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宮崎美子 インタビュー

第2回 ミノルタのCMで大ブレイク。
疾風怒濤のデビュー当時を振り返る。


1958年、熊本県で生まれた宮崎美子は熊本大学在学中に、週刊朝日の「篠山紀信があなたを撮ります・キャンパスの春」に応募。1980年1月25日号の表紙に掲載されたことがきっかけでミノルタ(現・コニカミノルタ)のCMに出演し、一躍時の人となる。同年10月、ポーラテレビ小説『元気です!』(TBS系)の主演で、女優としてデビュー。翌1981年10月には八神純子から提供された「NO RETURN」で歌手デビューも果たす。第2回では普通の女子大生が全国区の人気者となるまでの過程を本人の証言で振り返る。
→ 第1回:34年ぶりの新曲「ビオラ」に込めた想いとは?

―― まずは芸能界入りのきっかけとなった週刊朝日に関するお話からお聞かせください。

宮崎
大学3年の時に新聞広告を見て、「一生に一度、プロの方に写真を撮ってもらえたら素敵だろうな」って思ったんですね。就職を控えた時期だったので、就職活動のきっかけになったらいいなという下心もありました(笑)。応募したら、当時は有楽町にあった朝日新聞に呼ばれて、確か5人ずつで面接を受けたんですけど、その中にすごく綺麗な方がいらっしゃって。あとで分かったことですが、その人は眞野あずささんだったんです。

―― そうだったんですか! そんな激戦を勝ち抜いて採用されたわけですね。

宮崎
撮影は六本木で、今テレビ朝日があるあたりでしたね。でも10分くらいで終わってしまって「え~、こんな感じなんだ」って。それが40年間この仕事をやることに繋がるなんて、当時は全く思わなかったです。

―― それから程なくしてミノルタの一眼レフカメラのCMにも出演されて。

宮崎
タイミングがよかったんです。あれは2月だったかな? 大学の試験が終わって解放感でいっぱいの日に電話がかかってきて「サイパンで撮影します」と。春休みのバイトとしては最高じゃないですか(笑)。しかも「採用するかどうかは撮ってから決めます」というお話だったので、軽い気持ちでお引き受けしたんです。

―― 宮崎さん以外にも候補者がいたわけですね。

宮崎
私含めて3人でサイパンに行きました。同世代の女の子たちと一緒だったから楽しかったですよ。現地ではジュリーの音楽を流しながら撮影をした記憶があります。

―― それが日本中を席巻するCMになるとは…。

宮崎
思いもしませんでした(笑)。今観ると、素人がその時しかできないことを上手く切り取ってくださっているなと思いますが、当時はなんで皆さんが「いい」とおっしゃるのか、正直分からなくて。今となっては大きな宝物ですけどね。

―― その数ヶ月後にはTBS系の昼の帯ドラマ『元気です!』(1980年10月~1981年3月)のヒロインにも抜擢されて。

宮崎
お話をいただいた時は迷いました。それはそうですよね。全くの素人で、しかも主演。当時の私はどこのプロダクションにも所属していないフリーの身で、芸能界のことをよく分かっていなかったからやれたのかもしれません。

―― そもそも芸能界への興味はあったのでしょうか。

宮崎
熊本生まれの私にとって、芸能界は東京のごく限られた特別なところ。実は “花の中3トリオ” と同じ学年なんですけど、彼女たちの活躍は別の世界の出来事として観ていました。でも子供の頃から声を出して本を読むことは好きで、就職とは別に朗読のボランティアをやりたいとは思っていたんです。ドラマをやってみようと思ったのは、それに近いことができるという興味はあったかもしれません。

―― 芸能事務所に所属したのはいつ頃ですか?

宮崎
『元気です!』を撮り終えた後ですね。もともとドラマが終わったら熊本に帰る予定だったんですが、あまりにも何もできなくて、もどかしさを感じていたら「じゃあ、もう少しやってみたら」と言ってくださる方がいて。それで吉永小百合さんや大竹しのぶさんがいらっしゃった事務所に入ったんです。まだ学生だったんですけど、そこで初めてそれまでのバイトから仕事という感覚に切り替わったと思います。もちろん、何もできないのは同じですから、目の前のことをやるのに必死でしたけどね。

―― その後は『2年B組仙八先生』(TBS系 / 1981年4月~9月)や『クイズダービー』(TBS系 / 1981年10月~1983年9月)などにも出演されて。学業との両立が大変だったのではないですか。

宮崎
東京と熊本を往復しながら卒業しましたけれども、『クイズダービー』の司会だった大橋巨泉さんからは「やめちゃえよ」って、よく言われていましたね。「俺は早稲田を中退したけど、その方が拍が付くんだ」って(笑)。

―― 巨泉さんらしい(笑)。その『クイズダービー』にレギュラー出演を始めた頃に、歌手としてもデビューされます。

宮崎
事務所の社長が私の表現の幅を広げさせようと思って、谷田さんに相談したそうです。

―― 谷田さんは吉永さんや大竹さんのディレクターも務めていたので、事務所との繋がりがあったんですね。

宮崎
ええ。それで歌手としてもデビューすることになって。

―― デビュー曲は八神純子さんに提供された「NO RETURN」(作詞:八神純子・阿里そのみ、作曲:八神純子、編曲:船山基紀)。1981年10月の発売でした。

デビューシングル「NO RETURN」
宮崎
谷田さんは八神さんのような高い声で私に歌わせようと思われたみたいで。「NO RETURN」はキーが高くて大変でした(笑)。

―― 私は『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)で歌う宮崎さんをリアルタイムで拝見しました。その日は八神さんも出演していて「NO RETURN」の伴奏もされていましたよね。

宮崎
そうそう! 今振り返ると生放送で歌うってすごいことですよね。でも面白かったなぁ。あの番組って、出演者がうしろの席に控えているじゃないですか。その日はどんな曲でも手拍子をするように指示を出すフロアディレクターがいたんですけど、私が歌っている時は「この曲で手拍子はどうなの?」という表情の歌い手さんがいて(笑)。そんな風景も懐かしい想い出です。実はテレビで歌を歌ったのはこの時と、「今夜はふたり」(1982年 / 作詞:宮崎美子、作曲:田中弥生、編曲:新川博)という曲を歌った『桜中学大音楽会』(TBS系 / 1983年4月)の2回だけなんですよね。

―― そうなんですか!? ということは新曲「ビオラ」で歌番組に出演したら、38年ぶりのテレビ歌唱ということになりますね。

宮崎
せっかく衣装も作ったので、そうなったらいいですよね。すっごく緊張すると思いますけど(笑)。
(取材・構成/濱口英樹)
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