんな得がたい相手。ふたりの間で育まれたミュージシャンシップは、やがて佐野元春&ザ・ホーボーキング・バンドの結成に大きな貢献し、最終的にはkyOnと佐橋による鉄壁のデュオユニット “Darjeeling” へと発展してゆく。



「93年には “Beggars Beatitude” という、kyOnさんの古い友人であるバンジョー奏者の有田純弘さんをフィーチャーした洋楽カバーセッション・シリーズに誘ってもらいました。そこでは、デヴィッド・グリスマン以降のいわゆるニュー・グラス的な曲をカバーしたり。同じ頃、これはライブCDにもなっているけど、吉祥寺バウスシアターでの “Live Lovers”(1993年10月)という、ボ・ガンボスのどんとが歌いたかったロックのスタンダード曲を歌いまくるライブもやった。この時期、僕がやってきたスタジオ仕事とかとは全然違うタイプのセッションにkyOnさんがどんどん声をかけてくれるようになったの。それが面白くてしょうがなくて。普段とは内容も共演する人たちもまったく違う。いっこもかぶらないことばかりだから。何もかもが新鮮でね」

喜納昌吉&チャンプルーズのライブにゲスト出演


さて、喜納昌吉のスタジオセッションへと話を戻そう。佐橋とは初対面だったが、明らかにアメリカンロックに造詣が深く、次々とユニークなアイディアを出してくる佐橋の仕事ぶりは喜納昌吉の目にも新鮮だったようだ。

「当時のレコーディングは、すでにもう48チャンネルの時代だったから。実験的なこともいろいろできたんです。それで僕も、こんなのはどうですか? みたいなアイディアをいっぱい出して、それを実現できたんです。たしかマンドリンも弾いたよ。いわゆるブルーグラス的なやつではなく、完全にライ・クーダー・スタイルのマンドリンをね。あと、アコースティックのスライドギターを入れたり」

「喜納さんはスタジオでずっと僕の仕事を見てくださっていたんだけど、喜納さんの期待に僕はうまく応えられたのかもしれない。レコーディングが終わって “お疲れさまでしたー” って楽器を片付けていたら、喜納さんがやってきたの。“サハシさんって言いましたよね。ちょっといいですか?” って。それで、“来週の〇日と〇日ってどうしてます?” って聞かれた。また何かダビングかなと思いながら、“〇日のほうなら空いてます” と答えると、“僕、このレコーディングのために沖縄から来てるんですけど、せっかく東京にいるんだからチャンプルーズのライブもやろうと思っているんです” と。あ、そのライブを観においでと誘ってくださるのかなと思ったら “うちのバンドだから、今日みたいなメンバーでの演奏とはちょっと違うかもしれないんだけど…” と。なんと、喜納昌吉&チャンプルーズのライブにゲストで出てもらえないかというお誘いだったんです!」

「この日にやった「花」と、あとは「ハイサイおじさん」と。2曲だったかな。青山Cayでのライブに出演させていただいたんです。ただね、ゲストといっても、その日は “本当のゲスト” がいたんです。それは喜納さんのお父様、喜納昌永さんだったんです」

琉球民謡のレジェンド、喜納昌永とのステージ上での共演


喜納昌永。琉球民謡のレジェンド。2009年に90歳を目前に他界されたが、当時はまだ70代になったばかり。現役で活動中だった。そんなレジェンドと光栄にも同じくゲストとして招かれた佐橋。それはある意味、ステージ上での喜納昌吉との共演以上に思いがけず、貴重な出来事だった。



「その日のゲストはお父様と僕のふたり。だから、出番までは “ゲスト楽屋” でずっとふたりきりになるわけですよ。いちおう最初にご挨拶して、でも… 僕、さすがにしゃべることないじゃない? ステージのほうがガンガン盛り上がっている間、しーんとふたりきり。その緊張たるや(笑)」

さすがの佐橋も沖縄音楽については当時ほとんど知識がなかった。あまりにも世界が違う。同じミュージシャンといっても、好きなレコード話で盛り上がるわけにもいかない。どうしようどうしよう、何を話せばいいのかな、とドキドキしていると…。

「突然、お父様から “君は三線やったことがあるの?” って聞かれたの。“いやいや、ないです” って答えたら、“じゃ、ヒマだし、教えてあげるよ” と。ぽん、と三線を渡されて。それで待ち時間の間、ずっと三線を教えてもらっていたんです。だからね、僕の三線の師匠は喜納昌永さん。すごいでしょ。その後、ステージでのライブもすごく楽しかった。みんな親切で。いい人たちだったな。僕、沖縄のバンドと共演するのは初めての経験だったんだけど。東京から移住してメンバーになった方がいて、その人が “佐橋さん、沖縄だとチューニングがちょっと高いんです。Aが444Hzぐらい。そんぐらいにしておくとちょうど合います” とか、いろいろ教えてくれたの。とにかく勉強になる1日でした」

人生を大きく変えてくれた喜納昌吉のレコーディングセッション


人生を振り返ると、誰にでも “人生を変えた1日” がある。佐橋の場合、それが星勝に呼ばれた喜納昌吉のレコーディングセッションの日。その日は間違いなく佐橋の人生を大きく変えてくれた。

「ほんとにそう。忘れられない日です。kyOnさんとの出会いだけでなく、スタジオでのレコーディングも面白かった。あの日があったからこそ、チャンプルーズのライブにも出て、三線を教わって…。あのレコーディングもライブも忘れられない。だけど、あれ以来、喜納さんとは共演していないんです。あの1回きりなんだよね。これだけ長くやってたらどこかでバッタリお会いすることがあってもおかしくないのに。あれ以来、一度もないんですよ。そういう意味でもなんだか不思議な出会いだったな」

「あれ以来といえば、実は星勝さんともこの曲が最後のお仕事だったんじゃないかと思う。あれ以来、呼んでもらえなくなった気がする。僕がいろんなアイディアを出したり、喜納さんが求めていたものを僕が理解してすぐに形にしたり、と、スタジオでのダビング作業で僕ががんばりすぎちゃって、結局、アレンジャーの星勝さんがいるのにスタジオを仕切る形になっちゃって。もしかしたら僕は星勝さんの機嫌を損ねてしまったかもしれない… って、今でも思ってるんだけど」

アレンジャーの求める音を即座に理解して正確無比に演奏することがセッションギタリストとしての仕事ならば、この時の佐橋は確かにその役回りをちょっと逸脱してしまったのかもしれない。ある意味、セッションマン失格。が、そこでkyOnに出会った。セッションマンとしての佐橋の腕を見込んで起用してくれた星勝というアレンジャーがいたからこそ、その日、佐橋はそのスタジオでkyOnとかけがえのない出会いを果たし、“失格” だからこそ喜納昌吉という強烈な個性との邂逅もあった。まさに人生の分水嶺。

“そろそろちょっと視点を変えてみてはどうだ?”

この日のいくつもの出来事は、音楽の神様から佐橋に向けて放たれた、そんなメッセージだったのだろう。


次回【坂本龍一「ポエジア」Sweet Revenge から始まる教授との濃密な時間】につづく

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2024.02.03
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カタリベ
1964年生まれ
能地祐子
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