ブラック・キャッツ
久米浩司インタビュー

第2回 ブラック・キャッツ結成当時のエピソードと、
クリームソーダというカルチャー


祝ブラック・キャッツ40周年!今回の2021年最新リマスターBOXセットリリース記念に、ブラック・キャッツのサウンドを担うキーマンだったドラムスの久米浩司さんにお話を伺うことができました。
この最新リマスターで、当時のサウンドがどのように蘇るのか、そして、原宿クリームソーダの店員同士で結成、僅か1年2か月という短い期間に進化を遂げながらロカビリーを開拓し、ゴーゴーズとのUSツアーで本場のアメリカ人を唸らせたブラック・キャッツの軌跡を辿っていきます。
今回は、USツアーにも同行した当時のマネジャー三輪眞弓さん、今回の最新リマスター作業に携わったビクターのプロデューサー助川仁さんも交えて、今蘇るブラック・キャッツの魅力を3回に分けてお届けするロングインタビュー!
第2回は原宿ロカビリーファッションの聖地、クリームソーダで結成されたブラック・キャッツ結成までの道のりをクリームソーダ時代のエピソード織り交ぜをたっぷりとお届けします。アーリー80’S、カルチャーの最先端はここにありました。

第1回→ 音楽、ビジュアル、スタイルの三位一体。 クリームソーダから生まれたブラック・キャッツ

だれも真似ができないファーストアルバムのキラキラ感

― 特にファースト『CREAM-SODA PRESENTS』のキラキラ感や切なさは誰にも真似できないと思います。

浩司
僕もそう思います。
三輪
あの時のクリームソーダのすべてのエネルギーがあのアルバムには入っていましたね。あと、ブラック・キャッツは歌詞もすごいと思うのね。あれは社長の世界で。
以前、アンダーカバーの盾くん(ファッション・ブランド、アンダーカバーの主宰:高橋盾氏)にクリームソーダの話をしてもらった時に、やはり歌詞がすごいって言っていて。その当時盾くんは、「ロックはアナーキーとかのような、政治的な歌詞のほうがカッコいい」と思っていて、(ブラック・キャッツのような)「恋の歌を歌うなんて」と思っていたけど、今になると、それがすごいと改めて分かったと。

― ファーストに収録されている「シンガポール・ナイト」や「1950」の歌詞って大人になってからの方が響くんですよね。

浩司
そうかもしれないです。自分たちも色々音楽を作ったり、プロデュースをしたりする中で、ブラック・キャッツを聴きなおした時、あの歌詞はすごいなって思います。
三輪
普通だったらブラック・キャッツのようなリーゼントスタイルだとワルっぽいイメージの歌を歌うと思うんです。それなのにあんなに切ないという。

クリームソーダの店員同士、
不良少年が集まって結成されたブラック・キャッツ

― ここからは、ブラック・キャッツ結成当時のお話も聞かせてください。

浩司
これ、もう言っちゃっていいのかな? あのブラック・キャッツに集まったメンバーの6人って、めちゃくちゃな人の集まりだから(笑)。本当に保護観察がついてるメンバーもいました。当時、家庭裁判所の調査員がお店にきてましたから(笑)。「今日は何をやりましたか? ちゃんと真面目にやっていますか?」と訊いてくるんです。本当にめちゃくちゃなんで、シャレにならないくらい言えないことがたくさんあります(笑)。

― 僕が中学生の頃、クリームソーダに買い物に行くと、ブラック・キャッツの皆さんはみんな優しかったです。

浩司
そうなんですよ。人の痛みを分かっている人は基本的には優しいんですよ。
面白い話があって、某バンドのメンバーがチョッパー(クールス佐藤秀光氏がオーナーだった原宿の50’Sバイカーファッションの店)の店員で、原宿の街でチラシを撒いていたと。クリームソーダもチラシを撒いているから、当然お客さんの取り合いになるじゃないですか。
で、うちのメンバーがチラシを撒いて、その後にその某バンドのメンバーが「うちにも来てください」ってチラシを撒いたら、そのまま引きずり回されてぶん殴られましたって(笑)。クリームソーダは本当にヤバいって書いてありました(笑)。

― 当時の原宿って、クリームソーダをはじめ、ペパーミントだとか、ハイヒールだとかの50’Sショップのリーゼントの店員がチラシを撒いているのが名物でもありましたよね。

