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浅香唯 インタビュー
第2回宮崎の少女が浅香唯になるまで
過酷な撮影が続いた『スケバン刑事』を振り返って
浅香唯インタビュー第2回は、デビューに至るまでの揺れ動く心情や、『スケバン刑事』の撮影を振り返っての感動エピソードなど、内容盛りだくさんでお送りします。
第1回はこちら>>第1回「シンガー・浅香唯が今も歌いつづける理由」
― デビュー前は芸能界に全く興味がなかったという話を聞いたことがあるのですが。
- 唯
- 興味がないというよりも、あんまりよく分からなかったですね。当時、(出身の)宮崎では民放が2局しかなくて、唯一見ていた歌番組が『ザ・ベストテン』だけなんですよ。ベストテンに出てくる人が芸能界のすべてみたいなところがあったので(笑)憧れるというレベルではないんですよ。なんだろう? 宇宙人… みたいな。そのくらい遠い存在だったんです。だから自分がアイドルになるとか、歌手になるとか、1ミリも考えられる環境ではなかったです。
― でも、オーディションはご自身から?
- 唯
- そうです(笑)。商品が欲しくて。「浅香唯賞」は真っ赤なステレオなんです。それだけが欲しくて(笑)。オーディション会場にあるんですよ。そのステレオが。だから「欲しいー! 素敵! このステレオだけが欲しくて来ました」みたいな(笑)。
― そこで、見事受賞されて、浅香唯という名前になられて、デビューに向けてどんどん話が進んでいきますよね。それでも他人事みたいな感覚はありましたか?
- 唯
- 私が中学校3年生の時に、親族会議で今後の私について話し合ったんですよ。そこで全員一致で、大反対だと。浅香唯になるのも大反対だし、芸能界に入るのもとんでもないし、東京にひとりでいくなんて話にならない。全員で反対だってことで、その会は終わりました。その時までは自分のことを自分で深くは考えていなかったんですけど、その日の夜にいろいろ考えたんです。大人が私の事であんなに必死で、大反対して… でも私の人生を大人が決めているんだ… 私の気持ちをだれも聞いてくれなかった… そんな風に思ったら、無性に反発したくなったというか、逆にやってみたくなっちゃって(笑)。
― 十代の感情ですよね。
- 唯
- ですね。だから次の日母親に、「私の人生をみんなで勝手に決めてるみたいだけど、私、東京に行きたい。アイドルになろうかな…」って言ったら、冗談じゃない! って大反対でした。そこから親子の縁を切る切らないってところまで行きましたね。
― そんなにだったんですね。浅香さんは宮崎県のご出身じゃないですか。そうすると東京に行くだけでも大変っていう感覚ですよね。それに加え、自分たちには分からない芸能界。何が起こるか分からないし、一般的に成功する人が1%にも満たない世界だし。
- 唯
- そうですよね。当時の私はそこまで考えていなかったですが、親は心配でそこまで考えていたと思いますし、両親ふたりとも公務員をやっていたので、一緒に東京へ行くという話にもならなかった。ただ、なんとか諦めさせようと思ってはいたようです。何故あそこまでムキになっていたのかは分からないですけど、その時私は、「中学校を卒業したら親子の縁を切って出ていきますので」って言ったんです。
小さな希望の光を見ていたい… 卒業式の日に東京へ
― そこまで言ったんですね。
- 唯
- そこまで言って、「分かった。親子の縁を切りましょう」っていうところまでいって。でも母は私の性格をよく分かっていて、あの子があそこまで言ったら絶対に折れないって。父親は、なんとしても力ずくでも行かせるな。それが親の努めだ。行かせたら離婚だぞって、夫婦の間では言っていたらしいです。ところが私は、売れる売れないとか考えず、アイドルがどんなものなのかも考えず、ただただ新しい世界を見てみたい。私に託された小さな希望の光を見ていたい。そういう気持ちだけで東京に向かっていきました。中学校の卒業式の日に東京へ出ていきました。
― ドラマチックですね。
- 唯
- そうですね。結局、母に見送ってはもらえませんでした…。
― ご両親が納得されて出ていったわけではないんですね。
- 唯
- なんで見送ってくれなかったのかというのを後日談で聞いた時に母親は「力ずくで行かないで!」っていう自信があったって。
― 羽交い絞めにしちゃうぐらい?
