井上昌己 インタビュー

第2回 ついにデビュー!そして
“ガールポップ“ムーブメントの先駆者に


井上昌己は1989年5月24日、シングル「メリー・ローランの島」、アルバム『彼女の島』でデビュー。90年代ブームになった「ガールポップ」というジャンルの先駆者としても知られる存在だ。そしてデビュー33年目を迎えた今年2021年、デビューから約10年間所属したトーラスレコード時代に発表したアルバム18タイトル(ベストアルバムを含む)のサブスク解禁と同時に、映像作品4タイトルを一つに集めた『LIVE&CLIP COLLECTION 1990-1996』が発売される。今回このリリースタイミングで、デビューするまでのエピソードや、トーラスレコード時代の制作秘話などを中心にインタビューさせていただいた。
第2回目の今回は、いきなりとんとん拍子でデビューが決まり、大学生活と並行して多忙な日々を送ったデビュー初期のエピソードやムーブメントにもなった「ガールポップ」を中心にお話を伺った。

第1回→ 井上昌己の学生時代〜デビュー前夜

デビュー曲「メリー・ローランの島」
作曲は杉真理

― トーラスレコードのオーディションで優勝し、とんとん拍子にデビューが決まった井上昌己さんですが、すぐにアルバムの制作に入ったわけですね。デビューアルバム「彼女の島」は楽曲をたくさん集め、そこから収録曲を決めたそうですね。

昌己
多くの著名なアーティストや作家の方からも曲を集めて、私のオリジナル曲も4曲くらい提出しました。デモテープのクオリティに惑わされないように、集めた曲をすべて私が弾き語りをして、会議室にスタッフが集まり全部で30曲くらい聴きました。そこから選んだ10曲がファーストアルバムに収録されることになったんです。

― じゃ選ばれなかった曲の中には、著名な方の楽曲もたくさん含まれていたということですよね。

昌己
そんな厳しい条件の中で、私の曲が2曲採用されたのがとても嬉しかったです。当時のデモテープ音源は、2014年に発売されたベストアルバム『Welcome to my home』に収録されていますが、当時の方が今よりも歌が上手いかもしれないです。現在、ボイトレの講師もやらせていただいているので、歌や声に対してのテクニック的なものは上達していると思いますが、当時のほうが何も考えずとも自由自在に歌えていたと思います。みんなには禁句と言っていますが「やっぱり声が若い!(笑)」。

― 井上昌己さんは、全曲作詞、作曲をご自身で手掛けられていますが、デビュー時も全曲ご自分の曲でアルバムを作りたかったんじゃないですか?

昌己
いずれはそうなればいいなと思っていましたが、素晴らしいアーティストの方に書いていただいた曲を歌えるというのも大きな喜びでした。特に杉真理さんに書いていただくのは、かねてからの夢だったのでデビュー曲の「メリー・ローランの島」を書いていただいて、いきなり夢が叶ってしまいました。今でも杉さんには「昌己ちゃんまた曲書かせてよ!」と声をかけていただいているので、是非書いていただきたいです。ファーストアルバム『彼女の島』では、財津和夫さんや来生たかおさんにも曲を提供していただいていますが、皆さん80年代の松田聖子さんに曲を書いてらっしゃるじゃないですか。私も聖子さんの曲が大好きだったのでとても嬉しかったです。

音楽活動と学業の両立は大変?
なんと、授業中にライブ

― ラッキーなデビューを飾り、順調な滑り出しでスタートした井上昌己さんですが、不安や見えない壁にぶつかるような局面はありましたか?

