恋愛に “なぜ” はつきものだ。
連絡が取れないときの「なぜ」
会えないときの「なぜ」
言葉の真意と問う「なぜ」
多くのシチュエーションの中で生まれる「なぜ」がある。
この「なぜ」を直接相手にぶつけるときもあれば、ぐっと飲み込んでしまうこともあるだろう。どのように対処したとしても、結果として安心することができれば、心の中に「信頼」が成長し、二人の関係を確かなものにしていく。健全な状態だ。
でも、この「安心」が得られない場合、まるで雨雲サッとが広がるように、心の中には「不安」が増幅してしまう。
幼児が母親の愛情を “一緒にいる時間” と “笑顔” で測るように、こと恋愛においても、自分への愛情を “連絡の頻度“ と “一緒にいる時間” で確かめていく。非常に感覚的だ。これらが得られないときに欲しくなるのが “言葉” であるように思う。
恋愛の初期の「なぜ」はまだいい。相手を知る愉しみがある。でも、つきあいが深まっても、この「なぜ」が続く場合は厄介だ。強いフラストレーションと抱えることになる。
苦しさと共存する恋愛。
ここから逃げ出すこともできる。
分かりあう努力を続けることもできる。
何度も話し合ってきた。でも、この苦しみから解放されることはない――。
「好きだ」という気持ちだけが二人の関係を繋ぎ止める。頭では分かっているはず。離れた方がお互いのためであることを・・。
それでも別れる決心がつかないのは、傷つくことを恐れ、相手を失う悲しみを乗り越える自信がないからだ。自ら決断したにせよ、相手から別れを告げられたにせよ、相手を失うダメージは計り知れない。自身の一部をそぎ落とされるような痛みと苦しさを伴う。
見慣れた景色の中に相手の残像が浮かぶ。そんなとき、幸せだったときの記憶ほど鮮明に思い出すから不思議だ。
あるはずのない連絡を期待して涙が溢れる夜もあるだろう。関係を修復できないことを理解しながら。
しかし一方で、時間とともに育つものがある。
それは「解放感」。
苦しさから解き放たれたことを実感する瞬間だ。
澄んだ青空に気づき、木々たちがそよめく景色を感じ、目を閉じて深呼吸したくなる。風は優しく包み込み、陽を浴びた草木たちは生き生きと輝き、鳥たちのさえずる声が聞こえる。
日常の美しさ。「もう苦しまなくていいんだ」という安堵感で満たされ、未来への期待感に胸躍らせる。
これらの悩みや迷い、苦しさ、切なさ、解放感を見事に表現した歌がある。
今井美樹の「空に近い週末」。
青春時代の恋を思い出しながら、是非聴いてみて欲しい。
余談だが、心理士対象のシンポジウムに参加したときのこと。
「恋愛しない若者が増えている」
という興味深い話があった。恋愛至上主義のトレンディードラマや雑誌が指標だった40代、50代にとっては信じられない話かもしれないが、現在大学に勤務している私も、親が心配する必要がないくらい今の若い子たちは恋愛しないように思う。
さまざまな要因が考えられるが、男女平等を謳い、偏差値指導を禁止し、ストレスを与えるものをあらかじめ排除した「ゆとり教育世代」は、ストレス耐性が極端に低い(事実、ゆとり世代が社会人として世に出てきたとき、そのストレス耐性の低さに驚かれた経験をした人も多いのではないかと思う)。
しかし、思い通りにならないのが恋愛だ。この恋愛におけるストレスに耐えられないのだそうだ。
彼らにとっては、「空に近い週末」の歌詞に込められた心の機微を、理解することはできないのかもしれないと思う今日この頃である。
2017.07.17
vimeo / Dale E. Victorine, Composer
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