育ての親でもあったザ・ピーナッツをはじめ、1960〜1970年代にかけて多くのヒット曲を世に送り出す一方、「宇宙戦艦ヤマト」などテレビや映画音楽の世界でも活躍した作曲家・宮川泰が世を去って20年近くが経つ。明るい作風と人柄で愛された稀代のエンターテイナー。これまで、宮川泰の作品を集めたレコードやCDはいくつか編まれながらも規模の大きなものはなかったのだが、今回初めてレーベルの枠を超えた作品集が実現し、5枚組CDボックスの形でキングレコードから発売となった。これぞまさに昭和の宝箱である。
プロデュースを担当したのは、「マツケンサンバⅡ」などの作曲・編曲で知られる宮川彬良氏。コンサートやイベントを控えての多忙なスケジュールの合間を縫って、今回のボックスのお話や父親である宮川泰氏についてお話を伺った。この前編では、宮川泰に関する幼少期の記憶を紐解くと共に、ご自身にどのような影響を及ぼしたのかをたっぷり語ってもらった。

ザ・ピーナッツが歌の稽古に来た6畳2間のアパート
一一 ご記憶の中で最初に聴いた宮川泰さんの音楽というのは憶えていらっしゃいますか。
宮川彬良(以下:宮川):意識して聴いたかどうかは別として、やっぱりレッスン風景なんでしょうね。記憶はそんなになくて、当時の写真を見て想像してる部分が多いですけれども。九段下の靖国神社のすぐ隣りにある6畳2間のアパートに住んでたんですよ。建物自体はそれから20年くらいは残っていて、大人になってから何回か見に行ったんですけどね。そこにザ・ピーナッツが歌の稽古に来るんですよね。
畳の上にアップライトピアノが置いてあって。まだ生まれたばかりでヨチヨチ歩きの僕がその稽古を邪魔してる写真が残ってるんですよ。父親にしがみついたりして。その瞬間は憶えてないんだけど、何年後かにはラジオだったかレコードの曲に合わせて、ひとりでトロンボーンやドラムの真似をしたりとか、指揮の真似ごとをして親にアピールしてたのはなんとなく憶えてるんですよ。その時の曲がなんだったのかは分からないんだけど。洋楽だったかもしれないし、もしかすると宮川泰アレンジの何かだったかもしれない。
一一 お父様の仕事現場に行かれるような機会はあったのでしょうか。
宮川:一番古い記憶だと小学校に入ってからかな、日劇に連れていってもらったことがありました。クレージーキャッツのショーでした。1部のお芝居は子供心に退屈だったんだけど、2部が “面白音楽コンサート” みたいな感じで楽しかった。
一番面白かったのは、裏から劇場に入るわけですよ。それでロビーだったかリハーサル室だったか、ガラス越しに外が見える空間でビッグバンドが音合わせをしていて、父が書いたらしき譜面を演奏している場に遭遇して。僕の目の前がバリトンサックスだったんだけど、いきなり “ヴォーン!” って爆音が出たもんだからもうビリビリ~って体が揺れるくらいびっくりしちゃって。強烈な記憶ですね。何の曲だったかは憶えてないんだけど。
父の音楽が自分のことになった「ゲバゲバ90分!」
その後ですかね、小学校3年の時に『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ系 / 1969年〜)が始まって。それはもう意識しましたよ。それくらいになるとザ・ピーナッツのことも分かってたけど、「恋のバカンス」が大好きとかは思っていなかった。だって大人っぽい曲じゃないですか、今思えば。世の中の事象を客観的に受けとめてる感じで、カッコいいとかは思ったかもしれないけど特に好きというわけじゃない。それよりは『ウルトラマン』とか『魔法使いサリー』のテーマ曲の方に魅力を感じていたわけですよね(笑)。あとはグループサウンズ。タイガースとかも聴きに行きました。
一一 我々ももちろんそうですが、『ゲバゲバ90分!』の音楽は宮川家にとってもエポックな作品だったということですね。
宮川:僕にとっては、『ゲバゲバ90分!』のオープニングテーマ曲でようやく父の音楽が自分のことになったわけですよ。学校でもクラスの人たちが皆口ずさんだり、行進したりしてましたからね。“昨日見た?” なんて話題でもちきりで。そりゃあ鼻が高かったですよね(笑)。そこで初めて好きな曲だなぁと思えた。お父さんがやってる仕事はすごいんだなというのを大人と同じ目線でようやく意識したわけです。
これだけ人を惹き付けて、全員が一夜のうちに覚えてしまうような音楽があるんだと。小学校1年の時、作文に “将来は作曲家になる” なんて書いちゃったけど、3年になって(それは大変なことだぞ)と早くも気づくことになる。渡辺プロのマネージャーだった中島二千六さんから “あきらくんはお父さんみたいな作曲家になるんだって?” って訊かれて “うん!” なんて応えると、周りの大人たちが皆ワーッとウケる。それが楽しかったわけ(笑)。普通の家より圧倒的に大人が多く出入りしてる家でしたからね。タレントさんがレッスンに来たり写譜屋さんが来たり、父にもマネージャーがいたわけですからね。
一一 彬良さんが実際に音楽の道に進まれるに際して、お父様はやはり喜ばれたんでしょうか。
