ブラック・キャッツ
久米浩司インタビュー

最終回 アメリカ中を熱狂させたゴーゴーズとのUSツアー、
そこで大きな進化を遂げたアルバム『HEAT WAVE』


祝ブラック・キャッツ40周年!今回の2021年最新リマスターBOXセットリリース記念に、ブラック・キャッツのサウンドを担うキーマンだったドラムスの久米浩司さんにお話を伺うことができました。
この最新リマスターで、当時のサウンドがどのように蘇るのか、そして、原宿クリームソーダの店員同士で結成、僅か1年2か月という短い期間に進化を遂げながらロカビリーを開拓し、ゴーゴーズとのUSツアーで本場のアメリカ人を唸らせたブラック・キャッツの軌跡を辿っていきます。
今回は、USツアーにも同行した当時のマネジャー三輪眞弓さん、今回の最新リマスター作業に携わったビクターのプロデューサー助川仁さんも交えて、今蘇るブラック・キャッツの魅力を3回に分けてお届けするロングインタビュー!
最終回は、ゴーゴーズとのUSツアーの詳細、そして、アメリカ帰りで完成させた『HEAT WAVE』における音の進化を中心にお話をうかがいました。

第1回→ 音楽、ビジュアル、スタイルの三位一体。 クリームソーダから生まれたブラック・キャッツ
第2回→ ブラック・キャッツ結成当時のエピソードと、クリームソーダというカルチャー

最初のレコーディングは「シンガポール・ナイト」

― 一番初めにレコーディングしたのは「シンガポール・ナイト」でしたよね。

浩司
ですね。それでアルバムの半分ぐらいしか曲がないのにレコーディングを続けていた感じです。スタジオで曲を作りながらレコーディングして。レコーディング前にはデモテープも作りましたね。ファーストに収録されている「シンガポール・ナイト」と「COVER GIRL」と「LOVE IS BLIND」
の3曲。他の曲は作りながらレコーディングしました。 「どんな曲になるか分からないけど、リズムから行ってみるか…」となって、先ずドラムとアコギのメロディだけを録り、そこに足していくという感じでした。「せーの!」でレコーディングしたのではないんです。
3枚目の『HEAT WAVE』も構成とか決まらないまま、とりあえずドラムのキックだけ入れておくか、みたいな。リズムだけ録って貼って。今のマルチレコーディングと一緒です。ドラムトラックだけ作って、次にベースを入れていくという…。

― それを1982年にやっていたということですよね。

三輪
良い意味でゆとりのある時代でしたね。
浩司
そのかわり、レコーディング費用がめちゃめちゃかかりましたね。今考えると恐ろしいです(笑)。スタジオを少なくても2か月ぐらいロックアウト(註:貸切の意)して。

僅か1年と2か月の間にリリースされた3枚のアルバム

― ブラック・キャッツのファーストが1981年の9月にリリースですよね。それでサードが1982年の11月だから、そこまで1年と2か月しか経ってないんですよね。

浩司
そうなんですか! やっている本人からしてみれば、5年ぐらいの感覚です。

― 短い期間の中に音の進化がすごい3枚をリリースしているっていうのは、他にいないですよね。

浩司
その3枚出すうちにアメリカツアーも行ってますし。『HEAT WAVE』という3枚目はアメリカに行ってカルチャーショックを受けて作ったアルバムです。
いろんなバンドと対バンして、その時はウッドベースの使い方も全部は知らなくて、アメリカでの対バンで初めてウッドベースのスラップ奏法(註:弦をはじいてバチバチというアタック音を発生させながら弾く独特の奏法)を知りました。ストレイ・キャッツがアメリカでデビューする前ですよ。レッド・デビルスとか、映画『ストリート・オブ・ファイヤー』に出演していたブラスターズとか、そういう人たちと対バンやって、楽屋で見ていると、ウッドベースの弦をはじいていて、メンバーはみんなポカンと口開けて「なんだこれ!」みたいな。でも好奇心があるから「どうやってんの?」って聞くとちゃんと教えてくれるんです。 それを日本に帰ってきてレコーディングに反映させました。

― ファーストとセカンドはスラップないですよね。

浩司
してないです。

― 逆にそれがすごく印象的で、重たいウッドベースの音が入っているのに独自性を感じて。セカンド『VIVIENNE』のB面に入っているカチカチしたスラップのような音は、スネアのリムを叩いてる音ですよね?

