笠置シヅ子生涯のライバルとして登場する淡谷のり子
第109作目にあたるNHK連続テレビ小説『ブギウギ』の舞台がいよいよ戦後に移って、ますます目が離せなくなってきた。
毎度のことながら朝ドラの影響力は大したもので、ドラマの題材が決まると、モデルになった人物の関連書が相次いで発行され、音楽系ならば音盤も同様に。今回は主人公のモデル、笠置シヅ子関連の書籍が書店にズラリと並び、CDやレコードも新たに複数リリースされている。それは同時代に活躍した歌手の音盤にも拡がって、笠置の生涯のライバルとして登場している淡谷のり子にも再び注目があつまっているのだ。
笠置シヅ子がモデルの福来スズ子は趣里が演じて善戦しているが、淡谷のり子がモデルの茨田りつ子役の菊地凛子も独特の存在感に圧倒される。最初にスズ子がラジオから流れる歌声を聴いて憧れを抱いたのが、りつ子が歌っていた「別れのブルース」であった。
「雨のブルース」をカップリング、菊地凛子の歌でシングルリリース
それが今回、「雨のブルース」をカップリングにして菊地の歌でシングルがリリースされる。ジャケットはオリジナルの淡谷盤を模して昭和風味に満ちたデザイン。菊地ではなく茨田りつ子名義になっており、劇中のレコード会社 "コロンコロンレコード" (もちろんモデルはコロムビアレコード)のロゴも入って徹底している。
もっとも、本当のオリジナルはSP盤なので、参考にされたジャケットは、昭和30年代に入ってから初めて7インチで出されたベストカップリングのアンコール盤である。淡谷が "ブルースの女王" と呼ばれるきっかけとなった代表作は、「別れのブルース」が1937年、「雨のブルース」は翌1938年にそれぞれ世に出されたヒット曲だった。
服部良一作曲による一連の作品で名を馳せた淡谷のり子
後に笠置シヅ子が服部良一作曲による一連の作品で名を馳せるように、淡谷も服部との出会いがあって押しも押されもせぬスターとなった。1936年の初提供作「おしゃれ娘」がその発端となり、クラシック出身でオペラやシャンソンを歌っていた淡谷が流行歌にも活躍の場を拡げたのだった。
服部は、コロムビアでの第1回作品のひとつとなった「おしゃれ娘」を提供した後、本牧のバーで飲んでいた時に淡谷のシャンソンカバー「暗い日曜日」を聴いた。その哀愁漂う歌唱から着想を得て、今度は本牧を舞台にしたブルースを彼女に歌わせようと、旧知の藤浦洸に詞を依頼する。
そうして出来たのが「本牧ブルース」であったが、それがあえて地名を入れない「別れのブルース」に改題された。メリケン波止場が横浜だけでなく神戸にもあったことも理由だったらしく、結果的にそれが功を奏したともいえる。
「別れのブルース」はレコード発売直後に支那事変が勃発して軍国歌謡が主流になったこともあってすぐにはヒットしなかったが、満州や大連で流行の兆しを見せた後に大阪から火がつき、発売から半年以上を経て全国的な大ヒットへと至った。戦争が激化すると時局に相応しくないという理由から歌唱禁止の憂き目に遭うも、慰問の際などに淡谷は屈せずに歌い、戦地の兵隊たちの涙を誘ったという。
笠置のライバルと召された淡谷だが、実際にはキャリアも年齢も上のよき先輩であり、笠置も尊敬の念を抱いていたであろうから、決して確執があったわけではないはずだ。しかしながら松田聖子と中森明菜しかり、ライバル関係に置かれることで互いの存在がより際立つという構図がある。晩年はバラエティ番組などでお茶目な一面も垣間見せてくれた淡谷に、改めて親しみの情が湧く。
そんなことを思い巡らしながら聴く菊地凛子の「別れのブルース」はまた格別の味わいがある。『ブギウギ』もぜひとも最終回まで見届けたい。
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2024.01.16