ロニー田中 × 本田隆 対談
第1回
1981年のライブハウス事情。ヤンキーとパンクの境界線。
BOØWYはヤンキーだったのか?
4日間にわたってお届けするライブハウス期のBOØWY目撃者対談。新宿ロフトでの初ライブに立ち会ったロニー田中さんと、ブレイク直前のマンスリーライブに通っていた本田隆さんとでお届けする黎明期のBOØWY検証対談です。
― 今回のリマインダー特集では、BOØWYを第1期、第2期、第3期と分けて未だ根強い人気を保つ彼らの本質について解き明かしたいと思っています。で、この対談では、第1期、1981年から84年までの約4年間について、当時の目撃者であったおふたりに話を聞いていきたいのですが、この時期って、中学生とか高校生ですか?
- ロニー
- 私は高校生です。
- 本田
- 僕は中学1年から高校生になるかならないかの時期ですね。中学3年の春休みに初めて新宿ロフトで観たという。
― ふたりとも出身は東京ですよね。するとライブハウスの文化には接しやすい環境にいたということですよね。
- ロニー
- ですね。
- 本田
- 恵まれていましたよね。
― 当時のライブハウス事情はどんな感じだったのですか?
- 本田
- その前の1981、82年というのは、ザ・モッズやスターリンがライブハウスシーンの最前線にいた頃ですよね。その頃、ロニーさんはどの辺に行っていました?
- ロニー
- やはり新宿ロフトかな。あと渋谷屋根裏。この時のライブハウスは、昼間の入場料が500円とか、フリーとか、とにかく安かった。それで掟があって、昼で動員掴んだら夜の部に出ていいという。特にロフトとか屋根裏はそれが徹底していました。昼の部、夜の部があって金曜日、土曜日の夜や祭日前は大きな動員を見込めるバンドが出演していましたね。でも、BOØWYの初ライブは夜なんですよ。でも、あの夜は動員がなくて、その後、昼の部に出演していたという話は聞いたことあります。一発目が夜ということは、ロフト側としては、客を呼べることを想定していたと思うんですよ。
- 本田
- 当時、氷室さんは、前のバンド、スピニッヂ・パワーで音楽事務所(ビーイング)に入っていましたよね。だから、音楽業界界隈では認知度があったってことですよね。
- ロニー
- それにしても、あの時は客が十数名しかいなかった。だからそれは謎ですよね。
- 本田
- その十数名はほとんど身内ですか?
- ロニー
- ほとんど知り合いって感じだったと思う。そのお客の中に後のドラマーとなる高橋マコトさんがいたんだよね。で、すごいカッコいいバンドだから自分を入れてくれってアプローチした話があるんだけど…。 私がその日のライブで印象に残っているのが、とにかく曲がなくて「NO.N.Y」を何度かやるから覚えてしまったという(笑)。
- 本田
- あと、ピストルズのカバーとかやってた頃ですよね。
- ロニー
- そうそう。あと、「♪Woo Woo Ah Ah 仕事が終われば~」って「GUERRILLA」はやってましたね。ずいぶん面白い歌で強烈だなって。それで、あの頃はサックスもいて、恰好とかはニューロマンティック、ニューウェイヴ系なのよ。
- 本田
- ある程度戦略があったということですよね。
- ロニー
- 多分そう。ただ、ヤンキーの匂いは感じるんだけど、キメッキメに決めてたからね。「丸井で買いました僕たち!」みたいな。
- 本田
- まだ、DCブームとかの前ですよね。やはり、ヤンキーに受ける音楽を作ろうという発想は彼らになかったですよね。
- ロニー
- ないと思う。それに、私が以前にDJの小林径さんに会ったとき、径さんは群馬出身で、「怖い群馬(笑)」って言ったら「怖がんなよ(笑)」って言いながら、後輩が布袋さんなんですね。径さんが群馬に唯一あった輸入盤店で、ラジオからエアチェックしたものとか片っ端から相当の額のレコードをオーダーしてたみたい。それで、「俺より買っている人はいないだろ」とその店長に行ったら、「いや一人います」と。それが布袋さんだったみたいで。径さんもDJやっていて、すごい知識の持ち主だから相当買っていたみたいだけど、それを上回る額を注ぎ込んでいたと聞きました。
- 本田
- その時に布袋さんって高校生ですよね! すごい!
当時のライブハウス事情。ヤンキーとの境界線はどこに?