浩司
当時ビクターがあったビルのあたりがチラシを撒く場所で。今でいうキャッチみたいなものですよ。
三輪
だから、キャッチブティックって言われてました(笑)。ガレージパラダイス東京(クリームソーダの店舗名)も裏道にあるから、一見場所がわからないですよね。だから社長がチラシを作って撒きに行けって言って。明治神宮方面から修学旅行生が来るから、それを捕まえてこいという。
浩司
当時はいろんなお店があってお客さんの取り合いなんですよ。
三輪
チラシを撒き始めたのもクリームソーダが最初でしたね。

― 確かにガレージパラダイス東京もクリームソーダの本店も原宿駅から離れていて分かりづらい場所にありましたよね。それでみんながそこを目指していたという。

三輪
探すのがいい! って社長は言っていました。メインストリートじゃなくて裏にあるのがいいんだって。
浩司
そう。知る人ぞ知る場所を探して行くのがいいんだって。
三輪
店を見つけた時の喜びだとか、通販もクリームソーダが最初だったから、物がちゃんと届いた時の喜びがいいんだって言っていましたよね。当時はガリ版でミッキー(ミッキー並木氏 / クリームソーダのデザイナー)がカタログを作って会社で印刷して…。

― 当時僕はクリームソーダのファンクラブに入っていて、毎月ガリ版のカタログが送られてきて、それが嬉しくて一日中見てました。いつも少ない小遣いの中から何買おうかなって悩んでました(笑)。

三輪
送ってました(笑)。
浩司
あのカタログ、イラストを描くのはデザイナーで、これを僕らが朝から晩まで印刷ですよ。それを折って、ホチキスで止めて、封筒に入れてという作業をやってました。
三輪
夜中までだったよね。

クリームソーダで更生したブラック・キャッツのメンバー

― お店が夜8時に終わって、そこからなんですね。本当の不良だったブラック・キャッツがクリームソーダで更生したということですよね。

浩司
本当にそうです。当時社長も言ってましたが、「お前たち、時間を与えるとロクなことしない」って(笑)。その言葉通りの生活でした。店を閉めてカタログ作ったり、とにかく夜中までやるんです。今で言うと労働基準法違反(笑)。
朝、店に出勤しますよね。帰るのが毎日深夜2時、3時で(笑)。

― ペンキ塗りとかもスタッフでやっていたとか。

浩司
そうです。模様替えってなれば、ひたすらペンキを塗る。社長いわく、「お前らに時間を与えると絶対悪いことするだろ。だから時間を与えない」って(笑)。
それで、僕らも時間がないし、よからぬことができないじゃないですか(笑)。あと、クリームソーダは縦社会の構図がすごいので、夜中の3時に帰っても、朝ちゃんと来ないと正座させられますから(笑)。店の前で。で、どうしようもないと思うのが、忙しすぎるから怒られて座っていたほうが楽じゃん! みたいな考えになるんです(笑)。正座して寝てればいいって。
三輪
ブラック・キャッツの時は、お店が終わってから朝までレコーディングしているから。それでも朝9時半にはちゃんとお店に行かなくてはならない。帰ってシャワーを浴びてそのまま行くしかなかったんです。
浩司
お店のトイレに入って、そのまま寝てしまうというのが何回もありました(笑)。

― 練習もお店が終わった後、怪人二十面相(山崎氏がオーナーのロックバー。かつて新宿にあった)で練習していたんですよね。曲作りの時間も必要だったと思います。浩司さんは音作りに関して考えなくていけない時間も必要だったと思います。

浩司
だから、お店にいる時間は音楽のことを考える時間でした。僕は「いらっしゃいませ」とかやらずに好きなレコードをかけてスピーカーの前に張り付いていました。
当時はスタッフが個々で売り上げ成績をつけていたんですが、全然構っていなかったですから。「お前ゼロだよ!」って言われても、「ゼロで上等」みたいな(笑)。