昌己
これも私のマイペースというかB型気質なのかもしれませんが、スタッフの方が一丸となって私を売り出してくださったし、どちらかというと希望にあふれていたんですよ。世の中も景気が良かったしとてもいい時代にデビューさせていただけたと思っています。そんな中、大学に行きながら年に2枚アルバムを制作していたので、今思えばよくやっていたなと思います。

― 学業との並行も結構大変だったんじゃないですか?大学もきちんと卒業していますよね。

昌己
大学は5年かかりましたけど卒業も出来ました。今だから言える話ですけど、なかなか出席できなかった体育の先生が粋な計らいをして下さって、授業中にライブをやってくれたら単位をくれるというので、トーラスのスタッフにキーボードを持ち込んでもらってライブをしたことがあります。他の生徒はライブの感想を書くという体でようやく単位を貰うことが出来ました。

ガールポップの先駆者・井上昌己、
同期は辛島美登里、中山忍、そしてドリカム

― 昌己さんってたくさん面白いエピソードを持っていますね(笑)。昌己さんがデビューをした1989年は辛島美登里さんやドリカム(DREAMS COME TRUE)もデビューしています。皆さん90年代に活躍したアーティストですが、同期組として何か意識したことはありますか?

昌己
東京FM主催のリスナーズグランプリ(ライオンリスナーズグランプリ・FM東京最優秀新人賞)というのがあって、本選会で辛島さんとドリカムさんと中山忍さんと私が選ばれたのでそこでご一緒したことがあります。同期のアーティストはとても個性的で素敵なアーティストが多かったですよ。私は元々作曲家になりたかったのでどこか裏方志向が強いのか、あまりライバル心はなかったような気がします。

― 井上昌己さんと言えば「ガールポップ」の先駆者というイメージをお持ちの方もいらっしゃると思いますが、「ガールポップ」というムーブメントについて振り返って思うことがあれば是非教えてください。

昌己
「GiRLPOP」というのは当時ソニーマガジンさんから発売されていた雑誌のタイトルだったんですが、そこから独り歩きして「ガールポップ」というジャンルになったんです。今振り返ってみれば、当時はアイドルが不在だったということもあり、新しい一つの流れだったように思います。その後「小室系」とか「ビーイング系」という言葉が生まれましたが、同じように「ガールポップ」というカテゴリーも確かに存在していたんですよね。

― 井上昌己さんは「ガールポップ」というイメージが強いですよね。アーティストとして歌が上手いだけではなく「華」がないとそのカテゴリーには入れなかったですからね。

昌己
当時「日清パワーステーション」を中心に行われていた「LIVE “GiRLPOP”」というイベントにはたくさん出演させていただきましたし、イベントでは多くのアーティストの方と共演することができました。パワステは1998年に閉鎖されてしまって、イベントも終了になったのですが、今、また当時のようなイベントをやりたいと思っています。なかなか仕切って下さる方がいないので、自分で仕切ってやってみようかな? と思っているんですよ。

刺激になった日清パワーステーションでの
「LIVE “GiRLPOP”」

― 今でも、昌己さんはいろいろなアーティストとジョイントされていますよね。

昌己
当時、あまり交流がなくても今一緒にライブをやったりすることもありますし、先日ジョイントしたばかりの野田幹子ちゃんはソムリエとして活動を始めるもっと前から仲良かっですし。

― 日清パワーステーションが閉鎖されるまで「LIVE “GiRLPOP”」というイベントは続いたわけですが、当時の想い出はありますか?

昌己
私はかなりの回数出演させていただきましたが、久宝留理子ちゃん、YOUさん、石岡美紀ちゃん、Chica Boomのみなさんと一緒にコラボさせていただきましたね。同世代の人たちとの思い出もありますが、才能のある新人の子たちもたくさん出演していたので、かなり刺激になりました。ジュディマリちゃんたち(JUDY AND MARY)が出て来た時は「このバンドは必ず売れる!」と確信しましたし。

― 90年代の音楽バブルと「ガールポップ」はどこかリンクするところがありますし、とても華やかだった印象がありますね。

(インタビュー・構成/長井英治)


<最終回予告>
次回・最終回では、多くのタイアップソングを世に送り出してきた当時の制作秘話、そして12月8日にリリースされた『Live & Video Collection 1990-1996』についてお話を伺います。
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