井上昌己 インタビュー

第1回 井上昌己のデビュー前夜


井上昌己は1989年5月24日、シングル「メリー・ローランの島」、アルバム『彼女の島』でデビュー。90年代ブームになった「ガールポップ」というジャンルの先駆者としても知られる存在だ。そしてデビュー33年目を迎えた今年2021年、デビューから約10年間所属したトーラスレコード時代に発表したアルバム18タイトル(ベストアルバムを含む)のサブスク解禁と同時に、映像作品4タイトルを一つに集めた『LIVE&CLIP COLLECTION 1990-1996』が発売される。今回このリリースタイミングで、デビューするまでのエピソードや、トーラスレコード時代の制作秘話などを中心にインタビューさせていただいた。
第1回目の今回は中学生時代にすでに才能のつぼみを開花させており、地元ではちょっとした有名人だったという井上昌己の、デビュー前の80年代のエピソードをお届けする。

日本のヒット曲&洋楽、売れていた音楽は何でも聴いた!

― Re:minderは80年代の出来事を中心に掲載しているサイトなのですが、まずは井上昌己さんの80年代のお話をいろいろと聞かせて下さい。昌己さんは昔のエピソードは結構憶えているタイプですか?

井上昌己
(以下、昌己)
デビュー前のことはよく憶えていますが、デビュー後の忙しかった時期の記憶が飛んでいることがあります。同業者の方に「あの時こんなことあったよね?」と言われても「そうだっけ!」なんていうことがしばしばあります(笑)。

― 忙しすぎると記憶が欠如するというのはよく聞く話ですもんね。昌己さんは中学生の時にすでに天才少女としての才能を発揮されていますが、曲作りはいつ頃から始めたんですか?

昌己
曲作りは小学校3年生の時に始めましたが、鬼ごっこや縄跳びの遊びのように、作曲というのも誰もが普通にやっていることだと勝手に思いこんでいたんです。当時は学校から帰ったら毎日1~2時間はピアノの前で過ごすほど熱中していて、作った曲を友達のお母さんに歌って聞かせたたら「これ昌己ちゃんが作ったの?すごいね!」と言われて、「あ!すごいことなんだ!」と気付いたんです(笑)。私の通っていた学校は4年生から中学3年生までクラスのオリジナル曲を作るという恒例行事があったんですが、そこでは自作曲を発表していました。

― 小学生からオリジナル曲を作るというのも随分クリエイティブな学校ですね。そんな昌己さんの学生時代は80年代だったと思いますが、当時はどんな音楽を聴いていたんですか?

昌己
私の住んでいた地域は民放のテレビ局が2つしか映らなくて『ザ・トップテン』は見れるけど『ザ・ベストテン』をリアルタイムで見ることが出来なかったんです。当時は今のように情報もなかったので、主にラジオから流れて来るヒット曲を聴いていました、日本のヒット曲はもちろんですが、洋楽も好きでデュラン・デュラン、ビリー・ジョエル、カルチャー・クラブ、マドンナ、マイケル・ジャクソンなど、当時売れていた音楽なら何でも聴きました。

課題詞に曲をつける作曲部門で対象を受賞した中学生時代

― 昌己さんは中学生の時に「旺文社主催・ソニー '84全国中学生テープ大賞」という賞を受賞されていますが、中学生の時にすでに天才少女だったんですね。たいていのアーティストは高校生くらいから才能に目覚めると思いますが、昌己さんはすでに中学生の時に才能のつぼみが開花していたというか…

昌己
当時購読していた雑誌にコンテストの公募が掲載されていて、私は課題詞に曲をつける作曲部門に応募しました。応募したことを忘れた頃に先生に呼び出されて、「井上さん何か応募した?」と聞かれて受賞が発覚しました(笑)。気軽な気持ちで応募したつもりだったんですが、旺文社の方が学校までわざわざ来て下さって、学校の講堂で授賞式が行われたんです。地元では結構なニュースになってしまって新聞社や地元のテレビ局まで来て、さらに応募した楽曲がテレビで流れたんです。

