ロニー田中 × 本田隆 対談
第3回 新宿ロフトから渋谷ライブ・インへ。そして、ユイ音楽工房との契約。サード・アルバムでブレイクするまでの道のり
4日間にわたってお届けするライブハウス期のBOØWY目撃者対談。新宿ロフトでの初ライブに立ち会ったロニー田中さんと、ブレイク直前のマンスリーライブに通っていた本田隆さんとでお届けする黎明期のBOØWY検証対談です。
第1回 →1981年のライブハウス事情。ヤンキーとパンクの境界線。BOØWYはヤンキーだったのか?
第2回 →ファーストからセカンドへの音楽的変化とスーツを着てロックするというヴィジュアルへのこだわり
― 本田さんは、BOØWYのライブハウス時代の大きな転換点となるロフトのライブ(1984年3月30日、31日「BEAT EMOTION・すべてはけじめをつけてから」)には行っているんですよね。
- 本田
- 行ってます。フロアのお客さんはみんな黒ずくめで、安全ピンつけてる人達が凄い熱狂しているんです。ヤンキーとは違って、全然見たことない世界だっていうのはありました。音的にはこの頃って、パンクだったよね。ただ、ここで本当にケジメをつけているんですよ。この後、どんどんファッショナブルになっていくから。
- ロニー
- この頃って吉川晃司も出てきて、みんなでモダンドールズ共有しながら新たなロックの価値観が出来上がってくるわけですよね。吉川晃司もナベプロで、山下久美子の弟分みたいな位置だったからモダンドールズの影響がないわけがないんですよね。
- 本田
- 多分、NOBODYもそこを意識して楽曲提供したんじゃないかな? 吉川晃司って元々佐野元春とか好きだった人ですよね。でも「モニカ」とか、それだけの音ではない。そこにあったモダンドールズの存在は吉川さんにも大きかったと思う。
- ロニー
- 私、アパレル時代に吉川君が買いに来てくれたことがあったんだけど、最初から買う服がジャケットだったりスーツだったりなのね。革ジャンとかTシャツじゃないんですよ。このあたり、BOØWYもそうだけど、スーツでロックするのがカッコいいという新しい価値観が生まれた時代だったと思います。
- 本田
- ですね! ボーダーのTシャツやジーンズでロックするのがカッコいいという価値観が一般化したのは80年代半ば以降のバンドブームになってからだと思います。
- ロニー
- 1984年にライブ・インでマンスリーやっている時に友達が行きたいといったから、行ってみると超満員で、どうしちゃったの? ってぐらい人が入ってて…。
- 本田
- 僕、あのマンスリーは最初から観ていたんですよ。初めの頃は満員じゃなかったんです。布袋さんの足元のエフェクターが見えたくらいだから、だけど、月を追うごとにどんどん動員が増えていったというのはリアルに覚えています。
パフォーマンスに徹した氷室京介、
音のイニシアティブは布袋寅泰という役割分担
- ロニー
- 話が少し前後するけど、初期のライブでピストルズの「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」やるとき、「イギリスの民謡をやります」ってMCしてたのね。やはり氷室さんって、こういう捉え方をするんだっていう新鮮さがあった。動員が増えてもピストルズを演奏するというのは、あのガラガラの初ライブからここまできたんだとしみじみ思いました。
- 本田
- 売れるバンドって、メンバーの役割分担が明確じゃないですか。BOØWYも役割分担がはっきりしていたと思う。高橋マコトという強力なドラマーが入って、氷室さんはパフォーマンスに徹した部分があったと思う。音のイニシアティブは布袋さんにあって、好みのエッセンスをどんどん入れていって、そこに松井常松の不動ベーシストというキャラも欠かせないものになった。いいバンドってカリスマだけが凄いってわけではないから。BOØWYは4人が凄かった。
― この時期にユイ音楽工房と契約を結ぶんですよね。
- 本田
- そうですね。ユイと契約を結んで、レコード会社も東芝EMIに移って躍進が始まるわけですが、後の自分たちのアルバムに「BEAT EMOTION」ってつけるぐらいだから、自分たちで開拓してきたこの1983~84年にすごく思い入れがあるんだと思います。この時期も模索や苦労があったんだと思います。 イメージ戦略も含め、バンドっていろいろなことを考えなくてはならない。そこで考えてみると、ユイに入って佐久間正英をプロデューサーに迎えて、それが良かったから売れたんだよね。という見方もあると思いますが、プロデューサーを迎えるまでの下地を作ったのがメンバーの4人だと思う。
フォークはもう古い! 俺たちロックだから、一緒に儲けようぜ!