―“暴威”っていうのは、山本寛斎がデザインしたデヴィッド・ボウイの衣装に書かれていた漢字から取ったという話がありますよね。
- ロニー
- そういう話もあるけど、やはりヤンキー・テイストを感じるネーミングですよね。暴威の前にも候補があったんですよね。
―“ガール”という名前のロックバンドがイギリスにいて、そこから、ビーイングのスタッフが「お前ら男だから “ボーイ” でいいじゃないか」という話だったり、横浜銀蝿が流行っていたから、「お前ら“群馬暴威”だ!」みたいな逸話も残っていますね。
- ロニー
- “群馬暴威”はダサいってメンバーが反対したんですよね。やはり、私がリマインダーに書いたエピソード(『内海美幸「酔っぱらっちゃった」レディースの先輩と氷室狂介のカンケイ?』)を読んでいただければわかるように、デビュー当時氷室さんはブラックエンペラー高崎支部の「寺西」として新宿あたりでも名前が知られていた。その仲間だった先輩から、私は盛り上げ役で「来い!」って言われたから。
- 本田
- 当時から、氷室さんは喧嘩がめちゃめちゃ強いという噂があって、僕らにも伝わってきたぐらいだから。負け知らずみたいな。
― 80年代初頭のライブハウスってすごく怖いという印象がありますよね。
- ロニー
- 怖いっていうか、閉鎖的な印象はありましたね。一見さんお断りじゃないけど、そういう敷居の高さっていうのはあったと思う。
- 本田
- 僕は、BOØWYが初めてのライブハウスで、新宿ロフトに行ったらもう始まっていたんですよ。その時の当日の料金が1,200円か1,500円とかで、入口でお金を払おうとしたら、「もう始まってるから1,000円でいいよ」って言われたんですね。すごく優しくて、ライブハウスっていいところだなっていうのが僕の第一印象でした。
- ロニー
- 私も行っていたけど、1,200円ぐらいだったと思う。
- 本田
- で、中に入ったらパンパンで凄かったじゃないですか。みんな黒い服着てて。ヤンキーじゃないんだけど、肌感で怖いなとは思いました。
あの頃、ザ・モッズとか、アナーキーとかもお客さんの層は近かったと思うのですが、その辺りとヤンキーの境界線はどこにあったのかな? とは今になって思います。 - ロニー
- そこは掘り下げるべきテーマだよね。私の先輩たちは、八王子とか西東京周辺で、その辺りを締めまくっていた人たちが聴いていたのがキャロルとか、クールスとかだよね。アナーキーとかじゃなかった。バイクに乗った男の子と付き合っているとそっちに行くと思うけど…。 私の高校では、掃除の時間に校内放送で流れてくるのがオフコースだったのね。周りの女の子たちは「♪君を抱いていいの~って歌ってるー」って言っていた時代ですよ。で、ヤンキーが聴いているのは、キャロルだ、クールスだ、そこに横浜銀蝿が登場してきて… そこに登場したBOØWYにはニューウェイヴ感はあったよね。
- 本田
- それで、初期のBOØWYってメッセージ性がありましたよね。アナーキーもそうだけど。ヤンキーって、ポップで、切なく情けない歌が好きですよね。すごく純粋な。メッセージ性があるものを好まない。アナーキーが好きだった暴走族っていうのもいたと思うけど、やはり、ヤンキーではない人に支持されていたのが大きかったと思う。
- ロニー
- 私の通っていた高校ではオフコースでノリノリだもん。実は私はそれにうんざりしていたの(笑)。
- 本田
- その頃、ロニーさんはどんなの聴いていたのですか?
- ロニー
- それこそ、ロッカーズとかルースターズとか、あの辺だよね。だから、「オフコースのライブ行こう」って友達に言われた時は「ゴメン、ムリムリ」ってなった(笑)。
― ロニーさんは『ぎんざNOW!』の公開放送とか行かれてたんですよね。
- ロニー
- 『ぎんざNOW!』にはキャロルから始まってサブカル寄りでトリックスターみたいな人がいっぱい出てきたし。ロックをすごく推していたの。ニューウェイヴ系のバンドも結構出てたように記憶してる。最初はそういう場所でお気に入りのバンドを探したりして、ライブハウスで探すようになったのは、BOØWYが出てきた頃だと思う。
本田君ともよく話すんだけど、ライブに行くことによって友達が増えていって、そこで情報交換できることが嬉しかった。ブティックのお姉さんにフライヤーもらって行くというカルチャーがあったので…。 - 本田
- 当時、カッコいいお店にはライブ告知のフライヤーがベタベタ貼ってありましたよね。ロニーさんが見つけるのって、音楽雑誌に掲載される前ですよね。
- ロニー
- そうそう。
― そう考えるとBOØWYはヤンキーじゃなかったということですよね。
- ロニー
- 音楽性はそっちに向かなかったと思う。
― 革ジャンとか、リーゼントとかそういう世界ではないですよね。
- 本田
- ただ、どこかに隠せないヤンキーが好むテイストというのがあって、僕が観てたときもリーゼントにクリームソーダ着ていたから。僕はそこから好きになったし。あとは、青山にあったT-KIDS着てましたね。
- ロニー
- だから、クリームソーダだけじゃないマニアックなカルチャーブランドを着ていたというのは不良の証なんだよね。
― キャロルとかクールスって、アメリカのロックンロールを踏襲していた部分が大きいじゃないですか。BOØWYはイギリスを経由したロックンロールということですか?
