沢田知可子 インタビュー

第1回人生波乱万丈!
デビュー当時のエピソード


沢田知可子は1987年シングル「恋人と呼ばせて - Let me call your sweet heart」でデビュー。今年デビュー35周年を迎えるベテランアーティストで、これまでに発表してきた楽曲は250曲以上に及ぶ。そのうち100曲以上は沢田知可子本人の作品であり、ソングライターとしても多くの名曲を世に送りだしてきた。
今回行われたロングインタビューでは、1990年に発売されミリオンセラーを記録した「会いたい」のエピソードはもちろん、波乱万丈だったこれまでのアーティスト人生を包み隠さずお話ししてくださった。
人生の転機というのはある日突然訪れるのではなく、それまでの人生の積み重ねが引き寄せるのだと、沢田さんのお話を聞いて強く確信した。3回にわたって掲載されるインタビューの1回目は、デビュー当時のエピソードを交えてお届けする。

― 今年2022年は沢田知可子さんのデビュー35周年を迎える記念すべき年ですので、これまでの沢田さんのアーティスト人生をじっくり伺わせていただこうと思っております。よろしくお願いいたします。

沢田知可子
(以下 沢田)
私の人生はかなり波乱万丈ですよ!(一同爆笑)。よろしくお願いいたします。

― 今日は沢田知可子さんのラジオのレギュラー番組の生放送の後にお時間を頂いているのですが、ラジオの生放送はライフワークになっていますよね。(2018年4月からエフエム世田谷、全国のコミュニティFMをネットするラジオ番組『アフタヌーンパラダイス 水曜日』のレギュラーパーソナリティ)

沢田
早いもので、2月2日の放送で200回目になります。コロナの世の中になってからラジオの生がある水曜日のおかげで曜日の感覚を失わずにいられましたし、ライブが出来ない時には特にラジオが心の拠り所になっていました。ライブがなかなかできない中で、ラジオがあることで私自身がかなり救われています。

― コロナ禍でライブが出来ない時も、CD制作やリリースをして歩みを止めない沢田さんですが、やはりアーティストとしての使命感のようなものを感じていますか?

沢田
そうですね、やはりこうして人前で歌を歌わせていただけていること自体が奇跡のようなものだと思っていますし、こうして大変な時期だからこその「会いたい」なわけです。私の大きな転機は2004年に起こった新潟県中越地震のチャリティーライブだったんですが、実は私自身が一番人生のどん底の時期でした。最初チャリティーのお話を頂いた時に「会いたい」を歌っていいの? と確認したのですが、こういう状況になったからこその「会いたい」なんだよ、と言っていただき参加することになりました。長岡の野外ステージに立っていた時に急に激しい雹が降ってきて、その時に傘をさしながら微動だせずに「会いたい」を聴いているみなさんが泣いていたんです。そのステージに立ったことが、現在私のライフワークになっている “歌セラピー” の活動のきっかけになりました。一緒に悲しみを共有することが “歌セラピー” の活動のコンセプトになり、2005年から沢田知可子のリスタートになりました。ピンチの時こそ悲しい歌が必要だと感じています。
Photo:西村彩子

― 沢田知可子さんがデビューされた80年代後半は、“励ましソング” のオンパレードでしたからね。沢田さんのデビューのきっかけは業界人にデモテープが渡り、それがデビューのきっかけだと聞いていますが、その経緯を詳しく教えていただいてもいいですか?

沢田
当時、渋谷の“ランタン” というライブハウスが業界の人がたくさん集まると噂の場所だったんです。それを聞きつけてライブハウスにデモテープを持っていき「すいません、こちらは業界人がたくさん集まると聞いてきたのですが…」と店長を訪ねたんですね。「どこの業界だよ、何の業界だよ!」とお説教されて(笑)。でも次の日にデモテープを聴いた店長から「お前に興味があるプロデューサーがいるから」と電話があり、興味を持って下さった女性プロデューサーに会うことになりました。私の作る曲よりも私の声に興味を持ってくださり、それがきっかけでデビューのチャンスを作ることが出来ました。

― ライブハウスにデモテープを持って行ったことがきっかけになり、1987年にデビューをするわけですね。

沢田
その女性プロデューサーは小林明子さんをデビューさせた方で、私のことをバラードシンガーとして育てたかったそうです。私のデビュー曲「恋人と呼ばせて」は井上大輔さんに曲を作っていただき、歌詞は門谷憲二さんに書いていただいたバラードになりました。45回転の12インチシングルというインパクト重視のデビューシングルでした。

― 「恋人と呼ばせて」は名バラードですよね。個人的に大好きな曲です。

沢田
私もまだ若かったので歌詞の中の「くちびるで この涙を 吸いとって…」というフレーズを歌うのがすごく恥ずかしくて、レコーディングスタジオのトイレで泣きました(笑)。スタッフに説得されて泣く泣くレコーディングした思い出があります。もちろん今では大切な1曲ですが。

― 「会いたい」が売れるまでに3年間の期間がありましたが、その期間はどのような活動をされていたんですか?

沢田
当時は有線放送のごあいさつ回りが多くて、確か250か所くらいあったと思うのですが、とにかく細かく回りましたね。その間に4枚のアルバムを制作しながらいろいろと勉強させていただいた感じです。

― 「会いたい」が売れるまでのその3年間、今だから言える “辛かったエピソード” はありますか?

沢田
とにかくお金がなくて大変でした。キャンペーンでお邪魔するにも衣装がなかったので、たまたま友人にスタイリストがいて、黒いゴミ袋パンパンに洋服を詰めてもらって1万円で売ってもらいそれを着こなしていました。当時の事務所から10万円のお給料もらっていたんですが、私は180万円のシトロエンを買って乗っていたので、そこから毎月3万円のローンを払っていました(笑)。実家から通っていたので何とかやっていけていたという感じです。

― 最初の4枚のアルバムは、当時は売れずとも素晴らしい楽曲が多かったと思います。沢田さんはバブル絶頂期のデビューなので、制作費はかなり潤沢にあったんじゃないですか?

沢田
「会いたい」が売れるまでは制作費が少なくて、まさに地獄のようなレコーディングでした。当時はバブル期でスタジオ代が異常に高かったので、常に時間との闘いでした。ドラマの主題歌に起用していただいた(花王 愛の劇場『いつか誰かと』主題歌)「COME INTO MY LIFE」のフェイク部分が全然上手くいかなかったんです。当時のディレクターがすごくこだわりの強い人だったので、歌のOKが出なくて1日中レコーディングをしていた思い出があります。スタジオ代のことを考えると、彼は胃が痛かったと思いますよ。

(インタビュー・構成/長井英治)


次回は、「会いたい」がヒットするまでの背景にあったエピソードや、
1月19日にリリースされたばかりの映像作品『LIVE 1990 & 1991』についてお伺いします。
どうぞお楽しみに。

第2回 >>
泣ける名曲第1位「会いたい」がヒットするまでの背景
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