スパイキーヘア、傷だらけの素肌にレザージャケット、破けたジーンズにエンジニアブーツというスタイル。楽器が弾けないことも問題とせず、その破天荒な生きざまこそが、パンクの精神性をリアルに体現していると多くの人は感じた。そんな彼がヘロインの過剰摂取で夭折したのは79年の2月2日だった。
セックス・ピストルズのベーシストなのにベースが弾けないというのが定説だったシド。しかし、実はそんなことはなかったようだ。正確には、弾けないのではなく、弾けなくなったのだ。つまり、ドラッグが純然たる音楽から彼を遠ざけた。
シドの音楽キャリアはドラマーから… 、スージー・アンド・ザ・バンシーズのデビューライブでも彼がドラムを叩いている。そして、ピストルズ加入により初めてベースを手にする。当時のシドの様子について、ジョニー・ロットンはこんな風に述懐している。
「シドはあっという間に楽器を自分のものにした。3コードの曲なら演奏できた。シドは一生懸命リハーサルに参加した。俺たちがリハを済ませて出かけてもシドだけはベースの練習に勤しんだ」
シドにとって音楽とは、それ相応の価値観を見出すことの出来る宝物であり、真正面から向き合っていた。しかしピストルズのファーストアルバムには2本のベースラインが録音されているという。
ことの顛末はこうだ。ピストルズのギター、スティーブ・ジョーンズが、最初にシドが録音したベースラインが気に入らずに自分で弾いたベースラインと差し替えてしまった。これにシドが激怒したことによって、最終的には2本のベースラインを入れることでカタがついたという。
そんなシドの十代の頃のアイドルはデビッド・ボウイ。そして、50年代のリアルロッカーであるエディ・コクランを崇拝していた。彼の歌うエディの名曲「カモン・エブリバディ」と「サムシン・エルス」は79年にシングルとしてリリースされ、映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』のサントラ盤の中でも聴くことができる。
シドがシンプルこの上ないエディの楽曲を取り上げることにより、ロックンロールの初期衝動ともいうべき “エディ・コクランの魂” がロンドンのパンクムーブメントの中で蘇生した。
つまり、シドはロックンロールの永遠性を理屈ではなく肌で感じ取っていたのである。ガーゼシャツ、モヘアセーターといった他のメンバーのファッショナブルさとは一線を画すスタイル。革ジャンとジーンズという50年代の「ロッカーズスタイル」をシドがアレンジしている点からもそれは伺える。50年代のロックンロールの本質であった刹那的な生き方を70年代に蘇らせたのは、シド・ヴィシャスに他ならない。
そして、特筆すべきは、あのフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」。50年代、ロックンロールの排斥運動の第一人者であったシナトラの名曲をカヴァー。
シナトラとは真逆のスタンス、破滅的に生き急いだシドが、疾走感にあふれるアレンジで皮肉たっぷりに歌い上げる姿はパンクロックの象徴そのもの。ここに彼の生きざまがすべて集約されている。
こうして今終わりの時を迎え
俺は終幕へと立ち向う
友よ俺ははっきり言える
確信を持って 俺の生涯を
伝えることができるんだ
満ち溢れた人生を生きてきた
ひとつひとつの道を旅してきた
そしてなにより
ずっと自分の道を生きてきたんだ。
シドの歌う「マイ・ウェイ」は、パンクロックのひとつの価値観である破滅的な人生をリアルに体現している。
長きに渡りキャリアを積み重ねアメリカを代表する歌い手となったシナトラ… 。それとはまた逆の意味で人生を全うし、シド・ヴィシャスは伝説の中で生きることを選んだのだ。
※2018年2月2日に掲載された記事をアップデート
2019.05.10
YouTube / Luis Asenjo
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