「この子は、歌が上手い!」
そう言ってマイケルを褒めたのは、大正10年(1921年)生まれの祖母であった。
それはちょうどあの「くだらない」一連のマイケル・ジャクソン裁判がテレビを賑わせていた時期。ワイドショーでは連日報道が過熱していたと同時に彼の歌がお茶の間に絶えず流れていた時でもある。
その時85歳であった祖母は、どうやら繰り返しテレビから流れる「ビリー・ジーン」や「スリラー」を聴くうちにマイケルの虜となっていったようなのだ。テレビをつければマイケルの曲がかかっている。日に日に祖母のマイケル愛は強まるばかり。
報道内容には目もくれず、しきりに褒めちぎる。当時中学生であった僕は見かねて誕生日に『スリラー』のアルバムをプレゼントしてあげたところ、大層な喜びようであった。
祖母の部屋から『スリラー』が大音量でかかり始めたのはその日からであった。耳が遠いから必然的に音が大きくなったわけであったが、全く嘘のようなお話である。
「おばあちゃん、音下げてよ!」などと言いながら、パンクロッカーを気取った青二才の僕はザ・クラッシュの2ndアルバムを争うように大音量でかけていたのだが、しまいには僕の方が負けてしまう始末。
「あんたもこっちに来て聴きなさい!」などと怒られ一緒に聴いているうちに僕まで薫陶を受け「なるほど、さすがキング・オブ・ポップだ」とすっかりファンになってしまった。
要するに僕は85歳の祖母からマイケルの素晴らしさを教えられた、ということになるわけだ。
祖母は関東大震災と東京大空襲を生き抜いた女性だ。ちょっとやそっとのことでは動じない。「爆弾を落としたアメリカの音楽だよ」などと言っても「良いものはいいからねぇ、歌詞はわからないけど」などと言い泰然としていた。
昭和初期には「職業婦人」として三越デパートに勤めながら「モガ」(モダンガール、シーナ・イーストンではない)を気取り銀座を闊歩していた祖母。流行にはうるさい。「かわいい子じゃない」などとジャケットのマイケルを見て曰く「この子は、いいセンスをしている」と一言。
戦中期、軍部から平和産業との咎でデパートが縮小したらすぐ転職をし、タイピストとして汽船会社に勤めたという。我ながらおそるべき女性と感嘆する。そんな祖母のマイケル熱は一過性のものではなかった。
2009年にマイケルは天国に去った。祖母はそのニュースを見て「そう、あの子がねぇ」などと残念そうにしていた。そしてしきりに映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』を観たいと言っていた。さすがに屈強な祖母もその頃90歳を超えていたので、劇場での2時間弱の映画鑑賞は無理であった。
しかしいつの間にかDVDを手に入れてしみじみ見とれていた。そして壁には新聞から切り抜いた映画の広告が。それを見て僕は、文字通り老若男女に愛されたマイケルの偉大さを思い、なぜだか無性に涙が出たのを覚えている。
単なるミュージシャンではない、祖母の丸まった腰越しに映るマイケルの姿にもっと大きい無償の愛のようなものを僕は観ていたのかもしれない。
そんな祖母も今年で96歳を迎えた。僕は今でも祖母のために「ヒューマン・ネイチャー」を時々かけてあげている。「いい歌だねぇ」と言いながら「あんたが出世するまで死ねないね」などと祖母に叱られる僕は、なぜだかマイケルの愛のおかげで約1世紀を生きてきた人間と繋がれた気がするのである。
2017.12.05
YouTube / michaeljacksonVEVO
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