2006年 10月27日

エイミー・ワインハウスに会った日本人は5人だけ?グラミー5部門受賞アーティストの素顔

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エイミー・ワインハウスのセカンドアルバム「バック・トゥ・ブラック」発売日
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エイミー・ワインハウスに会った日本人は5人しかいない


エイミー・ワインハウスという歌手は、実に不思議で独特な雰囲気を持った女性だった。享年27という短い人生だったエイミーは、結局日本の地を踏んではいない。来日要請はしていたが、グラミー賞受賞時でさえビザ発行等の理由により渡米していないので、来日が果たせなかったのは諦観というか当然という感を抱かざるを得なかった。今考えれば実に残念だったといえよう。

おそらく、エイミー・ワインハウスに会った日本人は5人しかいない。それは日本のレコード会社、ユニバーサルミュージックの2人と日本メディアの人間が3人ということになるが、それはイギリスのロンドンでのことだった。

エイミーのセカンドアルバム『バック・トゥ・ブラック』(イギリス発売は2006年)をようやく2007年9月5日にリリースすることを決意した邦ユニバーサルは、メディアの人間をロンドンに派遣してエイミーのライブ鑑賞と本人対面(インタビュー)を敢行し、発売日タイミングの日本での露出を目論む。

おおよそプライオリティ・アーティストの場合、プロモーションのためにアーティストを来日させるのが常套手段だったが(その方がより大きな露出が見込めるので)、エイミーの場合どうしても日本への渡航は無理だという本国イギリスからの返答があり、致し方なくメディアの派遣ということになったのだ。筆者は当時ユニバーサルミュージックのインターナショナル(洋楽部)のプロモーションを担当しており、『バック・トゥ・ブラック』の日本露出を目的として、メディアの人間3人を連れて同年5月、エイミーに会いに渡英したのだった。



初対面の異国の日本人の目なんぞはまったくもって気にしないエイミー


当日ライブが行われる会場『シェパーズ・ブッシュ・エンパイア』に足を運ぶ。いよいよ、その夜コンサートが行われるその前の一時ではあるが、日本メディアとのミーティングとインタビューが行われるのだ。日本以外の国からもメディアが訪れていることもあり、昼過ぎには会場に着いていたのだが… 待てど暮らせどエイミーは現れず、数時間経過した夕方になって予定の持ち時間を削られての面会となった。

インタビュー前に、エイミーへの挨拶ということで私と当時の上司の2人で彼女の楽屋を訪問。とにかく会って早々驚いたのが… お土産ということでカジュアルで、ちょっと羽織るような和風着物を手渡したのだが、異様に喜んだエイミーはその場でそそくさと自分の服を脱ぎだして上半身全裸(いや半裸か)になって、その和服を素肌に羽織ったのだ。

初対面の異国の日本人の目なんぞはまったくもって気にしない風で、着物を着用して心の底からご機嫌というのが伝わってきたものだった。私はエイミーと接するときは常にハンディビデオカメラを回していたのだが(もちろん事前に許可をとって)、さすがにこれはカメラをエイミーから逸らしたのだが、“撮っても撮らなくてもどちらでも構いませんよ” という雰囲気が漂っており、今考えれば全部撮っておけばよかったな、なんて思ったり。

まあ、2007年に入るころには、エイミーの薬物やアルコールの依存の問題やそれに伴う数々の奇行のニュースは邦ユニバーサルにも届いており(もちろんそういった問題が来日を阻む要素のひとつだったのだが)、そういったところをなんとなく確信させる所作だったのは言うまでもない。

その後行われた3つのメディア取材もすべてビデオカメラを回しながら立ち会ったが、本人は終始ハイな感じで接しており、時折問答がかみ合わなかったりそもそも数時間待たされた末にインタビュー時間が若干カットされたりしたのは(海外アーティストではままあることではあるが)、主にアルコール中毒によるものと類推するに充分なものだったのは言っておこう。

終始大歓声が飛び交う大盛況のステージ


インタビュー後は面会が行われたその会場でのライブを鑑賞。2007年夏当時は、北米での知名度が上昇しつつある中だったが、まだイギリス国内及び一部欧州のみでの人気という状況だったので、いわゆるライブハウスをひと回り大きくしたようなさほど大きくない会場だった。

ライブ会場では関係者用スぺースで鑑賞していたわけだが、すでにというかイギリス国内ではもはやというか、なんとギャラガー兄弟のひとり(どちらか失念!2人ともだったかも)やポール・ウェラーといった大物が観に来ていたので、我々日本人はエイミーのイギリス国内における立ち位置みたいなものが垣間見えたものだ。ライブはというとエイミーの力強い歌声に、終始大歓声が飛び交う大盛況のステージだったのは言うまでもない。



グラミー賞受賞後、「バック・トゥ・ブラック」のセールスが爆発


さて、その後の日本での展開はというと、日本でのCD発売日である9月5日までに各メディアでの露出は無事行われ、海外からあれやこれやのニュース(音楽的トピックはもちろん、薬物/アルコール中毒、それに伴う奇行等)が増えながら発売日を迎えた。2007年内のセールスは爆発的とは言えずとも緩やかに増加していったという様相。

しかしこの間、英米の旬のアーティスト、大物アーティストたちがこぞってエイミーを称賛し共演を熱望した。そして共演を実現させながら、彼女の作品をカバーするという現象が勃発。とにもかくにも『バック・トゥ・ブラック』のセールスが爆発したのは、翌2008年のグラミー賞受賞後となる。

2008年2月10日、ロサンゼルスのステイプルズ・センターで『第50回グラミー賞』が開催された。事前のノミネーションで主要4部門(最優秀新人賞 / 最優秀レコード賞 / 最優秀楽曲賞 / 最優秀アルバム賞)にノミネートされていたエイミーは、いったい何部門を獲得するのかというところが注目されていた。結果としては、残念ながら最優秀アルバムは逃したものの(なんと!ハービー・ハンコック)、シングル曲の「リハブ」で最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞。さらに最優秀新人賞と主要3部門を含む計5冠を達成したのだ。

授賞式直前、マリファナ所持でノルウェーで逮捕されたため渡米ビザが下りずロンドンからの中継となったものの、受賞に大喜びの本人映像も生放送中に届けられ『第50回グラミー賞』はエイミー・ワインハウス色に彩られたと言っていいだろう。筆者もメディア用プレスリリースを作成するにあたり、エイミーを強調した文章を書く手に大きな熱が込められたのは言うまでもない。

グラミー賞5部門受賞、とりわけ主要3部門受賞のインパクトは絶大で、受賞後の『バック・トゥ・ブラック』のセールスは目覚ましく伸びた。一般層への知名度も格段と増幅したし、いわゆる音楽以外のニュースも含めて本人の意図は計り知れずとも、セレブ的立ち位置に登っていったことは確かだ。

グラミー受賞のおよそ3年後、2011年7月23日にエイミーは27歳の若さでこの世を去った。正式な死因は未発表ではあるが、おそらくオーバードーズ、アルコール等の過剰摂取が要因だったのは間違いない。生前から “27クラブ” に入るのだろうか、とつぶやいていたエイミー・ワインハウス… 今ごろ天国でジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、カート・コバーンらと何を話しているのだろうか。


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カタリベ
1962年生まれ
KARL南澤
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