- 唯
- 行かせない自信があったから、家から一歩も出なかったんですよ。でも父親は違ったんです。その時私は、どうやって空港まで行くのかが分からなくて、電車もなかったんですよ。
―ネットなんかない時代ですよね。
- 唯
- もちろんないです。で、友達に聞いたら、バスを乗り継げば行けるんじゃないかって(笑)。だから、バスで行ってみようかな… とかいろいろ考えていたら父親が、「空港まで送ってやる…」って。
― すごくいい話ですね。娘の意志に折れたんですね。
- 唯
- 折れたというか、親として、どうしようもなかったんだろうな… って思って。今考えると、なんて親不孝なんだって思ってしまいますけど、どうしても行きたかったんだろうな。怖いもの知らずの15歳って一番怖いんだなって(笑)。
― 自分の中で湧き上がるものがあったんでしょうね。
- 唯
- 自分でも、なぜあそこまでムキになったのか分からないですが(笑)。
― その後大成功するわけですよね。ご両親はいつ頃から理解してくれましたか?
- 唯
- 私が東京に出て行って、事務所の部長さんのお宅に居候みたいなかたちで住まわせていただいたんですが、私の両親は毎日電話をして「ご迷惑をおかけしていませんか?」とか「娘の様子はどうですか?」とか、聞いていたみたいで、ただ、電話をしてきたことは娘に絶対に言わないでくださいって言っていたみたいで。私も東京に着いた日からホームシックなんですよ。急に淋しくなったりして、明日には帰りたい、明日には帰りたい… が毎日続いて。ただ、親子の縁を切るって言って出てきたので帰るに帰れない。もちろん親に連絡もできなかったんですよ。
私1年ぐらい? 親の声を聞かずに過ごしました。向こうもそう(縁を切る)言っている手前もあるので、連絡をしてきていることさえも言わないでくださいという状態でした。だから私は心のどこかで見放されたというか、見捨てられたのかなぁ… って、あんなにワガママを言って出てきたんだから嫌われて当然だよな… って思っていました。
『スケバン刑事』をやる前に宮崎の地元のお祭りに呼んでもらったことがあるんです。その時にうちの親は来てくれました。でもそんなに話すことはなく、まだ嫌われているんだな… って思うしかなくって。ただ、東京に行かなきゃならない時に母親が「頑張ってきなさいね」って言ってくれて。それが、初めて見送ってもらえたというか…。
― 認めてくれたってことですよね。
- 唯
- 認めたのかどうか… 後で母親が言うには、それが精いっぱいだったらしくて。だからお互いにずっと意地を張っていたところもあるし。それに、その時私は成功しているわけではないんですよ。何曲かシングルは出しているけど、特にヒットチャートに乗るわけでもなく… だから、そのうち「これで満足しました」って帰ってくると思って、その時に帰る場所を作ってあげなきゃって思っていたみたいで。
― 親心ですね…
- 唯
- はい。だから頑張ってきなさいね。帰ってきていいんだよ。って言ったつもりだったみたいです。
私はその時に初めて聞いた「頑張ってきなさいね」だったので、そこからは、連絡しないで形になるまで頑張ってみよう… っていうつもりでずっとやっていました。
その後『スケバン刑事』をやって、浅香唯っていうものをみんなに知ってもらうようになり、忙しくなってからは、帰りたくても帰れないし、両親に会いたくても会えないし(笑)。でも、結局はずっと応援していてくれて、「頑張ってるね」「よかったね」って声をかけてもらった時に初めて認めてもらったというか、打ち解けられたというか、お互い初めて素直になれたのかな。
ザ・ベストテンのミラーゲート、どうしてもあそこを通りたい!
― そうやってだんだん多忙を極めていきますよね。スケバン刑事の時にシングル曲「STAR」がヒットしたんですよね。その頃どんどん忙しくなっていった自分を今客観視するとどうですか?
- 唯
- もっといろいろ観察しておけばよかった… って思いますよ。なんか本当に流されているところがたくさんあって、あれだけ一生懸命見ていたテレビ番組『ザ・ベストテン』でスポットライトに出れるってなった時、あのベストテンに! みたいな! 私が宮崎で芸能界のすべてなので(笑)。
ただ、スポットライトで出させてもらった時に、あのミラーの回転扉からの出演ではなかったんです。私、上からブランコみたいのに乗っての登場だったんです。「スポットライトだから、あのミラーのゲートは通れないのか」って…。「いつかあそこを通りたいな」っていうのを、ものすごく強く感じました。その後、ミラーゲートを通る時は超感動しましたけど、あそこにたどり着くまでの一歩一歩をもっと大事にしておけばよかったって…。
ベストテンにしても、他の番組にしても、『スケバン刑事』にしても、忙しすぎて流れ作業になっていたみたいなところで、振り返ることもできないまま駆け抜けていった感じなので、もっとひとつひとつ落ち着いて感じたかったなっていうのはありますね。
― 体力的にも辛かったですよね?
