岩崎宏美ロングインタビュー

第1回 「京平ディスコ」の体現者としてヒットを連発
― 1970年代の岩崎宏美


オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)を経て、岩崎宏美が芸能界入りしたのは1975年4月25日のこと。デビュー曲「二重唱(デュエット)」は、作詞:阿久悠、作曲:筒美京平のコンビによる作品だった。以後、数々のヒットを放ち、日本を代表するポップスシンガーとなった岩崎は昨年45周年を迎えたが、その年の10月に恩師・筒美の訃報が届く。それから1年、10月20日に筒美から提供された楽曲を2枚のCDに収めた作品集をリリースした岩崎に稀代のヒットメーカーとの交流や、残された作品に対する思いを訊いた。3回にわたるロングインタビューの第1回は、筒美と出会った1970年代に関するエピソードをお届けする。

―― このたび発売された『筒美京平シングルズ&フェイバリッツ』は、筒美先生からあまたの作品を提供された宏美さんだからこそ成立した企画だと思います。お亡くなりになって1年経ちますが、筒美京平という作曲家は宏美さんにとってどういう存在ですか。

岩崎
中学の時から歌を習っていた松田トシ先生、多くの作詞をしてくださった阿久悠先生とともに、歌手・岩崎宏美を作ってくださった恩人です。昨年、訃報に接した時は頭の中が真っ白になって、涙が溢れて止まりませんでした。外出先だったのですが、ショックで何も手につかなかったですね。

―― その恩人との出会いからお聞かせいただきたいのですが、歌手になる前から筒美京平という名前はご存じでしたか。

岩崎
ええ、もちろん。デビューする前から「この曲、素敵だな」と思って歌本を見ると、決まって「作曲:筒美京平」とクレジットされていて。私は南沙織さん、小林麻美さん、郷ひろみさんの歌が好きだったんですけれども、当時はほとんど筒美先生がお書きになっていたんですよね。

―― ではデビュー曲「二重唱(デュエット)」の作曲が筒美先生と知った時は…。

岩崎
嬉しかったですよ~。私は阿久先生の詞も大好きでしたから、お二人の作品でデビューできると知らされた時は「私ってなんて運が強いのかしら」と思いましたね。筒美先生は普段メディアに出ていらっしゃらなかったので、「どんな方なんだろう」と思っていたのですが、いざお会いしたら、ダブルのジャケットを着こなしたお洒落な方で。物腰がとても柔らくて、私に対しても敬語でした。

―― 初対面のシチュエーションは憶えていらっしゃいますか。

岩崎
デビュー曲のキー合わせだったと思いますが、すごく丁寧に教えてくださいました。先生は譜面のすべてのパートをピアノでお弾きになるので、最初はその演奏に圧倒されて、どこから歌えばいいのか分からなかったことも懐かしい思い出です。

―― 筒美先生はレコーディングにも立ち会われたのでしょうか。

岩崎
ええ。デビュー曲は西早稲田のアバコスタジオでレコーディングをしたのですが、筒美先生も阿久先生もいらっしゃいました。私は朝からスタジオ入りして、ドラムの音決めのところから、リズム、ホーン、ストリングス…と、各セクションが音を入れていく様子をずっと見ていましたので、今でも「二重唱(デュエット)」のトラックを聴くと、その時の楽器の音が個別に甦るんです。自分にとって初めてのレコーディングでしたし、それくらい生の演奏の迫力に感動したからでしょうね。

―― 歌入れの時、筒美先生は何かおっしゃいましたか。

岩崎
「これから歌手になるにあたって、あなたはいろんな人から高音を褒められるだろうけれど、あなたの本当の良さは中低音だから、それを忘れないでね」と言われたことは今でも心に留めています。「中低音」という言葉はその時初めて知りましたが(笑)、私は今、自分の声の中低音が好きなんですね。それは先生のあの時の言葉が背中を押してくれているからだと思います。そしてもう1つ、「リズム感がちょっと甘いから、リズミカルな曲を聴いて勉強しなさい」ともおっしゃいました。私はマイケル・ジャクソンが好きで、小さい頃からよく聴いていたので少しショックだったのですが、プロの厳しさを先生から教えられた気がします。

―― デビュー曲のアレンジは萩田光雄さんでしたが、セカンドシングル「ロマンス」(1975年)以降は「想い出の樹の下で」(1977年)まで、7作連続でシングルA面の作曲・編曲を筒美先生が担当されています。

岩崎
筒美先生のアレンジは洋楽みたいで、本当にお洒落でカッコよくて。当時、歌番組に出演すると、リハーサルから本番までの間、バンドの方たちがいつも私の曲を練習していたんです。きっとそれだけ高度だったのでしょうね。そういう曲をいただいていることが誇らしくもありました。