宮川:父はとにかく面白いこととか、今何故これが起きてるかということにしか興味がないんですよ。だから自分に対しても、俺の跡を継いでくれて嬉しいとかいう感情よりも、客観的に “親子って面白いね、俺は何も言ってなかったのに何故そうなったんだろう” なんて言ったりね。それがイコール嬉しいという表現だったのかもしれませんけど。自分も親になって分かるのは心配の方が強い。こいつ才能が無かったらどうしようっていう。父も嬉しくなかったとは思わないけど、それと同じくらい他の感覚もあったんじゃないかと思います。

発表会用に書いてくれた「イエスタデイ」の譜面
一一 作曲のことで実際にアドバイスされるようなこともなかったですか。
宮川:なかったですね。実の息子だからこそ距離を置いた方がいいと思ったのか、ちょっと逃げるようなところがありました。笹塚の家に越した3歳くらいの時に母がピアノを買ってくれたことがあるんです。秋吉敏子さんがアメリカへ武者修行に出かける際に “ピアノ売ります” って何かに出したらしいんですよ。それを母親がなんの伝手もなく買ったそうなんですよ。それこそ鍵盤が欠けたようなピアノだったけど、まだ小さかったし練習用ならいいと思ったんじゃないですか。結局あまり使わずに処分されてしまいましたけど。
父はそれを遠巻きに見ていた可能性もあるけど、あまり気にしないようにしていたんじゃないかと思うんですけどね。でも小学校4年か5年くらいになってから僕が “ビートルズが好きだ” って言ったら “よし、俺が書いてやる” って言って発表会用に「イエスタデイ」の譜面を書いてくれたことがありました。それがカッコいいアレンジでね。ここぞっていう時にちょっと来て “お父さんすごい!” みたいなことをやって、またしばらく家に帰って来ないみたいな。そういうチャンスが何ヵ月に1回とか、1年に1回とかあったんですよ。
父が作るようなメロディーが自分には聞こえてこなかった
一一 彬良さんが宮川泰さんの音楽から影響を受けた部分というのはあるでしょうか。
宮川:それはもう、本当に苦しかったですよ。中学生の頃からバンドをやり始めるようになって、その頃好きな音楽はロックだったりしたんですけど。聴こえてくる曲を譜面に書いたりいろいろトライして、ほぼ独学のような感じで友達と遊びながら実験を繰り返していたんですよね。
『ウエストサイド物語』みたいな音楽を作りたいって言ってたら “じゃあ芸大に行きなさい” ということになって。やむなく和声の勉強なんかも始めるんですけど全然実らずにいた。そのうちに東芝レコードのプロデューサーだった渋谷森久さんのおかげで仕事もするようになったんです。『宇宙戦艦ヤマト』で父の仕事も手伝ったりして “あとはヒット曲だな” なんて言われてた。
ところがある時、宝塚の仕事をしてレコードになったのを聴いた父が “彬良、おまえは歌心が無いな” って非常に深刻に言うわけですよ。“おまえはサウンドはすごい、つまりアレンジはうまいけど、歌心がない” って詰められた。20歳か21歳の頃。実は自分でもそれは解ってたんですよ。父の音楽に憧れながらも、父が作るようなメロディーが自分には聞こえてこなかったわけ。音は聴こえるんだけど、あんなに万人を喜ばせるようなメロディーとなると、作れば作ろうとするほど嘘っぽくなっちゃって作れなかった。そこをズバッと指摘されて非常に辛かったですね。
それまでそんなハッキリと言われたことはなかったので。それからは仕事をしながら、歌心を探す旅路でしたよ。その長年の呪縛が解けたのが、『身毒丸』っていう舞台作品の音楽を担当した時でした。演出の蜷川幸雄さんから “泣ける曲が欲しい” と言われて、追い詰められながら、昔母親が歌ってくれた子守唄を聴くと必ず涙が出ることを想うに至ったんですね。要はノスタルジーなんですけれども。親父がかつて言ってた歌心はこれだろうって思いながら曲を書いたら評判がよくて、舞台も大ヒットした。
宮川泰の遺伝子を継承した「マツケンサンバⅡ」
その後に荒木とよひささんと一緒に作って神野美伽さんが歌った「手紙」っていう曲があって、それで初めて親父に褒められたんですよ。 “おまえもついにこういう曲が書けるようになったか” って。その前に「マツケンサンバⅡ」も既に書いてたんだけどね(笑)。ヒットするまでに時間がかかったから。そういうコンプレックスがずっとあったんです。それ以降は物の見方もガラッと変わりました。音楽家ではなかった母の子守唄が扉を開けてくれたっていうのはすごいことでしたね。
一一「マツケンサンバⅡ」を聴いていると、明るく楽しい曲をたくさん作られた宮川泰さんからの遺伝子の継承を感じずにはいられないんですが。
宮川:それは少なからずあるかもしれませんが、そのことをあまり神話化しない方がいいとも思うんですよね。でも自分もお喋りをしながら音楽を紹介するようなスタイルでステージや番組を務める機会が多いので、それが父の姿に重なるみたいなことはよく言われますね。駄洒落のセンスでは父にはとても叶わないと思いますけど(笑)
明日掲載の後編では、今だから語れる宮川泰が作曲を手がけた数々の名曲のエピソードについてお届けします。
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2025.08.09