『ベストヒットUSA』40周年記念:小林克也インタビュー


『ベストヒットUSA』40周年記念第2回:放送開始当時の心境や音楽事情

(構成・インタビュー:本田隆)

前回は『ベストヒットUSA』前夜というか、70年代の克也さんの貴重なお話が満載でした。第2回は、いよいよ本題。番組開始時期の逸話からスタートです。

放送開始から40年。
小林克也のライフワーク「ベストヒットUSA」

― すみません、スネークマンショーの話が楽しくて… 本題の『ベストヒットUSA』についてお訊きしたいのですが、放送開始当時というのは、ラジオを中心にご活躍で、ご自身のやりたいことは実現できていたという認識でしたか?

克也
そうですよね。でも迷いみたいのもありましたね。

― そんな中でVJの依頼が来た当初は断っていたと聞いたことがあるのですが。

克也
テレビは時間がかかるものだと分かっていて、それまでも日本のアーティスト… かまやつさん(かまやつひろし)だとかアン・ルイスからだとか、「TVに出るとき英語で私の曲を紹介してよ」って言われていて、それで行くんですが、朝入って、始まるのが午後だったりして、「こんなに時間がかかるのか…」って、TVはそういうイメージだったんです。

あの頃、水曜日の『11PM』で愛川さん(愛川欽也)と今野雄二がやっていたんですけど、たとえば番組内で「トーキング・ヘッズというのは面白いんだよね」って映像が流れるんだけど、30秒とか40秒とかすると、愛川さんがしゃべるんですよ。だから、そういう内容になるんじゃないかな… っていうイメージを持っていたんです。

だけど、違っていたんですよ。内容が全然。それでも曲を紹介していく作業で、「これはお楽しみ」みたいなものがないなと思って。紹介するビデオの中にそういうものが入っていたんですよ。そういうものが分からずに、「これすぐに番組が終わるんじゃないか」と思いました。

― 半年で番組が終了するかも… とおっしゃっていたとか。

克也
で、ディレクターも「終わりかなぁ」とか言っていたんですが、結構反応がよかったんですよね。まだ土曜日の夜11時台というのは人気番組がなくて…。でも、『ねるとん(ねるとん紅鯨団)』が変えちゃったんですよ。ねるとんが、あの時間帯をプライムに変えてしまった。で、(ベストヒットUSA)もそれなりの数字を稼いでいたんですよ。レコードの売り上げにも貢献していた。番組で紹介したレコードは次の日3倍ぐらい売れた… とか、そういうのがあって、「これはテレビ朝日としても続けるよ」って社長が言っていたんです。

― それが40年。もう克也さんのライフワークと言ってもいいくらいの番組ですね。

克也
そうですよね。一応80年代の終わりで一旦終わったのですが、『ベストヒットUSA』はブリヂストンが一社提供で居心地が良いところで、自分たちのイメージに合うような番組をやっていたんだけど、この番組内容じゃ続けちゃダメなんじゃないの… ってなって、もっと映画だとか、芸能全体が分かる内容にしましょう。という話も出ました。それで終わっちゃった。だけど、『ベストヒットUSA』で残した僕のイメージが強くて、僕のところに仕事が来るんですよ。地方局とかからも。深夜の2時間の特番をやりたいとか。それで、まだまだ需要があるんだな… ってことで、博報堂の担当だった人に、アメリカみたいにこっち(東京)で番組を作って、地方局に売るっていうのはどうかと提案したんです。それで全国、二十何局ぐらい売れて、地方のテレビ局も景気が悪くなって番組を作らなくなった時期だったし。そんな時「復活しよう。BSでやるべきだ」と言ってくれた人がいて、それで復活したんです。

― それが2003年ですね。

克也
ええ。それからの方が長くなっちゃったんですよね(笑)。

― そうですね! 僕は『ベストヒットUSA』の放送が開始された当時中学1年生でした。洋楽を聴き始めた時にちょうど出会って、先ほど克也さんがおっしゃっていた通り、番組を観た次の日にタワーレコードに行ったりしました。番組では克也さんはあまり主観をはさまないですよね。

克也
はい。

― こういうことがあって、こんな風になって… という事実を伝えて、さぁ聴いてみよう! と言ってくれて、僕ら視聴者に考えさせてくれましたよね。このスタイルが今も変わらないのが長寿番組の秘訣だと僕は思います。