― 民放が2局しか映らない地域だったらもはや事件ですよね(笑)。そこで昌己さんは地元ですっかり有名人になってしまったわけですね。

昌己
私はそもそも表に出たい願望はあまりなくて、当時はまだ漠然としていましたけど作曲をして他の人に歌ってもらうような作曲家になれたらいいな… くらいに思っていたんです。この受賞はとても反響が大きかったんですが、意外なことに、作った曲に関することより、私の歌声や歌唱力への評判が高くて、初めて「声」や「歌」の可能性に気付くきっかけになりました。

作曲コンクールでグランプリに輝いた高校生時代、
受賞曲は「卒業」としてアルバム収録

― そしてその後、高校生時代にも旺文社主催のコンテストで何度も賞を受賞されていますね。

昌己
80年代という時代もあったと思うんですがコンテストの商品がとても豪華で、中学生の時は学校に百科事典一式が贈られ、私もコンポを頂きました。高校の時に一度奨励賞だったことがあってその時はカセットテープが賞品だったんですが、それが悔しくて奮起して翌年応募したら見事グランプリを頂きました。

― それは「旺文社主催・第15回全国高校生作曲コンクール最優秀作品賞グランプリ」のことですね。

昌己
別に賞品のために頑張ったわけではないんですけど(笑)、やはり負けず嫌いな部分もあったんですかね。ちなみに、この時にグランプリを受賞した曲は詞を書き変えて、のちに「卒業」というタイトルでアルバム(『Sweet』)に収録しています。

― 「卒業」という曲はメロディがとても個性的で、昌己さんの声の魅力が詰まった曲だと思いますが、このグランプリの受賞をきっかけに将来アーティストになるという夢が現実的になったわけですね。

昌己
中学3年生の時に初めて賞を頂いたことで夢見るようになりましたが、それを口にすることは出来ませんでした。でも密かにユーミンや竹内まりやさんのような、シンガー・ソングライターなりたいという憧れは持っていました。高校時代はコピーバンドを組んで渡辺美里さんやレベッカさんの曲をカヴァーする普通の高校生活を送っていましたけど。

トーラスレコードのオーディションで優勝、
歌手・井上昌己デビュー

― そして、1988年にトーラスレコードのオーディション(第1回トーラスレコードスーパーボーカリスト新人オーディション)で見事優勝し、デビューへの切符をつかむわけですね。

昌己
『月刊デビュー』という雑誌を買ってボーカル・オーディションに片っ端から応募をしました。音楽関係のものならなんでも応募しましたね。運よくレコード会社や事務所のオーディションにも最終まで残ったんですが、選択を迷っている時にトーラスの社長さんに言われた「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉で、トーラスレコードに決めました(笑)。

― 昌己さんは歌も上手くて曲も作れる上に、ルックスも可愛らしいので、他の会社からも引っ張りだこだったのは想像できますよ。

昌己
私のマイペースな性格が表れているエピソードがあるんですが、トーラスレコードの応募の締め切り日になってもオーディション用のテープをポストに投函していなくて、締め切り日が大学のオリエンテーリングの日と重なって集合場所に向かう途中でポストに入れようと思ったんです。でも途中でなかなかポストが見つからなくて、早朝からジョギングをしているおじさんに声をかけて「すいません!これどこでもいいのでポストに入れて下さい!」とお願いしたんです(笑)。

― えー、そんなことを見知らぬ人に頼んだんですか?(笑)。つまり、井上昌己が今存在しているのもそのおじさんのおかげかもしれませんね。

昌己
その方がちゃんとポストにテープを投函してくれていたので、トーラスのオーディションを受けることが出来たんです。朝からコツコツマラソンをしている人に悪い人はいない(笑)。

― 無事に届いたテープのおかげでトーラスレコードのオーディションに合格し、とんとん拍子でデビューが決まったわけですね。

昌己
そうですね、トントン過ぎてびっくりしました。受かってすぐに「来年デビューだからすぐにアルバム制作をするよ」と言われたんです。

(インタビュー・構成/長井英治)


<次回予告>
次回は、デビュー初期のエピソードやムーブメントにもなった「ガールポップ」を中心に語っていただきます!
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