1992年 12月31日

TBS「輝く!日本レコード大賞」制作秘話!紅白のNHKホールから武道館まで8分で移動

37
0
 
 この日何の日? 
第34回「輝く!日本レコード大賞」放送日
この時あなたは
0歳
無料登録/ログインすると、この時あなたが何歳だったかを表示させる機能がお使いいただけます
▶ アーティスト一覧

 
 1992年のコラム 
誰もが森友嵐士!T-BOLAN があれだけ多くの人に愛された理由はどこにあるのだろう?

チェッカーズからのラストメッセージ♪最後の紅白でも歌われた「Present for you」

リリース30周年!今とはちょっと違う初期ミスチルの傑作「Kind of Love」

J-POP 男性シンガーが歌う【90年代のクリスマスソング】名曲ベスト5をプロが厳選!

小泉今日子「Bambinater」東京モッズシーンの名曲 “東京ディスコナイト” もカバー

チェッカーズのラストライブ「FINAL TOUR」ドルビーアトモスで武道館の臨場感を感じて!

もっとみる≫




レコ大、紅白は子どもの頃から毎年の恒例行事


『NHK紅白歌合戦』と並び、年末の日本歌謡界の総決算『輝く!日本レコード大賞』、1959年の第1回から今年で64回目、長い歴史を刻んできた。

私にとってもレコード大賞は子供の頃から特別な存在。大みそかは早く風呂に入って、7時からレコ大を観て、9時からは紅白、この日だけは子どもでも遅くまで起きてても怒られなかった。その後は『ゆく年くる年』を観てそばを食べて寝るという毎年の恒例行事であり、特別な日だった。

私は、1977年TBSに入社して制作部に配属になってから、コロナ禍前の2019年までほぼ40年以上 “レコ大” と関わっていくわけだが、憧れのレコード大賞に最初に関わったのが入社した1977年の第19回だった。この年の “レコ大” は帝国劇場で開かれた。私も入社半年、一番下っ端のADとして、右も左も分からないまま参加した。表彰担当のADとして、受賞者への表彰のお手伝いだったが、担当の上司に「表彰スタッフは皆タキシードだ」と言われ、衣装部でタキシードを借りて本番に臨んだが、そんな人は誰も居なかった。すっかり騙されたのである。

なにしろ初めて行った会場は、帝劇のきらびやかな大ステージでまぶしいまでの別世界。TBSにとっても通常の番組と違い、最高の技術、美術、制作スタッフによるまさにオールTBSで挑む1年で最大の大イベントである。

この年は「勝手にしやがれ」で大賞を受賞する沢田研二をはじめ、八代亜紀、山口百恵、岩崎宏美、西城秀樹、石川さゆり、ピンク・レディー、どこを見ても大スターばかり、そんな中、ど新人の私は、緊張と恥ずかしさもあってどこで何していいかも分からず、タキシード姿でステージの上手の袖で2時間ただ立っていただけ。当時レギュラー番組で一緒だったピンク・レディーや榊原郁恵が私を見て「何やってんの?」という顔で笑っていたのが思い出される。これが私とレコード大賞の最初の出会いであり、忘れられない苦い思い出である。

(C)TBS


テレビとは異なるレコ大のラジオ放送とは?


この年以降、AD、舞台監督、客席担当などほぼ毎年関わっていくが、1983年ラジオ制作に配属されてからも、レコード大賞を外れることはなかった。82年の第25回から85年の第27回まではラジオ版のディレクターを担当した。レコード大賞は、テレビとラジオの同時生放送(業界ではこれをサイマルと呼ぶ)。ラジオは基本的にはテレビの音声に加え、司会者と歌手がトークしている間は情報などを話す別の放送を行っている。歌はテレビの音声である。

進行役のアナウンサーは、会場一番奥のブースでしゃべっている。特にラジオが大変なのは、テレビより放送時間が5分ほど長いこと。テレビでは大賞受賞者の歌の間にエンドロールが流れて終了するが、ラジオはそこから約5分、大賞受賞者のインタビューを行う。

そのためテレビ終了後、受賞者をつかまえておかなくてはならない。まさにラジオ放送はここが最大の勝負。ところがテレビに協力は期待できない。放送終了直後のバタバタで、「緞帳(どんちょう)おりまーす」とか雑然とした状況。歌手の皆さんも終わったと思ってざわざわしている。しかも、この時代はNHKの紅白が直後スタートとあって、たいていの場合は、大賞受賞歌手はすぐにNHKに向かわなくてはならない。NHKの担当者も迎えに来て、今にも連れ出そうとしている。その大混乱の中、3回とも無事大賞歌手をインタビューすることができた。今思えばまさに戦場だった。

小野正利とNHKの廊下を全力疾走


戦場と言えば、1992年の第34回。この時代は紅白が2部制になって7時20分スタートとなり、レコード大賞とは、ほぼ2時間表裏のどちらも生放送。すなわち、同じ歌手が “レコ大” の武道館と紅白のNHKホール(渋谷)を行ったり来たり。渋谷が終わったら武道館へ、武道館から渋谷へ行ってまた武道館に戻るとか、まさに綱渡りの複雑なパズルだった。



そこでNHK担当という役割ができ、この年私はその担当になった。NHKの出番が終わった歌手を迅速にすみやかに車に乗せ、武道館へ送るのが使命だった。この後レコ大の出番がある歌手を、紅白で歌い終わってひっこんできた舞台袖でつかまえ、通路を走って車に乗せる…。そんな歌手が数人いるので、同じ時刻に何度も車を試走して時間をはかり、その日を迎えた。

そして当日、まずはマネージャーに説明するため、早くから紅白の楽屋で待機するが、ここは完全アウェイ。我々も居場所はなく、肩身の狭い思いで廊下で待機。知ってるマネージャーや歌手からは「TBSが何やってんの?」と怪訝そうな顔で通り過ぎていく。これがまたつらい。いよいよその時間が近づいたらTBSの黒塗りの車をNHKの通用口の前で待機させる。車の先頭を道路に向け、荷物用のトランクを開け、エンジンをかけドアも開けて待っている。乗ったらすぐにスタート。これもまたしびれる戦場だった。

特にしびれたのがレコ大新人賞の小野正利。NHKの出番が終わって12分後にレコ大の出番。すなわち渋谷のNHKからレコ大の武道館まで10分以内で運ばなくてはならない。小野正利をすぐキャッチしてNHKホールの廊下を本人と一緒に全力疾走。車のルートは事前に試走しているので大丈夫、信号も少なく高速の入口、出口共に近いので法定速度も守りながら、渋谷から武道館まで8分で到着。無事彼を送り届けることができ、レコ大のステージにも十分間に合うことができた。これもまた忘れられない思い出である。

次回は、64年の歴史を持つレコード大賞で起きた2つの大事件をご紹介したい。

▶ テレビのコラム一覧はこちら!



2023.11.10
37
 

Information
あなた
Re:mindボタンをクリックするとあなたのボイス(コメント)がサイト内でシェアされマイ年表に保存されます。
カタリベ
1955年生まれ
齋藤薫
コラムリスト≫