ロニー田中 × 本田隆 対談
最終回
日本ではじめてハイブランドを着たロックバンド。
それがBOØWY
4日間にわたってお届けするライブハウス期のBOØWY目撃者対談。新宿ロフトでの初ライブに立ち会ったロニー田中さんと、ブレイク直前のマンスリーライブに通っていた本田隆さんとでお届けする黎明期のBOØWY検証対談です。
第1回 →1981年のライブハウス事情。ヤンキーとパンクの境界線。BOØWYはヤンキーだったのか?
第2回 →ファーストからセカンドへの音楽的変化とスーツを着てロックするというヴィジュアルへのこだわり
第3回 →新宿ロフトから渋谷ライブ・インへ。そして、ユイ音楽工房との契約。サード・アルバムでブレイクするまでの道のり
― ここからはBOØWYがどのように一般に浸透して東京ドーム公演まで駆け上っていくバンドになったかについて聞かせてください。音楽性だけではなく、ファッションや演出についても。ブレイク直前のBOØWYのマスメディアの切り取られ方って覚えていますか?
- 本田
- 雑誌『宝島』とかで、カルチャーというか、現象としての切り取られ方だったような。音楽誌にはほとんど取り上げられていなかったと思います。そう考えると『アリーナ37℃』は早かったですね。おそらくアンダーグラウンドシーンが好きな編集者がいたんだと思います。
― そんな中、ライブでは試行錯誤を重ね着実に実力をつけていったということですね。
- 本田
- 演奏力やライブパフォーマンスもそうだけど、照明なんかもすごく凝っていたことを憶えています。ライブハウスクラスのバンドって照明とかあまりこだわらないと思うのですが、先ほどの氷室さんのパフォーマンスと同じように自分たちをどのように見せるかということにこだわっていたんだと思います。演出的な部分にも目が行っていたんでしょうね。
― ブレイク前からプロデュース能力が優れていたバンドだったということですね。
- 本田
- ですね。氷室さんが「狂介」から「京介」へ改名する前から先を見据えたバンドだったと思います。
― その改名の時はどう思いました。
パフォーマンスに徹した氷室京介、
音のイニシアティブは布袋寅泰という役割分担
- 本田
- この時は素直に売れようとしてるんだなと思いました。そこで音楽性やパフォーマンスが極端に変わったわけではなかったので、違和感はなかったですね。
― このライブ・インの時期というのは、ロフトで観た時期とは全く違うわけですよね。
- 本田
- 全く違う。ライブ・インのBOØWYというのが、その後国民的バンドになっていく原点ですね。この時はかなり洋楽志向だったけど。もちろんそこからマッシュアップしていくわけだけど、ライブ・インのマンスリーっていうのは、彼らにとって意義のあるものだったと思います。
- ロニー
- 距離感も良かったよね。ホールじゃないし、熱気がダイレクトに伝わってきたから。ただ、あそこはビルの8階にあって、みんなが飛び跳ねてフロアが揺れるんだよね。それが凄かった(笑)。
- 本田
- そうそう。その後が渋谷公会堂ですね。確か、ライブ・インで渋公が決まったというMCを聞いたと思います。 ライブ・インは当時ホールへの登竜門ですよね。ブルーハーツがメジャーと契約したというMCがあった日もライブ・インで観ています。
― その登竜門を経てからの躍進は目覚ましいものがありましたよね。
- ロニー
- ユイ音楽工房を味方につけたことが大きかったと思う。
― それで、ベルリンでレコーディングしたアルバム『BOØWY』、シングル「ホンキ―・トンキー・クレイジー」がリリースされるわけですよね。
- 本田
- 「ホンキ―・トンキー・クレイジー」のB面に「16」という曲が入っているんですよ。この曲元々は「TEDDY BOYS MEMORIES」ってタイトルだったんですよ。つまり、ここでいままでのイメージも変えていこうということになったんだと思います。
今までは “TEDDY BOY” っていう単語が分かる人だけにアピールしてきたけど、これからは「TEDDY BOYって何?」っていう人にもアピールしていかなくてはならない。曲名を変えたというのは、そういう意味もあったんじゃないかな。
サードアルバムリリースから渋公、武道館へ。
あまりにも早すぎる展開。メタル少年も夢中にさせた美学とは
― 衣装をゴルチエとタイアップするようになったのは、このサードアルバムの後ですか?
