沢田知可子 インタビュー

第2回泣ける名曲第1位「会いたい」が
ヒットするまでの背景


沢田知可子は1987年シングル「恋人と呼ばせて - Let me call your sweet heart」でデビュー。今年デビュー35周年を迎えるベテランアーティストで、これまでに発表してきた楽曲は250曲以上に及ぶ。そのうち100曲以上は沢田知可子本人の作品であり、ソングライターとしても多くの名曲を世に送りだしてきた。
今回行われたロングインタビューでは、1990年に発売されミリオンセラーを記録した「会いたい」のエピソードはもちろん、波乱万丈だったこれまでのアーティスト人生を包み隠さずお話ししてくださった。
人生の転機というのはある日突然訪れるのではなく、それまでの人生の積み重ねが引き寄せるのだと、沢田さんのお話を聞いて強く確信した。3回にわたって掲載されるインタビューの第2回目は、「会いたい」がヒットするまでの背景にあったエピソードや今回発売になったばかりの映像作品『LIVE 1990 & 1991』についてお伺いした。
第1回→ 人生波乱万丈!デビュー当時のエピソード

― 「会いたい」はもともと4枚目のアルバム『I miss you』に収録されていた1曲だったんですよね。

沢田知可子
(以下 沢田)
アルバム『I miss you』に収録されていた「Live On The Turf」という曲にJRAのタイアップがついていたので、(JRA日本中央競馬会・1990年度CM曲)レコード会社としては当然この曲に賭けていたわけですが、ディレクターが半ば強制的に「会いたい」をシングルカットしてしまったんです。でも、シングルカットしてくれたおかげで有線から火が付いたわけですから、今思えば感謝しかないですよね。有線にリクエストが来ない時に、有線嬢のみなさんが「会いたい」をかけてくれたことがきっかけとなり、徐々に問い合わせが殺到することになるんです。

― JRAのスポット量は半端じゃなかったですよね。柳葉敏郎さんと賀来千香子さんが出演していたCMは当時よく目にしました。

沢田
当時はオグリキャプ人気で若い人達が競馬場でデートするのが流行っていたので、私は7万人の観客の前で「Live On The Turf」を歌い一生懸命プロモーションしました。でも曲がまったく売れず、部屋でしょんぼりしていたある時レコード会社から電話がかかってきたんです。思わず「私はクビですか?」と聞いてしまいました(笑)。その電話はクビ宣告ではなく、「会いたい」が有線の40位にチャートインしたので、今後は「会いたい」を推していくという連絡だったんです。それが決まった直後に開催したコンサートが、今回DVDになった『LIVE1990』です。

― そのお話を聞くと、今回発売になる2枚のLIVE DVDはたった1年で人生がガラッと変わってしまった一人の女性のドキュメンタリーフィルムのように思えてきますね。

沢田
1990年12月に行われたシアターアプルのコンサートの時は、まったく「会いたい」は売れていなかったんです。ですから、翌年の11月にNHKホールのライブを行うまでの間に私の人生もガラッと変化してしまったわけです。

― 「会いたい」という曲が売れてきたなと実感したタイミングはいつ頃だったんですか?

沢田
1991年の春に沖縄のコンベンションホールの杮落しに呼んでいただいたんですが、体育館のように大きい会場に満員のお客様がいらっしゃって、皆さんが「会いたい」を歌えるくらいご存じだったんですね。狐につままれたような気持ちでした。

― 当時は今のようなネット社会じゃないので、ご本人が一番驚きますよね。

沢田
「会いたい」は、実は沖縄から火が付いた曲なんです。当時沖縄で暴力団同士の抗争があり、流れ弾に当たった18歳の少年が亡くなってしまうという痛ましい事件がありました。その少年のガールフレンドがFM沖縄にエピソードと「会いたい」をリクエストしてくださったことがきっかけで、沖縄で曲が話題になり火が付いたんです。

― 歌詞の中の「死んでしまったの」は、何故死んでしまったのか具体的に書かれていない分、聴いた方が気持ちを投影できるのかもしれないですね。

沢田
当時大ヒットしていた映画『ゴースト / ニューヨークの幻』と「会いたい」を重ね合わせる方が多くて、その後、大阪、東京と広がっていき、おかげさまで全国区のヒットになっていきました。

― 「会いたい」の大ヒットで沢田さんの生活も一変していくわけですね。

沢田
当時は歌番組がなくなってしまった時期で、『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』も終了していたんです。とても出演したかった番組なので残念ながら夢が叶わずでした(笑)。

― 「会いたい」が売れて一番変わったことはどんなことですか?

沢田
やはりお給料が増えたことです(笑)。自立して東京で暮らし始めましたし、レコーディングなどの制作費も当然ですが増えました。でも「会いたい」の次のヒットが思うように出ず、それがレコード会社や事務所との間に出来てしまった溝の原因になりました。ようやくヒットした「会いたい」という曲に、私自身が10年以上苦しめられるわけです。

― 今日は隣にご主人であり音楽プロデューサーの小野澤篤さんもいらっしゃるので、あえてお聞きしますが、二人はいつからお付き合いされていたんですか?(笑)

沢田
今回発売になった1991年のNHKホールのコンサート時には小野澤さんとは付き合っていて、それを周囲に知られていたので小野澤さんはコンサートに出演させてもらえなかったんです。急にスタッフから「今は大切な時期なので」と言われて(笑)。

― えー! まるでアイドルのような扱いじゃないですか(笑)。

沢田
そのことでたくさん敵を作りましたが、いろいろな思いをした分小野澤さんとの結束は固くなり、おかげさまで今でも仲良くさせてもらっています。先ほどお話しした宮古島のコンサートの時に小野澤さんがキーボードで参加したんですが、彼のキーボードで歌った時にすごくいい歌が歌えて、「私はこの人とずっとコンサートをやっていくんだろうな」と直感しました。

― 今回発売になった2枚の映像作品『LIVE 1990 & 1991』ですが、改めてご覧になっていかがでしたか?

沢田
どの出来事も今ここにたどり着くまでに必要な時間だったのだと思います。ユニバーサルミュージックさんが今改めて作品をリリースしてくださったことにも感謝ですね。映像を改めて見て、よくぞこんな未熟な私をプロにしてくれたな、という気持ちでいっぱいですし、今の私の原石がここにあるんだと改めて思います。友人は当時の私のつたないへたくそなMCを聴いて手汗をかいていたそうですが(笑)。

(インタビュー・構成/長井英治)


次回は、沢田知可子さんのいう “暗黒時代” を経て
21世紀になってから現在の活動についてお伺いします。
どうぞお楽しみに。

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