5月21日

佐野元春インタビュー ① アンチ・シティポップ「SOMEDAY」は僕の反抗だった

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1980年のデビューから40年以上、常に新しいフォーマットの音楽に挑み、ソリッドかつ豊潤な音楽をクリエイトし続けた佐野元春。過去を振り返らない印象の強い元春が、2013年にはアルバム『SOMEDAY』の再現ライブを敢行し、今年5月にはこのライブを完全収録したBlu-ray名盤ライブ「SOMEDAY」をリリース。そして、これを記念したロングインタビューがリマインダーで実現。Early Days の元春、アルバム『SOMEDAY』について、当時を振り返った貴重なコメントの数々、アーティスト・佐野元春の今についても語ってくれました。4回にわたってお届けします。

「SOMEDAY」はシャレた曲じゃない。街で育ったすれっからしの少年の唄だ


― 佐野さんには常に革新的に前へ進んでいるイメージがあるので、過去を振り返ることもあまりないような気がするのですが。

佐野元春(以下、佐野):過去を振り返ってもしょうがない。80年代の話を期待されるんだけど自分の音楽以外のことはよく覚えてない。

― やはり聴き手にとって、ティーンネイジャーの頃に触れた佐野さんの音楽の呪縛からは一生抜け出せないと思います。

佐野:そうなんだろうね。できれば新作の話をしたいけれど、今回はアルバム『SOMEDAY』でしたね。

― よろしくお願いいたします。
まずは、アルバム『SOMEDAY』までの道のりということで、ファーストアルバム、セカンドアルバムはロックンロールの衝動が全面的に打ち出されていたと思います。このような流れがあってサードアルバム『SOMEDAY』の制作に着手する時、どのようなことを考えましたか?

佐野:シティポップと呼ばれていた音楽への違和感。すべてはファーストアルバム『BACK TO THE STREET』から始まった。そこで自分にとって大事なテーマは “ストリート” だった。



― そういったアティチュードを保ちながら、アルバム『SOMEDAY』にたどり着いたわけですね。

佐野:そうだね。タイトル曲の「SOMEDAY」の冒頭でストリートのノイズを入れた。それで「街の唄が聴こえてきて」と始まる。そこで表現したかったのは街の雑踏だ。東京という街の猥雑さとか、人々の欲望とか。「SOMEDAY」はシャレた曲じゃない。街で育ったすれっからし少年の唄だ。

― ご自身が見たもの、聴いたものをダイレクトに楽曲として表現すると、自ずとアンチ・シティポップというか、世の中の風潮とは違った世界が生まれたということですか?

佐野:そんなに突っ張ったものではないよ。でもいつも “世の中の風潮” というものに違和感を感じていた。東京で生まれ育った自分にとって、街はシティポップで描かれているようなファンタジーに溢れたものじゃなかった。少年が東京という街で暮らしていくのがどれくらいハードなことか。大人たちが決めた既成の価値観をぶち破ってサバイバルしていくのは大変だった。

― そのあたりの精神が「Back To The Street」の “奪われたものは取り返さなければ” や、「ガラスのジェネレーション」の “つまらない大人になりたくない” というあのラインにつながるわけですね。

佐野:そうだね。80年代初めの頃は “パンク” という様式が鮮烈だった。精神的にすごく共感するものがあった。イギリスではエルヴィス・コステロやポール・ウェラーといったソングライターがいてよく聴いていた。ただ、残念なことに日本では共感の持てるアーティストがいなかった。だから自分がやろうと思った。

― 日本の音楽シーンを開拓していこうということですか?

佐野:開拓って言うと大袈裟だけど、今までにないことをやりたかった。ビートとか、言葉の言い回しや唄に出てくる登場人物のキャラクターとか。当時の仲間が「そうそう、俺たちが今聴きたい音楽はこれだよ!」と喜んでくれるような。当時流行っていたニューミュージックやシティポップ音楽とは違う、何か欺瞞的じゃない、翳りのある、それでいてスピード感のあるものを求めていた。

誰かに頼るのではなくて「自分でやるしかない」そういう思いだった


― デビュー曲「アンジェリーナ」がまさにそうでしたね。しかし、『SOMEDAY』のジャケットは、シティポップ的なデザインでもありましたよね。

佐野:まぁ、正直に言うと、あまり自分らしくなかったし、気に入っていなかった。ただレコード会社としてはこのアルバムを絶対に売りたいという意向があった。名のあるクリエイティブディレクターやフォトグラファーがついてくれてあの世界観になった。結局、アルバムはヒットして多くのファンの記憶に残るヴィジュアルになった。そんなファンの気持ちは大事だ。「ガラスのジェネレーション」で歌っている通り、「君の幻を守りたい」ということだよ。