- ロニー
- ですね。この後テレビ出演も多くなって、『オールナイト・フジ』で「僕たちBOØWYです!」ってみんなが「キャー!カッコいい!」ってなってどんどん一般化していくという感じですね。
- 本田
- ここが早かったですね。でも初めての渋公は即ソールドアウトっていうわけではなかったと思う。渋公以降の一般に浸透していくスピードが急速だったと思います。
これが1985年6月で、翌年には武道館だから。85年って、僕は高校2年だったんですよ。それで、同級生とBOØWYのコピーバンドやろうってなって。でも学校でBOØWY知ってるやつはほとんどいなかった。それが翌年になると、それまでメタルバンドのコピーやっているやつらまで、全員がBOØWYのコピーバンドになってた(笑)。
1986年の3月に渋谷のラ・ママで、同級生のバンド集めて卒業記念のライブをやったんだけど、その時はBOØWYのカバー大会だった(笑)。アースシェイカーとか、モトリー・クルーとかやってたやつらが全員BOØWYになってたから。その時、僕らはもう飽きちゃって、ルースターズとかやってたんだけど。やはり若さゆえというか、売れちゃうと寂しさというか、自分たちを離れて遠くへ行っちゃったみたいな思いが出てくるんですよね。
― 1985年の6月にサードアルバム『BOØWY』を出して翌年の3月に次のアルバムの『JUST A HERO』をリリース、その3か月後に武道館。やはりすごい急速なペースでしたね。ロフトからこの武道館までを見届けてどう思いました?
- 本田
- あまりにも早すぎる展開で信じられなかったですね。自分が好きだったものが、どんどん世の中に広がっていく感覚についていけなかった。それで「わがままジュリエット」聴いた時に、これは自分の手の届かないバンドになったなって実感しました。
― 逆に「わがままジュリエット」でBOØWYを知ったという人が世の中的には一番多かったと思います。
- 本田
- そうなんですよね。ただ僕は十代だったし、メジャーは敵だ! みたいな(笑)。その中からいいところ見つけようという発想にはならなかったです。
- ロニー
- このあたりだとベストテンだとか、テレビのゴールデンタイムにも出てきてたから、そりゃ学校でも話題になるよね。この時期には大規模なイベントにもいっぱい出ていたから。
- 本田
- だから、彼らは、注力しなくてはならないという感覚を掴んでいたんだと思う。ここで頑張れば日本一のライブバンドになれるみたいな。
― それで結果、東京ドームでまでやるバンドに成長するんですよね。それで後の日本のロックバンドに与えた影響は計り知れないものがあるし、洋楽を聴かないロックバンドもどんどん増えていきますよね。
- 本田
- そういうところもあっただろうし、それまでロックバンドのメインはメタルだったと思うんです。世の中的には。パンクとか、博多の音楽は少数派ですよね。メタルメインのロック少年の憧れを全部持って行ったのがBOØWYだったんですよね。 氷室さんのカリスマ性や、布袋さんのギターテクなど、華があったんですよね。そこですべての常識が変わっていくぐらいの。
日本で初めてハイブランドを着たBOØWYが変えていったロックの常識
- ロニー
- BOØWYがブレイクするまでは、ロックって怪しくって訳わかんなくて、どマイナーであることがカッコいいという美学があったと思うんです。そんな中BOØWYは日本で初めてハイブランドを着たバンドなんですよね。マドンナの『ヴォーグ・ツアー』の衣装を担当したゴルチエを着ていたんですよ! トップブランドを着るからこそロック! みたいに世の中の認識を変えていった人たちだと思う。その後に登場するヴィジュアル系、GLAYとかもスーツを着ていたわけだし。それで、ボーダーのロンTにジーンズとかの女の子ではなく、モデルとか、ハイブランドを着たお姉さんが「BOØWYってカッコいい!」ってなるわけですよ。そういう人種は新宿ロフトにはいなかった。
ロックってお洒落なものという感覚で、従来ロックを聴くはずがなかった人たちも取り込んでいったのも大きかったと思います。 - 本田
- 黎明期のBOØWYというのは、これまで話してきたように、音にしても自分たちの見せ方にしてもビジネス的な面にしても、とにかく試行錯誤して、自分たちのスタイルを確立していったということですよね。つまり、サードアルバムでのブレイクは偶然ではなく必然だったということ。そしてなにより一番の要因はロニーさんも言ったように「ロックはお洒落なもの」という感覚を全国民に広め、それまでロックを聴かなかった人たちも取り囲んでいったことだと思います。
それだけではなく、ブレイク後のキャッチ―でポップでスタイリッシュという、とても分かりやすいイメージの裏側に潜む複雑に絡み合った様々な要素なくしては、成り立たなかったバンドだとも思います。
司会:太田秀樹(リマインダー)
当時のライブハウスシーンの熱気や空気感、そして黎明期のBOØWYがどのようなスタンスで前に進み、大ブレイクしたか、その経緯に垣間見られる熱い思いを感じ取ってもらえたら幸いです。
PROFILE
ロニー田中
十代の頃から洋邦問わず、ライブ会場に通い、新宿ロフトにおけるBOØWYのデビューライブをはじめ数々の伝説を目撃する。リマインダーのフォレストガンプ的存在。
本田隆
BOØWY初体験は1984年3月31日の新宿ロフト。ブレイク直前までのライブハウス時代を見届ける。リマインダーカタリベとしてインディーシーンから昭和ポップスまで多岐にわたってコラムを展開。