『ベストヒットUSA』40周年記念:小林克也インタビュー
『ベストヒットUSA』40周年記念
小林克也インタビュー第1回:『ベストヒットUSA』が生まれるまで
(構成・インタビュー:本田隆)
『ベストヒットUSA』40周年を記念して小林克也さんにインタビュー! 放送開始当時、ラジオ、CM、スネークマンショーと多忙を極めていた克也さんがVJを引き受けるまでの経緯や、逸話、そして、80年代洋楽黄金期のミュージックビデオクリップや、現在のアメリカンチャートについてなど、長きに渡り第一線で活躍する音楽の伝道師ならではの盛りだくさんな内容のロングインタビューになりました。現役VJならではの鋭い視点と深い考察。そして周囲を包み込むような懐の深いお人柄。克也さんはやはり憧れの人でした。
放送開始前、ラジオDJやCMのナレーション、そしてスネークマンショーと多忙を極めた70年代
―この前もZEPP Hanedaのアニバーサリーイベントを観させていただいて、ものすごいパワーでしたね。本当に素晴らしかったです。特に後半にかけての克也さんの歌にも感動しました。あのステージでは過去を振り返るのがお好きではないとおっしゃっていたのがすごく印象に残っていて、最後に「イマジン」のトースティングをされたときに、古い音楽でも未来につながっているんだなと実感できました。
今回は『ベストヒットUSA』の40周年記念ということでRe:minderでも特集を組み、このように克也さんにお話を聞けたらと思った次第です。先ほどの話とは少し矛盾してしまうのですが、放送開始の時なども振り返っていただけたらと思います。あの頃(1981年当時)ってラジオの仕事でお忙しかったと思うのですが。
- 克也
- ラジオだけではなく、CMのナレーションとかでも忙しかったんですよ。
― スネークマンショーはその少し前ですか?
- 克也
- スネークマンショーは1976年からですね。スネークマンの場合はTBSラジオやっていたんだけど、YMOのイベントを武道館で手伝って、「坂本龍一バカヤロー事件」っていうのが起きて翌週に番組がなくなってしまった。だから、その後は、アルバムでリリースしました。
― 『急いで口で吸え』だとか、僕もリアルタイムで買っていました。スネークマンショーは、しゃべりと、シニカルな笑いと、最新の音楽… というところで、今までああいう感覚はどこにもありませんでした。僕は中学生だったのですが、もちろん理解できないネタなどもあったのですが、あれを笑うことが最先端なんだと思って粋がって聴いていました。
- 克也
- もともと実現したのは、僕がラジオで育っているから。いろんなラジオ番組を聴いてみるんだけれど、結局音楽がアメリカのラジオからっていうので、主に聴いていたのがFENでした。だんだん言葉(英語)が分かってくると面白いんですよね。
アメリカのラジオは、ヒット曲を流したりする時はスリルがあるんですよ。日本では、カウントダウンの番組だと、今週は何位だから… ってアーティスト名とか言いますよね。しかし、アメリカのラジオはヒット曲を紹介する時言わないんですよね。その代わりみんなが知っている曲だったら、含むことを言ったり、たとえばウルフマン(ウルフマン・ジャック)なんかは分かりやすいんだけど、みんなに5秒ジョークとか10秒ジョークとか書かせていて、パッとイントロにはめてみたりとか。そういう面白さがだんだん分かってくると、それで曲が生きるわけですよね。
僕はラジオをやりたくて、29歳ぐらいの時からやり始めて、そうすると(日本のラジオは)説明ばかりなんですよ。こんなはずじゃないんだけどなぁ… みたいのがありました。スネークマンショーっていうのは小林克也がやっているという設定ではないんですよね。ウルフマン・ジャックのような設定でした。ウルフマンには2回ぐらい会いました。あの人はちゃんとした英語でやれないから、行きたかったニューヨークの放送局とか入れなかったんです。
― メキシコからですよね。
- 克也
- メキシコから電波を飛ばしてカナダに届いていたんです。それで、トラックの運転手だとか、若者だとか全米で受けて… 海賊放送でスタートしたのに全米のラジオで一番ポピュラーな存在になったわけですよね。彼の口癖は「心の中に劇場を作るんだ」っていうので、聴いた誰もが、誰がしゃべっているんだろう? 黒人なのか白人なのか… って考えるんです。
― 映画『アメリカン・グラフィティ』の中でも「ウルフマンは黒人だから聴いちゃだめ」っていうセリフがありますよね。
- 克也
- そこからスネークマンショーを始めたんですよ。あいつ、誰がやってるんだろう… って。僕はああいう声で、モノマネっぽいけど出して、SEだとか音楽につなげるところを英語でやっていたんだけど、最初は面白さが出ないんですよ。それでちょうど、FM東京で、隣のスタジオでちょくちょく一緒になる伊武(伊武雅刀)っていう男がいて、彼は顔が知られていなかった。(でも)声は知られていた。
ある日彼が芝居っぽいことをやるから来てくれと言われて、当時のFM局は声がいい役者なんかもいっぱい使われていて、役者がしゃべると「当時僕がディランを聴いていた時、なんとかかんとか…」っていうんだけど、そうすると、「いや、この人は絶対聴いていない」って。そういう匂いがするんだけど(笑)、伊武も声がいいから寸劇みたいなことをやって、彼がバーへ入ってくる場面があって、そこでは、身体全部が入っているんですよ。その世界に。「あっ、これは違うな」って思った。その時閃いたのが、彼を連れてくると誰か分からないし、日本語でいろいろなことが出来るというので、彼に来てもらったんです。
― スネークマンショーは伊武さんがいたから実現できたのですね。
- 克也
- そうそう。スネークマンショーは僕の「アメリカのラジオやりたい」ってところからスタートしたんだけど、彼が入ってきてからグレードアップしました。普通のジョーク、小噺みたいのも彼が本気でやるから全然違うんですよ。面白さが。当初、やっていくうちに僕はバレない声を作ってキャラクターをつくって「咲坂です」みたいなことをやっていた。伊武はそのままでガンガンやっていった。で、それが音楽の前にあると楽曲が生きるんです。
パンクなんかの頃は、曲が流れる前のシチュエーションで、たとえば、子どもの部屋から、レコードの音がガンガン聴こえてきて、親が「何聴いてんの!」ってくるわけですよ。時には右翼の街宣車のように「こんなの聴いちゃダメだ! セックス・ピストルズ? 何? セックス?」みたいな振りがあって、そこからガンガンガンガンってパンクの音が入るとすごくカッコいいんですよ。
― パンクがどんな音楽だったかという説明よりも期待が持てますよね。そこで、桑原さん(桑原茂一)さんの役割というの重要ですよね。
- 克也
- 彼は選曲がね。それを商売にしてましたから。ファッションショーの選曲なんかも頼まれてやっていたし。
― 新しかったです。スネークマンショーの中でクラウス・ノミとか、ザ・ロカッツとか知って、その中にシーナ&ロケッツの「レモンティー」とかもあって、新しいものも普遍的なものも一緒に入っていて、克也さんと伊武さんのやりとりを聴いていて、全部が新しい感覚でした。それが革命的でした。
- 克也
- 特にティーンエイジャーにはウケましたよね。あれがカセットで出回っていたし。
<次回予告:第2回>
いよいよ本題!『ベストヒットUSA』放送開始当時の克也さんの心境や音楽事情。どのように番組がスタートしたのか克明に語っていただきました!