―― 宏美さんに提供された筒美作品は名曲揃い。B面曲も、アルバム曲も、シングルA面でもいけるんじゃないかと思えるほど完成度の高い作品ばかりです。

岩崎
新曲をいただくたびに「またこんなに素敵な歌をもらっちゃった!」って感動していましたね。「ロマンス」の時はB面の「私たち」とどちらをA面にするかで関係者の意見が分かれたこともありました。筒美先生は「ロマンス」の歌詞は16歳の少女が歌うには色っぽすぎるんじゃないかとおっしゃって「私たち」を推されたのですが、最終的には多数決で「ロマンス」がA面になったんです。余談ですが、「ロマンス」の最後のフレーズ「席を立たないで~」は本当は違うメロディだったんです。それを「こんな感じだったかな」と思って歌ったら、筒美先生が「それでもいいですよ」と。そのお言葉で「これじゃなかったんだ」って気づきました(笑)。

―― 2011年にBSプレミアムで放送された『希代のヒットメーカー・作曲家 筒美京平』の中で、筒美先生は「2曲目に「ロマンス」ではなく「私たち」が選ばれていたら、「思秋期」や「聖母たちのララバイ」のような路線をもっと早く歌うようになっていたと思う。「ロマンス」がヒットしたばかりに、その後しばらくポップな路線を続けることになり、岩崎さんの実力を生かすことが先延ばしになってしまった」というようなことをおっしゃっていました。

岩崎
番組を観た時は「そこまで考えてくださっていたのだ」と胸が熱くなりました。今の岩崎宏美があるのは多くの作品を書いてくださった筒美先生と阿久先生のおかげ。お二人には感謝の言葉しかありません。

―― お二人とも歌手・岩崎宏美の成長を第一に考えていたのですね。阿久先生の歌詞が宏美さんの年齢に応じて少しずつ大人っぽくなっていったように、筒美先生の曲も少しずつ高度になってきたなと感じることはありましたか。

岩崎
当時の私はしょっちゅうレコーディングをしていて目の前の曲を歌うことに必死でしたから、そういうことを考える余裕はなかったかなぁ。ただ6枚目のシングルの「霧のめぐり逢い」(1976年)の時は上手く歌えなくて泣きました。それまでは先生から歌い方を指導されることはほとんどなかったのですけれども、「霧のめぐり逢い」の歌いだしのフレーズに関しては「前の音をすくわずに、頭からポンと入るように歌ってください」と。それがなかなかできず、悔しくて泣いたんです。

―― チャートの1位を獲得した「ロマンス」「センチメンタル」(1975年)をはじめ、出す曲すべてがヒットしましたが、レコーディングをしていて「この曲は売れそうだな」という予感めいたものを感じたことはありますか。

岩崎
それは分からなかった。ただ「ミスター・パズル」(1978年 / アルバム『パンドラの小箱』)や「ザ・マン」(1977年 / アルバム『二十才前・・・』)のような、男言葉が入る歌の時は自分の中で燃えるものがありました。小学5年の時に「男の子になりたい」という詩を書いたことがある岩崎宏美の血が騒いだんでしょう(笑)。

―― 分かる気がします(笑)。その「ミスター・パズル」を収録したアルバム『パンドラの小箱』(1978年)は筒美先生によるディスコ路線の頂点を極めた作品でした。全曲が筒美先生の作曲。編曲も1曲を除き、すべて先生が手がけられています。

岩崎
すべての楽曲に「作曲:筒美京平」とクレジットされているのを見ると「愛されていたんだなぁ」と思いますね。お忙しい先生が私のために時間を割いて、アルバム制作に参加してくださったわけですから。実は最近、お笑いコンビのダイノジさんがYouTubeで70年代の私のディスコソングを猛プッシュしてくださっているんです。「今はCDを買わなくてもApple MusicやSpotifyでいろんな音源を聴けるから、是非あの時代の岩崎宏美のディスコソングを聴いてほしい。そのすごさが分かるから」って。当時はディスコでも洋楽に交じって私の歌がかかっていましたから、そういうカッコいい歌を歌っていたことを若い人にも知っていただけたら嬉しいです。

―― 平成生まれのシンガーソングライター・町あかりさんも、自分の葬式で大好きな「未来」(1976年)を流してもらいたい!と言うほどのヒロリンファンです。若い世代にも当時の楽曲は響くのではないでしょうか。

岩崎
今の若い方たちは、岩崎宏美というと、コロッケさんの物真似や(笑)、「聖母たちのララバイ」(1982年)のイメージが強くて、カッコいいソウルミュージックを歌っていた頃の姿はほとんどご存じないと思うんです。だから、そう言っていただけるのが本当にありがたくて。ちなみに今回の『筒美京平シングルズ&フェイバリッツ』にはダイノジさんが推薦する「媚薬」も入れているんですよ。

―― コロッケさんの名前が出ましたが、一時封印されていた「シンデレラ・ハネムーン」(1978年)を最近は歌われるようになりました。

岩崎
だいぶコロッケ色が薄まりましたから(笑)。最近は高橋真麻さんのカラオケの十八番というイメージの方が強いんじゃないかしら。私の息子たちもあの歌が大好きで「これからも歌っていった方がいいよ」なんて生意気なことを言っています(笑)。

(取材・構成/濱口英樹)

<次回予告>
10月22日(金)掲載予定
第2回 アイドルからアダルトポップスのディーヴァへ ―― 1980年代の岩崎宏美

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