当時衝撃を受けたネオロカビリー

― そうすると、音楽の方に全神経が集中していたということですね。

浩司
そうです。店の経費でレコードはいくらでも買っていいことになっていたので、「レコード買いに行くからお金ください」って言って、日本生命ビルの横にあったディスクユニオンに行くんです。あそこには最新の輸入盤がバーンと並んでいたから。新譜が入荷すると、店の経費を持って買いに行って聴く。というのを続けていました。
その中にブラック・キャッツも大きな影響を受けたフランスのロカビリーバンド、アリゲーターズがあったり、ストレイ・キャッツが出た頃に同じくロンドンで盛り上がっていたネオロカビリーのポール・キャッツやシェイキン・ピラミッズの盤があったり、また、ロカビリーだけではなく、最先端の音楽がそこに行けばあるんです。
だから、面白くて仕方がないので、ごっそり買ってお店で聴いていましたね。

― 確かにクリームソーダでロカビリー以外の曲がかかっていた時がありました。ラモーンズがかかっていたことを鮮明に覚えています。

浩司
ロックンロールと言われるものは全部聴いていました。

― メンバー同士音楽の好みの違いはありましたか?

浩司
僕がレコードを聴いて、これカッコイイなって思ったらカセットに録音して、みんなに渡すと、総じて「これカッコイイよね!」って。そんな感じです。

― そうすると、音楽的なことでもめることもなく。

浩司
全然ですね。考えていることは一緒でしたね。

― その中で、東山光良さん、林敏明さんというお二人がアドバイザーとして関わっていくことがすごくプラスになったと思うのですが。

浩司
それは完全に楽器のテクニックを教わるという部分が大きかったです。ドラムだとパラディドルという基礎奏法があるんですが、ずっとそれを「なんでこんなことやらなきゃいけないんだ」と思いながらもひたすらやらされたり、ギターでいえば、コードの押さえ方だったり。完全にコーチングでした。
「音楽はどんなことやりたいの?」とは聞かれましたね。それで、「それなら最低これができないとやれないよ」と、そんな感じです。
三輪
あとは、社長とメンバーの通訳役でしたね。社長も音楽をやれるわけではないから、イメージがあって、こういう感じを音にしたいというのを具体化して、メンバーと共有するとうのもお二人の役目だったと思います。

― そういう部分も含めブラック・キャッツは相当恵まれていたと思いました。

浩司
本当にそうなんですよ。その時は分かっていなかったですが。いろいろ話して、「そんなのダサい」とか、「ぶっちゃけ、ジジ臭くないですかこの音?」とか言ってましたから(笑)。

― 初期のサウンドにはその辺のエネルギーが垣間見られたから逆によかったと思います。言葉じゃない熱量があるからずっと聴き続けられるのだと思います。僕も中学生の時から今までずっと聴いていますから。

最初は4人編成だったブラック・キャッツ

― ブラック・キャッツは結成してすぐデビューが決まったんですよね。

浩司
結成して3か月ぐらいですか。
三輪
最初からデビューするという前提があって。お店から一番近いからという理由で(笑)。レコード会社もビクターに決まって。
浩司
最初のメンバーは4人だったんですよ。この4人による「シンガポール・ナイト」の演奏で、『11PM』に出演しているんですよ。

― エレキベースの頃ですよね。

浩司
そうです。ヴォーカルの誠ちゃん(高田誠一)がベース・ヴォーカルで、修さん(OTTO)がサイド・ギターで。

― 誠一さん、OTTOさん、片桐さん(片桐孝氏 / ギター)、浩司さんの4人ですよね。

浩司
このメンバーで「シンガポール・ナイト」は普通にやっていたんです。でも4人だととにかく下手くそで(笑)。で、たまたま弟(久米良昌氏)がギターやっていたので、彼がこっち遊びに来た時に、「弾いてみて」って。
三輪
それを見て、社長と私が大拍手で、「決まり!」みたいに(笑)。
浩司
それで、楽器が上手く弾けないのに歌って弾くのは無理だろということで誠ちゃんがヴォーカルに専念することになって、「札幌のクリームソーダにベース弾けるやつがいる」と聞いて淳(陣内淳氏 / ブラック・キャッツ初代ベース)が入って…。

― そこでメンバーが固まったということですね。

浩司
それから少し経って「レコーディングだよ!」って話になって、何曲かオリジナルがあったので、それでレコーディングが始まりました。

(インタビュー・構成/本田隆)

<次回予告>
11月30日(火)掲載予定
最終回は、ゴーゴーズと一緒にスタジアム級のライブを敢行したUSツアーの話など貴重なエピソードが満載です。

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