浩司
そうです。それまでロカビリーは音でしか聴いたことのない音楽なので、どうやって音を出すか分からないですよね。ビル・ヘイリーだってカチカチやっていますよね。今YouTubeでその時代の映像を観ると分かるけど、それはすべて後付けで。今考えると、映像を観て、「これだよ!」って言われると、それで終わってしまいますが、当時は音しか聴いてないから妄想が膨らむんですよね。そこで試行錯誤をする。
たとえば、当時は動いているエディ・コクラン見たことないですよね。音の世界でしか知らなくて、当時は想像の世界で焼き直していくんですよね。

― アメリカツアーで本場のロカビリーをご自身の目で見て『HEAT WAVE』が出来上がったわけですよね。

浩司
今になってクリームソーダの社長がすごいと思ったのは、「お前ら何でも見ちゃうからいけないんだよ」って言うんです。「見ちゃうとその真似をしちゃうから見ないほうがいいんだよ」って。当時は「何言ってんだよ」と思いましたが、今考えると、なるほどって。頭の中で想像を膨らませるとそれ以上のものが生まれるということなんですよ。

― ファースト、セカンドはそういう賜物ですよね。だから「ジニー・ジニー・ジニー」にしてもエディ・コクランのオリジナルはエレキベースですよね。でもブラック・キャッツはウッドベースでやっているから、逆に50年代的だという感覚もあります。それにパンキッシュな部分もあるし、そこに音楽に対しての貪欲さを感じます。

情報がなかった時代背景とクリームソーダの勢い

浩司
知らないことがパワーだったと思います。自分たちの身の程も分かってないし、制限するものがない勘違いパワーというか、若さと勘違いには勝てないものがありますね。
知らないっていうことが一番のパワーだったと、そういう部分も加味してのブラック・キャッツなんですよね。

― 時代性もあって、そのパワーが炸裂したということですね。

浩司
時代背景と、クリームソーダの勢いとそこに集まったメンバーと。それに音楽を教えてくれる人が周りにいっぱいいたというのも大きかったです。
桑名さん(桑名正博氏)もアンさん(アン・ルイス氏)も「ちょっと歌わせてみて」って練習しているスタジオに来て、セッションしているんですよね。僕らは「下手くそ(笑)」とか言われながら。

ゴーゴーズとのUSツアーアメリカでロカビリーの種を撒いたブラック・キャッツ

― そんな状況だったブラック・キャッツの中で浩司さんにとって『HEAT WAVE』はひとつの到達点でしたか?

浩司
アメリカに行って、本物を見た衝撃からできたアルバムですね。ストレイ・キャッツはまだアメリカでデビューしていなくて、その下地になった人たちと対バンしてきたというのが大きいですね。
ブラック・キャッツがゴーゴーズとアメリカをツアーしてロカビリーの種を撒いているところに、イギリスからストレイ・キャッツが逆輸入されてアメリカ中が熱狂したという。そんな感じですよね。
僕らがツアー中は、『L.A. ROCKABILLY』という西海岸のロカビリーシーンを集約したオムニバスアルバムが出た時で、そのリリース記念のイベントに行ったんです。すごく柄が悪い場所で(笑)。その時にオーディエンスが「ブラック・キャッツが来てるぜ! 演奏しろ!」みたいになって、「ブラック・キャッツ! ブラック・キャッツ!」ってコールが沸き起こって(笑)。
その時は、ちょっと楽器を借りて演奏するという技術もなかったから、逃げて帰るしかないなって(笑)。
 