― 僕は14歳で佐野さんの音楽に出逢って、それまではメインストリームの音楽しか知りませんでした。だから、本当に響いたんです。

佐野:ありがとう。そんな少年が日本のあちこちにいたと思う。でも最初はあまり売れてなかった。ただ当時バンドと全国を回っていたんだけど、これがどこも盛況でびっくりするくらいだった。どこの会場も当時のニューキッズ、男の子も女の子も押し合いへし合い集まり、熱狂的だった。当時リリースした「アンジェリーナ」や「ガラスのジェネレーション」はモダンポップで少しはウケるかなと思っていたけれど、セールス的には冴えなかった。だけど、自分の音楽を求めてくれているキッズがいることを肌で感じ、ライブをやりながら自信を持つことが出来た。音楽があまりにも斬新だったから、当時の一般的な音楽リスナーは、それを受け入れる準備が出来ていなかったんだと思う。でもそれに取って代わるオルタナティブな音楽を探しているキッズたちがいたんだ。彼らが僕の音楽を支持してくれた。

― そこから『SOMEDAY』でセルフプロデュースというかたちを取られますよね。

佐野:そうなんだよ。最初は編曲家に手伝ってもらったりもした。でも僕が作りたい音楽と違っていた。だから自分でやることにした。『SOMEDAY』を作る頃には、すでにThe Heartlandというバンドもあったし、レコードをどうプロデュースしたらいいか、その手法を身につけていた。今までになかった新しいサウンドは誰かに頼るのではなくて、「自分でやるしかない」そういう思いだった。

大瀧詠一は、数少ない信じられる大人のひとりだった




― そこには、大瀧詠一さんの影響が大きかったということですか。

佐野:大きかったと思う。僕の周りに信用できる大人はほとんどいなかったけど、大瀧さんは、数少ない信じられる大人のひとりだった。

― やはり、『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』への参加も大きく影響されたということですね。

佐野:そうだね。他でも語っている通り、ウォール・オブ・サウンドの影響。「SOMEDAY」、「Rock & Roll Night」、「麗しのドンナ・アンナ」がそうだ。

― 『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』に収録された「彼女はデリケート」ではエディ・コクランのような歌い方をされていますよね。

佐野:この曲も大瀧詠一さんプロデュースだね。当時、80年代初期は、どちらかというとクールな歌い方が流行っていた。カーズやサイケデリック・ファーズみたいな、何かやる気がないような唄い方だ。そこで僕もクールに仕上げていたんだけど、大瀧さんに聴かせたら、「もっと気持ちを込めてエディ・コクランだよ、佐野君」と言われた。まぁ、エディ・コクランは僕の得意なエリアだしね。リテイクしたと言うわけ。

― 日本の音楽業界で既存にないもの、これに併せて “故きを温め” という部分もあったと思いますが。

佐野:確かに新しいばかりが価値あると言うわけではないよね。僕の両親はジャズやロックンロール、ラテン音楽が大好きで、家の中でそうしたダンスミュージックがガンガン鳴っていた。二人がダンスしているのを見て僕も楽しかった。特に母親はエルヴィス・プレスリーがすごく好きだった。自慢じゃないけれど、エルヴィスのファーストアルバムが出た1956年の3月に僕は生まれた。そんな風に育ってきたので、学校の音楽は退屈だった。今でも新しい音楽より古い音楽をよく聴いている。最近は50年代のウエストコースト・ジャズをよく聴いている。

― デビュー時、まわりからの評判はどう受け止めていましたか。

佐野:評論家の中には、僕の音楽は欧米のサウンドの模倣だという人もいた。でも僕は「分かってないな」と、心の中で思っていた。模倣ではなく、それをフォーマットにした新しい日本のポップロックを作っていたわけだから。70年代の「はっぴいえんど」に海外バンドの手本があったように、80年代の自分にも手本があった。日本語がビートの上で自然にドライブしてるような曲。何人かがそれをうまくやっていた。日本語のロックなんて… と、心の中でバカにする連中がいたけれど、自分は当時のそうした偏見や差別をぶち壊したかった。

(取材・構成 / 本田隆)


第2回では、当時ティーンネイジャーに大きな影響を及ぼしたリリックについて、そして若き日の元春を突き動かしたロックンロールの衝動、さらには、『元春レイディオ・ショー』についても語ってくれています。
『佐野元春インタビュー ② 僕は物語を書きたかった。ストーリーテリングという手法でね』につづく

アルバム「SOMEDAY」リリース40周年☆特集 Early Days 佐野元春

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2022.06.29
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カタリベ
1968年生まれ
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