- ロニー
- これは当時音楽業界にいた人から聞いた話なんだけど、ユイ音楽工房というのは、フォークのミュージシャンを多く抱えた会社じゃないですか。そこに布袋さんがマネージャーと乗り込んで、フォークはもう古い! 俺たちロックだから、一緒に儲けようぜ! って『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』みたいなことをしに行ったんです。
当時ユイは、ロックのマネージメントは良くわからないけど、フォークが下火だというのは分かる。社歴においてロックを扱ったことがないけど、ここは契約してみようという流れだったみたい。 そういう流れで、前の事務所でやってくれなかったことを全部ユイで実現できたということが大きかったみたい。
俺達にはヘアメイクが必要だとか、カメラマンはあの人がいいとか、そういう部分のオーダーに始まって、ロックバンドとしての様式美を打ち出していったのがBOØWYは早かったと思います。 - 本田
- バンドをセルフプロデュースして売り込む力に長けていたということですね。
- ロニー
- それは布袋さんと当時のマネージャーで。
- 本田
- 布袋さんは戦略家だからCOMPLEXも作ったんだろうね。あれはBOØWYがやったことを短期間で全部やってしまおうというものだから。ロックビジネスというものが分かっていた人だと思います。
- ロニー
- 「何で売れたの?」っていうのは、事務所に潤沢な資金があって、それを布袋さんのビジネスセンスのもとに使わせてくれたというのが大きいと思う。
― サード・アルバム「BOØWY」で、プロデューサーをつけて、デヴィッド・ボウイの作品で有名になったベルリンのハンザトン・スタジオでレコーディングするというのはすごいですよね。
- ロニー
- それを指定したのも布袋さんで、「海外は空気が違うから音の鳴りが違うんだよ」って事務所を説き伏せたという提案力もすごい!
- 本田
- 僕も、このアルバムで、プロデューサーという存在を大きく意識しました。ファースト、セカンドと比べてこんなに音が変わるんだって。十代の自分でも分かったから。そのあたりもBOØWYは先駆的だったのかもしれませんね。
― 佐久間正英は、そのあとスライダーズやブルーハーツをやったりして日本のロックシーンに大きな影響力を残していきましたよね。
- 本田
- このサードアルバムが後の日本のロックバンドの指針になっていったと思うのですが、それを売れていないバンドで作っていったというのが凄いですね。 このアルバムに収録されている「Dreamin’」の歌詞にも「ボルト&ナットのしくみで組みこまれる街で 爆弾にはなれない」みたいなメッセージがあって、この部分もヤンキーが好むものではないですよね。
雑誌ギャルズライフとヤンキーの好む音楽の分析
- ロニー
- ただ、氷室京介のヤンキー気質というのはデビュー当時からずっとあったものだし、「暴威」というネーミングに潜むインパクトもヤンキーだと思う。当時はこれをデヴィッド・ボウイだとは誰も思わないわけだから。
それと、良く覚えているのは、高校生の時、『ギャルズライフ』という雑誌があって、それに「群馬から来たBOØWY」みたな記事が載っていて、ギャルズライフに載るってことは、ヤンチャ系のバンドという認識なんだなって思いました。 - 本田
- 僕もギャルズライフ買っていました。ツッパリ女子高生向けの雑誌というか、記事も過激で、載っているバンドもブラックキャッツとかM-BANDとか、トッポイ感じが多かったですよね。ヤンキーが好みそうなバンドを上手くピックアップして、「ファッション大解剖」とかそんな企画をやっていましたね。そういうところにBOØWYも載ってましたよね。やはり、ファッションだとか、内包された雰囲気で早くからヤンキー系女子のハートを掴んだという部分もその後の躍進に大きく影響しているのかもしれませんね。
- ロニー
- BOØWYのブレイクを前後してヤンキーっぽい男子はスーツ着てノーズシャドー入れて…といファッションになっていくという流れもあったし。
- 本田
- つまり、音楽性とは全く違った部分のイメージ戦略で、自分たちの想定外の層のファンも多くつかんでいったということですね。
司会:太田秀樹(リマインダー)
次回最終回は渋谷公会堂から武道館へ。
あまりにも速いペースで人気を掴んだBOØWYがどのように一般に浸透していったか。
音楽性だけでなく、ファッション性などについても語っていきます。
PROFILE
ロニー田中
十代の頃から洋邦問わず、ライブ会場に通い、新宿ロフトにおけるBOØWYのデビューライブをはじめ数々の伝説を目撃する。リマインダーのフォレストガンプ的存在。
本田隆
BOØWY初体験は1984年3月31日の新宿ロフト。ブレイク直前までのライブハウス時代を見届ける。リマインダーカタリベとしてインディーシーンから昭和ポップスまで多岐にわたってコラムを展開。