ロニー田中 × 本田隆 対談
第2回
ファーストからセカンドへの音楽的変化と
スーツを着てロックするというヴィジュアルへのこだわり
4日間にわたってお届けするライブハウス期のBOØWY目撃者対談。新宿ロフトでの初ライブに立ち会ったロニー田中さんと、ブレイク直前のマンスリーライブに通っていた本田隆さんとでお届けする黎明期のBOØWY検証対談です。
第1回 →1981年のライブハウス事情。ヤンキーとパンクの境界線。BOØWYはヤンキーだったのか?
― ここからは、氷室さん、布袋さんの嗜好性の違いだったり、当時のメンバーの音楽的背景を教えてください。バンド名の表記が「暴威」から「BOØWY」に変わって、1982年3月にファーストアルバム「MORAL」が、83年には徳間ジャパンからセカンドアルバム「INSTANT LOVE」がリリースされますよね。正直サウンド的にもどこに向かっているのか分からないという意見を持つ人も多いと思いますが。
- 本田
- 僕は「INSTANT LOVE」がリリースされた少し後に遡って聴きました。アルバムを聴く前にライブを観ていたわけです。ライブでの「FUNNY BOY」とかめちゃめちゃカッコいいんだけど、アルバムの音質がちょっと弱いんですよね…。レコーディングの技術が追い付いてなかったと思う。すごいくぐもっている感じがして、ライブの良さがアルバムに反映されていないなというのが、
ファーストからセカンドへと、音の作りも全然違っているわけじゃないですか。「MORAL」ってシンプルなロックンロールという感じだけど、「INSTANT LOVE」ってギターのエフェクターの使い方にしても今まで聴いたことのないような驚きがあった。
当時のライブで、布袋さんの足元のエフェクターの数が凄くて、それをソリッドのテレキャスターで出すから「何これ!」って。そこから始まるんだけど、その凄さが「INSTANT LOVE」では出し切れてなかったと思う。
― やはり布袋さんが音楽性の柱だったということですか?
- 本田
- 当時ライブに行くと、開演前にバウハウスとか、エコバニとか、そういう最先端の音をミックスしたようなSEが流れてたんだけど、あとで聞いた話だと、布袋さんが作ったテープらしいんですね。
― 同時期に布袋さんは、AUTO-MODやPETSに在籍していますよね。
- 本田
- 僕は、AUTO-MODも好きで良く観に行ってたんですが、AUTO-MODのギターの人がBOØWYでもやっているイメージでした。
― AUTO-MODはパンクですか?
- ロニー
- ダークな感じのポジパン(ポジティブパンク)でしたね。布袋さんは、そういうBOØWY以外のそういう活動の中で、音の変化と同時に演出というか、自分たちをどのように見せるかについて、試行錯誤して自分たちのスタイルを築いていったと思う。
- 本田
- サードアルバムに到達する過程の中での試行錯誤がブレイクの礎となっているわけですね。
- ロニー
- 私はそう思う。パンクでもない、ヤンキー気質と共存したBOØWYならではのイメージが浸透していくのかと。
BOØWYがインスパイアしたモダンドールズという存在
― 1983年頃のBOØWYってどんな格好していたんですか?