克也
そうだと思います。何回も言ったんだけど、たとえば映画をやったりすると、映画の撮影なんかっていうのは泥まみれになったりするでしょ。役者が泥まみれになっているとき、スタッフが大変なんですよ。朝早くから起きて準備をして。命がかかってるわけですよ。それで打ち上げなんか行ったら、徹底的などんちゃん騒ぎで、映画はすごいな… って思って。そりゃそうだよね。体を張っているわけだから。音楽だってそういうものじゃないですか。自分の生涯がかかっているわけだし、そうすると、こっちが贅沢言うのではなく、相手の良さを見てあげよう… と、そういう見方にだんだん変わっていって、結構、客観的みたいなものが大切だと思えてきました。洋楽っていうのは、日本でも60年代半ばぐらいから音楽評論家なんかが出てきて評論をしたじゃないですか。同時にアメリカなんかでも音楽を語るというのがひとつの文化になって、『ROLLING STONE』誌なんかもできた。そんなとき、公平に見てあげようと思ったんです。

音楽への接し方が大きく変わった80年代、
MTVの開局より4か月早く番組がスタート

克也
番組を始めた時『プロ野球ニュース』の佐々木信也さんを参考にしていたんです。あの人は30秒以上しゃべらないんです。すごい的確な表現をして、心を残してバーン! って行っちゃうんですよ。

― 今日、スタジオの収録現場を拝見させてもらって、その克也さんのスタンスが健在でした。すごく感動しました。克也さんのそういうスタンスが僕らは好きだったし、それが作品に対するリスペクトなんだってすごく思いました。

克也
今は、みんなYouTubeで観たりする時代ですから、昔観た時はこうだったんだよ… って、さらに補強してあげるようなプレゼンの仕方をしてるんですよね。

― だからか、このあいだピックアップされていたビリー・アイリッシュも、リンゴ・スターも同列に並んでいますよね。

克也
そうですね。

― 古いからリスペクトしようではなく、いろいろな音楽がある中で、こういうのもあってこういうのもある。じゃあ聴いてみよう! っていうのが、音楽を聴くきっかけを作ってくれていると思います。そんな伝道師的な役割をずっと続けていらっしゃるというのは素晴らしいと思います。

『ベストヒットUSA』はMTV開局より4か月早く番組がスタートしていますよね。『ベストヒットUSA』が始まってMTVが開局した80年代というのは、リスナーの音楽の接し方が大きく変わってきたと思います。そのあたりを当時はどんな風に感じていましたか?

克也
TVで洋楽を放送するようになって壁がなくなったというのはありますよね。(大物ミュージシャンが)呼べば番組に来てくれるようになったわけですよね。訊けば、おそらく何でも答えてくれる。だからこっちも期待するし、しっかりしなきゃ… という気持ちがあるわけです。ゲストが来て自分たちの音楽を語ってくれる。それで、こんなことがあったんだよ… って言ってくれる。今までは “舶来品” なんてイメージがあったわけですが、距離が縮まって壁がなくなったというのはありますね。

― 70年代は洋楽の敷居が高かったですよね。

克也
おそらくそうだと思います。

― 自分でアクションを起こさなければ触れることのできなかった洋楽を克也さんがブラウン管の中に持ってきてくれるっていうところで、すごくカジュアルになったというか、変わってきました。

MTVも開局していない時、VJって日本にあまりいなかったと思うんです。そんな時、佐々木信也さんの他に参考になさった人はいますか?

克也
当時は構成の人がいろいろ台本を書いてくるわけです。それで、ここは言う必要ないよね、ここは無駄じゃんとか。例えばね、アルバムを出します、長いツアーがあります… っていうのはニュースになるわけですよ。そうすると、僕の解釈は、日本で放送するからアメリカのツアーっていうのは、情報にならないな… っていう判断なんです。アルバムを出した後のツアーをやるというのは5~6秒で言えばいいことだから。もちろん日本に来るとなるとそれは情報だから、そういう自分たちとの関わり合いとか距離感を注意してネタを選んでいましたね。これは固すぎるから柔らかいネタを一発入れようとか。例えばマドンナみたいな人だと、マドンナの功績を言って、ちょっと色っぽい話も挟む。それが30秒の中に納まるようにするんです。そうするとストレートな情報の中に甘いものが入ってカクテルのようになるじゃないですか。そういうことを心掛けていました。

<次回予告: 第3回>
矢沢永吉からミック・ジャガー、ポール・マッカートニーまで、ゲストの錚々たる顔ぶれ!そして80年代から90年代へ克也さんが語る音楽の移り変わり。必読です!

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