岩崎宏美ロングインタビュー

第2回 アイドルからアダルトポップスのディーヴァへ
―― 1980年代の岩崎宏美


1975年のデビュー以来、筒美京平によるディスコ歌謡でヒットを重ね、トップアイドルとなった岩崎宏美――。1978年の14thシングル「シンデレラ・ハネムーン」はその集大成ともいえる楽曲だったが、次作「さよならの挽歌」(1978年)以降は1作ごとに曲調が変わり、岩崎の新たな魅力が引き出されていく。第2回では20代を迎えた岩崎がアダルトポップスのシンガーへと成長していく過程と、そこでメインコンポーザーの筒美が果たした役割を本人の証言で振り返る。
第1回→「京平ディスコ」の体現者としてヒットを連発 ―― 1970年代の岩崎宏美

――「さよならの挽歌」の発売直後に20歳を迎えた宏美さんは、初期のリズミカルなディスコサウンドから、フォーク調の「春おぼろ」(1979年)、AOR歌謡ともいえる「女優」(1980年)、フレンチポップス風の「真珠のピリオド」(1983年)など、多彩なタイプの楽曲を歌うシンガーへとシフトしていきます。ご本人はその変化をどう感じていましたか?

岩崎
作品の方向性や作家の先生のキャスティングについては、当時ディレクターだった飯田(久彦)さんがお決めになっていたことなので、私はいただいた曲を大事に歌うだけでしたけれども、今振り返ると、ずいぶん大人の歌を歌っていたんだなぁと思いますね。実はデビュー曲「二重唱(デュエット)」のレコーディングの時、「くちづけするのなら 素早く盗んで」というフレーズが恥ずかしくて、ちょっと誤魔化して歌っていたんです。まだ16歳でしたし(笑)。そうしたら初代ディレクターの笹井(一臣)さんが「そうやって歌う方がよっぽど恥ずかしいぞ」とおっしゃって。それ以来、歌詞の意味はあえて深く考えず、リズムに乗り遅れないように歌う習慣がついたんです。「女優」の時は21歳でしたが、詞の世界観はあまり考えずに歌っていたと思いますよ。

―― リアルタイムで聴いていましたが、とてもそうは見えませんでした。恐るべし、岩崎宏美です(笑)。1980年代の幕開けを飾った「スローな愛がいいわ」はその時期の筒美先生らしい、多彩なメロディと複雑な構成が特徴的なナンバーでした。

岩崎
あの曲はかなりのテクニックがないと歌えませんから、私には手ごわくて。歌番組で緊張することはほとんどありませんでしたが、「スローな愛がいいわ」の時は毎回大変な思いで歌っていました。

―― そうだったんですね。難なく歌っていたように見えましたので、それも意外なお話です。その「スローな愛がいいわ」や「女優」と同じ年の夏、宏美さんは筒美先生の曲だけで構成されたアルバム『WISH』(1980年)をリリースされています。

岩崎
私にとって初の海外録音盤で、筒美先生や作詞の橋本淳先生と一緒に10日間ほどロサンゼルスに滞在しました。ちょうど現地にいる間に筒美先生が40歳の誕生日を迎えられたので、ケーキを用意して、みんなでお祝いしたんですよね。その中の1曲「Wishes」は先生のピアノと私の歌だけで同時録音した想い出の曲です。

―― 同時録音! いわゆる一発録りですね。

岩崎
きっと緊張していたんでしょうね。ファーストテイクで、橋本先生が「とても素敵だけれど、賛美歌を聴いているようで、こちらも姿勢を正さなくてはいけないような気になる。みんなで軽くワインでも飲んで、もうワンテイク録りませんか?」と。歌っている時にお酒を飲むのは初めての経験でしたが、軽く1杯いただいたら、酔って心臓がバクバクしちゃって(笑)。でもリラックスした雰囲気の中でレコーディングできたと思います。そういえば今年の5月に『人生、歌がある』(BS朝日)という番組で橋本淳さんの特集があった時、久しぶりに橋本先生にお会いしたんです。「もしかして『WISH』のレコーディング以来でしょうか」と申し上げたら「そうだね」と。41年ぶりの再会でした。

―― 同じ業界にいてもそういうことがあるんですね。今回のアルバム『筒美京平シングルズ&フェイバリッツ』のジャケットに使用されているのは、『WISH』の時に撮影された写真でしょうか。

岩崎
そうなんです。カメラマンの武藤義さんが撮ってくださったのですが、ベアトップ姿というのは私にしては珍しいですね。しっかりワイングラスも映っています(笑)。『WISH』の歌詞カードに掲載された写真の別カットですが、ずっと表に出ていなかったもので、こういうツーショットがあったことを私も初めて知りました。