- 唯
- 若かったから乗り越えられたというのもありますが、寝る時間がないっていう、今では考えられない恐ろしいスケジュールが(笑)。それが当たり前だったんですよ。みんなそうだったんで、それが不思議ではなかったんです。
スケバン刑事の台本も神がかったように覚えるんです。寝る時間もなければ覚える時間もない。だから、移動している車の中でバーッて覚える。台本の中には、忍者が使っている専門用語もたくさん出てくるんですよ。どうやって覚えたのか不思議なぐらい(笑)。
― 意味を覚えないと台詞に反映しないですよね?
- 唯
- 本当はね。あの頃の私は、頭の中にノートがあって、そこに記される感じ… っていうのかな。それを台詞として出すみたいな。台詞に感情を乗せている時間がないというか、それでも、物語の中で、対立をするときの切なさだったり、哀しみだったりという感情はあるんですけど、そうではないシーンは、頭の中のノートに文字が印刷されて、「ハイ、本番いきます!」みたいな。
― 本番になると、その文字が見えるわけですよね。
- 唯
- そうそう。そんな撮影をしていたんです。
ガムシャラに十代の女の子たちが頑張る姿、それが『スケバン刑事PARTⅢ』
― アクションもすごかったですよね。
- 唯
- 斉藤由貴さんや南野陽子さんは、カッコいい “スケバン刑事” をやられていて、動きもスマートで、激しいアクションは吹き替えの人がやられていましたが、私たちのスケバン刑事はそこを差別化したいと。PARTⅠ、PARTⅡと違う部分は、できなくてもガムシャラにやるキャラクターでいてほしいという演出の意図がありました。だからアクションは基本自分たちでやるんです。で、これは危険すぎるな… ってものだけ、スタントマンの方にお願いしていました。だから、スタントマンの方は撮影に参加する参加しないは別としてずっといるんですよ。私の恰好をしたスタントマンの方が必ずいて。
監督に「唯、これ出来るか?」って言われた時、口が裂けても「出来ない」って言えなかったので、「はい。できます!」って言ったら「よし!」ってこんな監督とのやり取りが、毎回ありました。ただ、「よし!」って言った後に「ダメだ。スタントマンで行こう」っていうのもありました。でもほぼほぼ自分でやっていましたね。
― すごい! やはり、大西結花さん、中村由真さんとの風間三姉妹のスケバン刑事が一番印象に残っている人多いですもんね。
- 唯
- スマートさ、カッコよさではPARTⅠ、PARTⅡに負けるんですが、ガムシャラに十代の女の子たちが頑張る姿というのはPARTⅢで観ていただけたのかな… って思います。
― 熱量がすばらしかったです。
- 唯
- そうですね。擦り傷とか怪我って日常茶飯事で、その度に一番強そうな由真が泣いていましたね(笑)。絶対泣かなそうなキャラですが、実は一番女の子でした。
でも3人ともドラマの撮影が進むにつれ精神的に強くなっていって、何でも来い!っていう強さに変わっていきました。
スタッフさんも私たちもただのドラマを撮るという意識ではやっていなかったし、本当に戦っているんじゃないかと思えるぐらいでした。完全にアナログでデジタルではないので、その時の熱量も映像にそのまま反映されているんだろうなって思います。
ヨーヨーが画面に飛んでくるだけでも何十回とやっているんですよ。次はもっと真ん中に飛ばせるかもしれないって。次はもっと良くなるかもしれない。そう思って妥協しない撮影でした。
― ただのアイドルのドラマではないですよね。
- 唯
- 全然。括りは学園ドラマなんですけど、私たちは全然学園ドラマとは思っていませんでした。
― その時、大西さん、中村さんとは仲が良かったですか?
- 唯
- 良かったですね。辛さをみんなで分け合うみたいな。辛くても3人で寄り添って、「頑張ろうね、頑張ろうね」って言っているだけで、乗り越えられたんですよ。寒いしとか、痛いしとか、そんな時に結花に肩ポンポンって叩かれて「がんばれ!唯!行っといで!」って言われて撮影に臨むだけで頑張っていけたし、結花と由真の力は本当に大きかったですね。
― だからこそ、アクションも厭わずにやれて多くのファンに語り継がれているんですね。
<次回予告:6月25日(金)掲載予定>
第3回は、今も続く風間三姉妹との絆や、“アイドル四天王” と呼ばれていたことについての思い、これからの浅香唯についてなど、たっぷり語ってくれています。お楽しみに!
INFORMATION
▶ タワーレコード新宿店にて浅香唯ライヴ衣装展示&パネル展決定!
期間:6/22(火)〜 7/4(日)
場所:タワーレコード新宿店
詳細はこちら
▶ 浅香唯 「LIGHT A SHINE~月はずっと見ている」
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