- 本田
- キャロルはブリティッシュですよね。ただ彼らが現役の時、そういう捉え方をしている日本人はいなかったと思う。革ジャン、リーゼントという極めてドメスティックな文化を作っていったと思う。 氷室さんは永ちゃん好きですよね? BOØWYにはそういう匂いもあったから、僕は入りやすかった。キャロル的というか。
ヤンキー・テイストなのに音はガチガチのニューウェイヴ
― キャロル、クールス、その後にBOØWYと横浜銀蝿に分かれたという感じですか?
- 本田
- その時、BOØWYは、そんなに大きなパイではなかったですよね。
- ロニー
- どちらかというと仇花っぽかったんですよ。でもやっていることは完全にニューウェイヴ系だったのね。
― ヤンキーとニューウェイヴの混在しているバンドだったんですか?
- 本田
- それはたぶん、氷室さんのキャラクターに因るものが大きかったと思う。キャラクターとか、独り歩きしている噂とかにヤンキーテイストなものが多かったから。でもガチガチのニューウェイヴでしたよね。
- ロニー
- 今思うのが、彼らの眉の感じが象徴的なのね。1981年当時、眉を細くいじっているのは、ヤンキーかパンクしかいなかったのよ。だって横浜銀蝿なんかはボサボサの眉だから。男が眉をあえていじるのはヤンキーかパンクなんだけど、パンクじゃないわけだから。
私の高校のクラスメイトのようにオフコースが鳴っている世界の一般人からしてみれば、彼女たちには “パンク” という単語がないし、一般かヤンキーかという区分けしかないじゃないですか。私が先輩に締め上げられたのも、見たことのない種族で、「私はパンクが好きなんです」といっても理解不能だったと思うの。「こいつは新しい(暴走)族なの?」って思われていたから(笑)。
そういう時代だったので、ヤンキーか否か。オフコースか横浜銀蝿か。ここが大きかったと思います。 - 本田
- 僕も、中学の時、クリームソーダのパンツを履いて学校行ってたりしたら、先輩に呼び出されたりしていた。自分として音楽が好きでそういう恰好していたんだけど、大多数の人にはヤンキーっぽいと映っていたのかもしれない。
― 氷室京介のヴィジュアルはヤンキーだったけど、片やグラムで最新音楽のヘヴィリスナーだった布袋寅泰がいて、それが融合したのがBOØWYということですね。
- ロニー
- 氷室さんがビーイングにいたことを考えると、彼は芸能志向なんですよね。それでBOØWYの音楽性を握っていたのが布袋さんだったと思う。
彼らもバンドイメージを固めるのに迷走していたと思う。いきなりアーガイルのセーターを着たオフコースにはなれないし。かといって革ジャン着てボンタン履いて銀蝿にもなれないし。また、アナーキーのようにナッパ服(国鉄の制服)をユニフォームにしていれば楽だったとも思うけど、そういう感じじゃなかった。 芸能界チックにいくのか、音楽性を開花させてマニアックさを追求して新たなファンを掴むのか、本人たちも模索していたと思う。
司会:太田秀樹(リマインダー)
第2回では、ファーストからセカンドへ、横文字をビートに乗せて歌うというスタイルの確立や、
BOØWYのサクセスを語る上で欠かせないモダンドールズの存在について語っていきます。
PROFILE
ロニー田中
十代の頃から洋邦問わず、ライブ会場に通い、新宿ロフトにおけるBOØWYのデビューライブをはじめ数々の伝説を目撃する。リマインダーのフォレストガンプ的存在。
本田隆
BOØWY初体験は1984年3月31日の新宿ロフト。ブレイク直前までのライブハウス時代を見届ける。リマインダーカタリベとしてインディーシーンから昭和ポップスまで多岐にわたってコラムを展開。