―― 素敵なジャケットですよね。その『WISH』から3年後、1983年には昨今のシティポップブームで人気が再燃しているアルバム『私・的・空・間』をリリース。こちらは10曲中7曲が筒美作品で、3曲はブレイク前の玉置浩二さんが手がけています。

岩崎
今回の企画ではこのアルバムから「生きがい」をセレクトしました。大人っぽい歌で、当時からお気に入りでしたが、あの頃よりも今の方が歌のよさを把握できているような気がします。先ほどもお話しした通り、昔の私は頭の中に出てくるテロップの歌詞を歌うような感じだったんですね。でも今は齢を重ねた分、自分の想像が膨らむ歌い方をすることができる。だから今も歌うことが楽しいのかな。

―― 1984年に発売された「未完の肖像」は10周年記念シングルとして、久々に作詞:阿久悠、作曲:筒美京平のコンビが復活しました。宏美さんにしか歌えない難易度の高い楽曲です。

岩崎
あの歌は本当に難しい(苦笑)。『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)で1回くらいは歌っていると思いますが、生で歌ったことはほとんどないんじゃないかな。EVEのコーラスもすごかったですよね。

―― 今回の『筒美京平シングルズ&フェイバリッツ』のブックレットの中で、ビクターの制作部長だった小澤栄三さんは「京平さんは何でも歌いこなす岩崎さんを、自分がやりたいことの実験台にしているような部分もあった」とおっしゃっています。「スローな愛がいいわ」や「未完の肖像」はそういうタイプの楽曲だったのかもしれませんね。

岩崎
そういう曲は是非、昔の音源や映像で楽しんでください。おそらく一番よく歌えていますから(笑)。

―― 宏美さんのキャリアの節目ごとに作品を提供してきた筒美先生は25周年のタイミングでも「許さない」(1999年)を書き下ろしています。

岩崎
いい歌ですよねぇ。この時は久しぶりに書いてくださったのですが、曲をいただいた時、「筒美先生はやっぱり私の一番よく響く音色を使って曲を作ってくださる方だ」と思いました。私の長男がお気に入りで、私自身も大好きな歌ですが、ちゃんと練習しないと歌いこなせない歌でもあります。

―― 個別の作品の話はここまでにして、ここからは1980年代の音楽シーンについて伺います。職業作家による歌謡曲が主流だった1970年代と違って、1980年代はシンガーソングライターやバンドが台頭して、歌謡曲系の作家や歌手が苦戦を強いられるようになっていきます。宏美さん自身は風向きの変化を感じることはありましたか。

岩崎
私の場合、1984年にそれまで所属していたプロダクションから独立しましたが、幸いなことにその後もレコードやCDをコンスタントに出せていたんですよね。たとえベストテンに入らなくても「これが売れなかったら明日からやっていけなくなる」みたいな思いをすることがないまま、ここまで来てしまって。だから「売れる」「売れない」を意識したことはほとんどないんです。それがいいことなのかどうかは分かりませんけれど…。

―― 確かに独立後もリリースのペースは落ちませんでした。

岩崎
今いるテイチクに移ってからも毎年のようにシングルやアルバムを出してきましたから、本当に恵まれていると思います。

―― 1970年代に活躍した職業作家が徐々にヒットから遠ざかるなか、筒美先生は1980年代以降もヒットメーカーとして君臨し続けました。

岩崎
そうですよね。幅広くお書きになって。あの頃、レコード屋さんに卸す輸入盤を渋谷公会堂に売りに来る方がいたのですが、野口五郎さんは筒美先生が買われる予定のレコードも「どうせ分からないだろうから」と言って買っていたんですって(笑)。筒美先生は海外で流行っている音楽をいち早く聴いて、曲づくりの参考にしていたそうですから、それもヒットを続けられた理由の1つかもしれませんね。

―― 筒美先生と洋楽の話をされたことはありますか。注目しているアーティストとか。

岩崎
先生は当たり前のようにレコーディングに来てくださったので、合間にそういう話をすることはよくありました。ある時、私がエモーションズの「ベスト・オブ・マイ・ラブ」を好きだという話をしましたら、先生は「機会があったら彼女たちのライブに行ってみてね。素晴らしいから」と。それを聞いた時は「日頃からいろいろと勉強されているんだな」と敬服しました。あとはバーブラ・ストライサンドとドナ・サマーがデュエットした「ノー・モア・ティアーズ」を引き合いに出されて「宏美さんは正統派の歌い方だから、バーブラのパート。それともう1人、全く畑の違う人とあの歌をデュエットしたらすごく素敵だと思う」と言ってくださったことも記憶に残っています。

―― 言葉の端々から宏美さんへの愛情が窺えます。だからこそあまたの楽曲を提供されたのでしょうね。

(取材・構成/濱口英樹)

<次回予告>
10月23日(土)掲載予定
最終回 名匠が愛した稀代の歌姫 ―― 令和も走り続ける岩崎宏美

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