― その時はゴーゴーズとツアーしているからロカビリー好きはみんな知っているわけですよね。

三輪
ロスで流行の中心地だったメルローズだけじゃなくて、行く場所、行く場所で新聞の取材やラジオ出演のオファーがあって、だから取材を終えて次の街に行くと、その記事を読んでいたみんなが知っているという状況でした。
私たちは、キッチンやベッドルームがついた大きなバスでアメリカ大陸を移動していて、そこで寝泊まりしていたんですけど、運転手だけはホテルを取ってあげなくてはならなくて。私たちは、お風呂の用意だけもってホテルにバスルームだけを借りに行くんですが、そんな恰好の時に「ブラック・キャッツ!」って声をかけられたり(笑)。
浩司
ゴーゴーズとのライブはスタジアム級の場所だったので、街が渋滞になるくらい人が押し寄せるんです。そこに僕らがバスで入ると大騒ぎになって。
東洋人でリーゼントしていると全員ブラック・キャッツだと言われていたぐらいでした(笑)。

― ネットがない時代にも関わらず噂が伝わる速度が速かったし、ブラック・キャッツが作ったロカビリーの下地はすごいですよね。

浩司
この前VIVA LAS(VIVA LAS VEGAS:年に1回行われる世界最大のロカビリーイベント)に行った時、司会をやっているビッグ・サンデーに会った時、誰かが僕の事を「ブラック・キャッツのドラムだよ」って言ったら、いきなりビッグ・サンデーに頬ずりされたんです。「僕は15歳の時にアナハイムでブラック・キャッツのステージを観てロカビリーに目覚めたんだ」と言っていましたね。
当時の僕らを観てくれた、当時15歳の彼が今やアメリカのロカビリーのヴォーカリストのトップに君臨しているんですよね。

― それだけ、インパクトがすごいんですよね。当時のLAのロカビリーバンドって、さほど派手でもないし、オーセンティックな印象がありました。ブラック・キャッツのファッションはロンドンっぽいイメージがありますよね。
当時はニューウェイヴバンドという捉え方もあったと思うし、それがアメリカ人に刺さったんだと思います。

ウォルター・ヒル、ティモシー・リアリーが熱狂した
ブラック・キャッツ

三輪
アメリカでの成功はユニクロのマーケテイング戦略などを手掛けたプロデューサーのシー・ユー・チェンさんの手助けもすごく大きかったと思う。
当時、チェンさんが手掛けたチャイナクラブというロスで一番オシャレなレストランがあって、たまたま、私が古着の買い付けにロスに行った時、社長とチェンさんがお友達で、「今度クリームソーダの社員旅行でロスに行くんだ。ブラック・キャッツというバンドもやっているんだ」というお話をしたら、「その時にうちでライブをやりましょう」となって、それが実現したんです。チェンさん、さすがプロデューサーで、ライブをグラミー賞の日にやろう、時間もグラミーの終了時間にぶつけよう、ということになったんです。さらに、事前に招待状を出して、招待状のある人しか入れないパーティにしようと。
その中にマッドネスのメンバーもいて、彼らが「こんなバンドがいる」ってゴーゴーズに伝えたみたいです。
浩司
その時は、映画『ストリート・オブ・ファイヤー』のプロデューサーもいて、スーパーカーに乗って来てました。「俺のロックンロール・カーを見せてやる!」っていうから、(シボレー)ベルレアとかああいう50’Sの車だと思ったら、ガルウイングのスーパーカーで、「じゃあね!」ってエンジン唸らせて帰って行きました(笑)。
あと、ゴーゴーズのツアーで行った時には、LSDの研究で有名なティモシー・リアリーとかも来ていました。
三輪
やはり、そういう人たちがブラック・キャッツを憧れの目で見てくれていたのかもしれない。今まで見たことない、みたいな。
浩司
あの頃、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はまだやっていなかったけど、それに近い感覚ですね。古いことやっているのに、「お前ら未来から来たんだろ?」みたいな。
三輪
それをティモシー・リアリーが言ってくれたんです。

― 「ブラック・キャッツは未来からのタイムカプセルだ」というやつですね。 ブラック・キャッツには、架空のキャラクターというか、ブラウン管から飛び出してきたようなインパクトがありますよね。

