沢田知可子 インタビュー

最終回暗黒時代を乗り越えた
沢田知可子の
現在、
そしてこれから


沢田知可子は1987年シングル「恋人と呼ばせて - Let me call your sweet heart」でデビュー。今年デビュー35周年を迎えるベテランアーティストで、これまでに発表してきた楽曲は250曲以上に及ぶ。そのうち100曲以上は沢田知可子本人の作品であり、ソングライターとしても多くの名曲を世に送りだしてきた。
今回行われたロングインタビューでは、1990年に発売されミリオンセラーを記録した「会いたい」のエピソードはもちろん、波乱万丈だったこれまでのアーティスト人生を包み隠さずお話ししてくださった。
人生の転機というのはある日突然訪れるのではなく、それまでの人生の積み重ねが引き寄せるのだと、沢田さんのお話を聞いて強く確信した。3回にわたって掲載されるインタビュー最終回は、暗黒時代を乗り越えた現在の活動、そしてこれからのことについてお伺いした。
第1回→ 人生波乱万丈!デビュー当時のエピソード
第2回→ 泣ける名曲第1位「会いたい」がヒットするまでの背景

― 1995年にトーラスレコードからワーナーに移籍されていますが、当時相当苦労されたと業界の噂で聞いたことがあります。

沢田知可子
(以下 沢田)
はい! めった切りにされました(笑)。私は「会いたい」の次のヒット曲が欲しかったので、どうしても移籍をしたかったんです。移籍をすればヒット曲が出せると思い込んでいたんでしょうね。実際移籍するまでの約4年間オリジナルアルバムも制作できず企画盤だけが発売される日々でした。でもそんな時期でもコンサート活動だけは継続出来ていたのはとてもありがたかったです。

― 紆余曲折あり、1995年にワーナーに移籍することが出来たわけですね。

沢田
移籍第一弾シングル「Day by day」は『火曜サスペンス劇場』の主題歌に起用されました。小野澤さんとも結婚できて、いざ自作曲で勝負だ! いう意気込みでリリースした「Day by day」が売れなかったんです。そこからが私の暗黒時代の始まりです。

― 沢田さんのワーナー時代の2枚目のアルバム『My Pure Station』は個人的な愛聴盤ですが、当時まったく注目されませんでしたよね。特に「もしも、涙がこぼれたら…」は名曲すぎます。

沢田
わー、嬉しいありがとうございます! このアルバムは小野澤さんと心を込めて作ったアルバムですし、二人とも思い入れの強いアルバムなんですが、実はこのアルバムをリリースしたことが大きな問題になってしまいました。レコード会社に呼ばれて、ここまで好きなことをしてきたんだから、今後は会社の方針に従ってもらうと宣告されまして。その後はレコード会社の方針に従って制作をすることになるんですがそれも全く売れず、結果契約を解除されてしまいました。その時に、これがこれまでに自分が蒔いてきた種の結果だなと思いました。ただ、コンサート活動は継続出来ていたのだけが唯一の救いでした。
Photo:西村彩子

― 今回お話を聞くまでは、そのような日々を送られていたとは夢にも思いませんでした。

沢田
2000年にレコード会社や事務所からリストラされ、人生のどん底を味わっていた時に、「会いたい」が『21世紀に残る泣ける名曲』の1位に選ばれたことで「私はまだ神様から見捨てられていなかったんだ」と思えたんです。それまでは絶対に「会いたい」を超えてやろう思って生きてきたんですが、1位に選ばれたことでようやくそういう考えを捨てることが出来ました。

― そして、最初にお話に出た2004年の中越地震のチャリティーをきっかけに人生がガラッと変わったわけですね。

沢田
チャリティーに出向くまでは、逆に私のことをチャリティーして欲しいと思うくらい人生のどん底だったんですが、いざ、被災地の方たちの涙に対面した時に「セラピー」というキーワードが舞い降りて来ました。そこから私の心の復興も始まったわけです。

― 沢田さんがずっと売れ続けていたら、“気付き” のようなものはなかったかもしれないですね。

沢田
そうですね、精神的にコテンパンにされましたし自信もなくしましたけど、小野澤さんが一緒に居てくれたことで救われてきたと思います。

― 小野澤さんと一緒に音楽をやってきたことで、良かったなと思う瞬間はどんな時ですか?