- ロニー
- スーツですね。
- 本田
- 青山にあったロンドンよりのパンクとかロカビリーをイメージしたブランド、T-KIDSを良く着ていましたね。スーツにラバーソールというスタイルで、BOØWYにはジーンズを履くイメージはないんですよね。
- ロニー
- ないない。やはりBOØWYはスーツのイメージよね。 その当時、「MORAL」から「INSTANT LOVE」に行くときに博多に伝説のバンド、モダンドールズというのがいたんですよ。そこにヴォーカルの佐谷光敏という人がいて、氷室さん、布袋さんはモダンドールズの大ファンだったらしくて、博多でやっていたライブの音源や映像を集めてたとか。今では氷室さんのステージアクションは日本のロックを象徴するようなものになっていますが、そこは佐谷さんの影響がなくては語れないものだと思う。デビュー前の吉川晃司もかなりテープ聴いたり研究していたと佐谷さん本人から聞きました。 モダンドールズには「インスタント ラヴ」っていう曲もあるんですよ。だから、彼らを知って、この路線で行こうと決めたのではないかと。
― すると、サウンドもヴィジュアルも試行錯誤していた中で、モダンドールズというひとつのベンチマークが出来たわけですね。
- ロニー
- 当時モダンドールズは、渡辺プロのロック部門に在籍して、私は、当時のモダンドールズのライブを博多より東京で観て良く知っているけど、BOØWYの方が先にメジャーデビューしてしまい、結局メジャーデビューしませんでしたね。
- 本田
- 「ホンキ―・トンキー・クレイジー」のリズムとかは、モダンドールズの「浮気なジャングルビート」にもろ影響受けてますよね。
スーツでステージに立つというのもモダンドールズの影響だったと思う。 - ロニー
- モダンドールズのライブはそれこそ、頻繁に観にいってたけど、BOØWYがめちゃめちゃ影響受けてる!っていうのはリアルに分かりましたね。
- 本田
- 先ほどの話で、氷室さんの芸能界志向と布袋さんのマニアックな音楽性というのを加味した上でモダンドールズという指標ができたというわけですよね。
BOØWYはロフトのあと、渋谷のライブ・インにいくわけじゃないですか。ライブ・インのステージングって、氷室さんの踊っているシルエットを大きなスクリーンで見せたり、すごく凝っていたんです。だから、彼らはいろんなことを融合して考えていたんだと思う。
そんな時期に自分たちの音楽を「アフロカビリー」と言っていたのも、高橋マコトさんのアフロビートっぽい強力なドラミングとモダンドールズを基盤とした音を自分たちのものにしたかった表れだと思います。 当時は「TEDDY BOYS MEMORIES」とかロカビリーっぽいタイトルもあったし。 - ロニー
- 確かにモダンドールズというひとつのサンプルケースが見つかったからキャロルでも銀蝿でもなく、スーツを着て、それこそホストっぽく決めて、巻き舌っぽく英語を混ぜて歌うというスタイルが確立されていった。
- 本田
- イメージをガンガン固めていく感じですよね。今までなかったバンドの方向性を見せるために。
― この時代には、モダンドールズとBOØWYがいたということですかね。売れたのはBOØWYだったけど…。BOØWYにしてみれば目標が見つかり、より切磋琢磨していく時代ですね。
地方発のバンドの心意気。東京でなめられてたまるか
- 本田
- モダンドールズは博多のバンドじゃないですか。博多のバンドって、東京のメインストリームには影響されない独自の音の作り方が伝統としてあったと思うんです。BOØWY、BUCK-TICKという群馬のバンドにも東京にはない感性を感じます。だから、モダンドールズには相通じるものがあったのだと思います。地方発のバンドが東京でなめられてたまるかみたいな。
- ロニー
- その共通意識はあったと思う。ほら、その「なめられてたまるか!」というのもヤンキーテイストじゃない。結局そこに行くんですよね。
- 本田
- 歌詞の内容にしても「MORAL」はシニカルだけど、そんな負けん気を感じる部分もありましたね。「これメジャーで売るの?」みたいな印象があったけど、「INSTANT LOVE」は歌詞の世界観もグッと深くなったし。
- ロニー
- そうね。横文字を上手くビートに乗せてるという印象があるよね。それは大きな転換期であったポイントだと思う。
- 本田
- 「INSTANT LOVE」とか「FUNNY BOY」とか「TEENAGE EMOTION」とか、意味が分からなくてもカッコいいイメージの英語を巧みに乗せていくという印象でしたね。当時それが素直にカッコいいと思ってました。
- ロニー
- この時期は歌詞も音楽性もアルバムごとに全然違うというのがポイントかな。
司会:太田秀樹(リマインダー)
ユイ音楽工房との契約でBOØWYはどのように変わっていったのか?
月を追うごとに動員が増えていったブレイク直前の詳細や、ヤンキーが好む音楽の変化についてもじっくり検証していきます。
PROFILE
ロニー田中
十代の頃から洋邦問わず、ライブ会場に通い、新宿ロフトにおけるBOØWYのデビューライブをはじめ数々の伝説を目撃する。リマインダーのフォレストガンプ的存在。
本田隆
BOØWY初体験は1984年3月31日の新宿ロフト。ブレイク直前までのライブハウス時代を見届ける。リマインダーカタリベとしてインディーシーンから昭和ポップスまで多岐にわたってコラムを展開。