三輪
私たちティモシー・リアリーが誰なのかも全然知らなくて…。その時、チャイナクラブの個室でミーティングしていたんですよ。そしたらチェンさんが「三輪ちゃん紹介したい人がいるから」と言ったので、ブラック・キャッツの写真集を持ってご挨拶に行ったら、写真集を見て興奮して、メンバーに会いたいと言うんです。
でも誰も分からないから、知らないおじさんが来たぐらいの感覚でした。
その後、リンジェリークラブという場所でライブをやる時、見に来ると言ってくれて。その時は、TVを始めびっくりするくらいの数のメディアが来ていて、もちろんブラック・キャッツが取材を受けていたんだけど、ティモシー・リアリーが来た途端すべてのカメラが彼のほうに集中したという(笑)。それで初めて「この人すごい人だ」って分かりました(笑)。

― 二度の渡米、ライブで学んだことが『HEAT WAVE』に詰め込まれているということですね。1982年の8月にゴーゴーズとのUSツアーがあって、『HEAT WAVE』は同年の11月にリリースですよね。すると帰国してすぐにレコーディングに取り掛かったということですね。

浩司
そういうことですね。今となると、もっと時間があったように思いますが、そんなに詰まっていたんですね。

USツアーの思い出が詰まった「HEAT WAVE」

― 『HEAT WAVE』は歌詞も当時の思いがぎっしり詰まっていましたよね。USツアーでの思い出が最新のロカビリー・サウンドになって僕らの元に届いたという。

浩司
若さですね。当時僕は19とかそのぐらいなので多感だったし、その衝撃をすぐ音にしたかったんだと思います。

― 『HEAT WAVE』は六本木のソニースタジオでレコーディングされているんですよね。
当時僕が良く聴いていたのがこのアルバムと大滝詠一さんのロンバケ(『A LONG VACATION』)なんですよ。ロンバケも六本木ソニースタジオでレコーディングされていて、2枚のアルバムには、懐かしさと新しさが共存しているという共通点があると思いました。

三輪
あと、ジャケット・デザイナーも中山泰さんで一緒ですね。

― そうなんですよ。

助川
それまでの2枚は、ビクタースタジオでビクターのエンジニアでレコーディングしていたと思います。当時はプロ・トゥールスによるプラグイン・ソフトを多用したハード・ディスク・レコーディングと違って、今以上にレコーディング・コンソールなどスタジオごとの機材の違いが大きく、多分、六本木ソニースタジオというハコが生んだという要素も大きいと思います。バンドが革新していく流れと、そこから生み出される音を再現していくにあたって、スタジオ環境もピンポイントに合っていたということだと思います。

― 今回のマスタリングで楽器それぞれの音色がくっきりとでていますよね。

浩司
今のレコーディング技術でもああいう音は録れないです。ウッドベースの音とか、ああいう風にはならないです。LOW(低音)が良く出ているウッドベースの音はよくあるんです。でもあれはハコ鳴りのナマ楽器の音がドーンと出ているんです。

― 『HEAT WAVE』のリリースと同時に「I・愛・哀 – waiting for you-」がシングルカットされて、ATOMIC AGEツアーが行われて、その告知で夜中のラジオで「I・愛・哀~」がかかったんですね。その衝撃は、今まで聴いたことのない音楽というか、レコードの回転数を間違えているんじゃないかと思うほどで、ストレイ・キャッツ以上の衝撃でした。

浩司
音はストレイ・キャッツより攻撃的ですよ。あれはもうできない。ずっとあれが目標みたいなところもあります。ブラック・キャッツ時代に何曲かあるんです。ウッドベースから始まる曲に多いですね。

― 「もう一度だけランデブー」のウッドベースの音とかも最高ですね。ヨーロッパのネオロカビリーでもああいう音はないですよね。

浩司
ああいう音は、世界中を探しても、どの時代にもなかった。ブラック・キャッツだけだと思います。

― それが染みついている僕らの世代は幸せだと思います。それがリマスターで蘇るというのは大きな意義がありますよね。

(インタビュー・構成/本田隆)

クリームソーダで働く不良少年たちが、USツアーを経てミュージシャンとしてひとまわりもふたまわりも大きく成長していく。そしてブラック・キャッツの遺した軌跡は、後のシーンの大きな礎となっていく… 彼らの音がデビューから40年経った今も全く色褪せず輝き続ける理由がこのインタビューの中にあったように思います。改めて浩司さん、ありがとうございました。

<< | 特集TOPへ