沢田
近年の作品は家内制手工業状態で、アレンジから演奏まで何もかもやっていただいています。裏を返せば便利屋みたいになっていますが…。小野澤さんのおかげでここまでやってくることが出来たので感謝しかないです。少し褒めればゴミも捨てに行ってくれますし、キッチンにも立ってくれます(笑)。

― 小野澤さんとの出会いは、沢田さんの人生にとってかけがえのない出来事であり存在だったわけですね(笑)。“歌う” ということは沢田さんにとっての “生まれてきた意味” そのものという気がしてきますね。

沢田
私が歌っている目の前でお客様がボロボロと涙をこぼしている姿を見る時が、改めて歌手になってよかったと思う瞬間です。この歌声は神様にいただいたギフトですから。
Photo:西村彩子

― 東日本大震災の時にも沢田さんはすぐにチャリティーライブに出向いていましたよね。

沢田
南相馬の駐車場でライブをやった時に、私の「幸せになろう」という曲のイントロから曲が終わるまでずっと泣き続けていて、曲が終わっても過呼吸になるくらい泣かれていた女性がいらっしゃったんです。その方は13人家族で暮らしていて、大黒柱だった旦那さんを津波で亡くされたそうです。それまでは涙を流すことなく大家族のために気丈に生きてきたんですが、私が来ることを知って「泣きに来ました」とおっしゃられていました。その後、その方は再婚されたそうですが、きっとたくさん涙を流したことで次のステップへ進むことが出来たのだと思いますし、“歌セラピー” の効用かもしれないと思っているんですよ。

― 現在、作詞家の松井五郎さんが洋楽の名曲に日本語の歌詞を書いたアルバム『Vintage』を制作中だそうですね。

沢田
デビュー35周年に向かって自分の人生を振り返った時に、これまで感銘を受けてきた洋楽のスタンダードを歌うことはどこか “祈り” のように思えてきたんですね。これまで英語に対してコンプレックスがあることで歌えなかった名曲に日本語の歌詞をつけ、改めて向き合ってみようと思ったんです。松井さんの書く歌詞は日本語で歌っても全く違和感のない曲に仕上がっていて、改めて素晴らしい作詞家の先生だと再認識しました。

― 沢田さんの初期の名曲「薔薇の戦争」や「Soiree」も松井五郎さんの作詞でしたね。

沢田
はい、でも松井先生と直接ここまで向き合って深く関わらせていただいたのは今回が初めてです。松井先生の歌詞は行間を含めてとにかく深いんですね。その行間を含めて表現できるように、新人のような気持ちで歌わせていただいています。現在「Smile」という曲がアルバムの先行シングルとして配信されていますので是非聴いてみてくださいね。

― このコロナ禍が明けたら、今後どのような展開になっていきそうですか?

沢田
これまでの自分をもっと壊していきたいと思っています。大げさに言うと沢田知可子という名前を変えてもいいと思えるくらい、これまでのイメージを壊せるような活動をしていきたいと思っています。今回のアルバム『Vintage』もそんなきっかけになればいいと思っているんです。すでに決まっている新たな活動もあるので、これからの沢田知可子にも是非期待していてくださいね。そして発売になったばかりの私の映像作品『LIVE 1990 & 1991』も是非ご覧ください。よろしくお願いします。

― 今日はどうもありがとうございました。

(インタビュー・構成/長井英治)


自らデモテープを持ち込みデビューにつなげた行動派の沢田知可子さん。
今後の新しい活動についても、すでに決まっている… とのことなので、
ますます沢田知可子さんから目が離せなくなりました。
貴重なお話を、ありがとうございました。

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