手前味噌で恐縮だが、僕のハンドルネームの「指南役」というのは、ユニット名である。元々は、福岡市にある城南高校の水泳部内に設けられた “部活内部活” の名前だった。
その設立の動機は、「第5の泳法」を生み出すこと――。ご存知の通り、水泳には大きく4つの泳法がある。「クロール」「平泳ぎ」「背泳ぎ」(どーでもいいけど、背泳ぎって「せおおよぎ」と発音するよね)「バタフライ」の4つ。ただ、水泳の競技に「クロール」という種目は存在しない。代わりに「フリースタイル」なる種目があり、どんな泳ぎ方をしてもいいルールになっている。だから自由形。たまたまクロールが速いから、みんなその泳法で泳いでいるだけである。
僕らはここに目を付けた。
「だったら、全く新しい “第5の泳法” を生み出し、これを大会のフリースタイルの種目で披露しよう」と。目標はイギリスのラグビー高校だった。19世紀、フットボールの試合中に一人の少年がボールを持って走り出したのが “ラグビー” の起源となった、あの伝説のラグビー高校である。僕らも第5の泳法を生み出し、後世に「城南」と呼ばれることを目標に掲げた。
ユニット名を「指南役」と名付けたのは、その語源である古来中国の「指南車」が、常に南を指す装置だったことに目を付けたからである。「普通、方位磁石は北を指すが、僕らは南を指す。天邪鬼たれ」という理由だった。要するにひねくれものの集まりだった。
―― おっと、ここに至るまで、まだ一行も音楽の話をしていなかった。大丈夫。もうすぐ、この導入部の話は終わる。
僕ら指南役には、オマージュする1つの元ネタがあった。それは、この水泳部に数年前に作られたという伝説の「第二水泳部」である。設立者は、僕らの代の5つ上の先輩の木村和さん。後の―― KAN である。それは、水中プロレスや水中サッカーを始めとする、プールで遊ぶための部活内部活だった。
その第二水泳部には、もう一つの趣向があった。それは―― 音楽である(もはや水泳とは何の関係もない)。当時、彼らは発売されたばかりのビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街(52nd Street)』を愛聴していたという。KAN さんのビリー・ジョエル好きは、ここに始まる。ビリーの「アップタウン・ガール」をオマージュした「愛は勝つ」を発表する12年前の話である。
少々前置きが長くなったが、今回はその「アップタウン・ガール」が収録されたビリー・ジョエルの9枚目のスタジオアルバム『イノセント・マン』の話である。リリースは今から35年前の今日、1983年8月8日―― 奇しくも、僕らが「指南役」を設立したのも同じ月だった。
話は少しばかり、さかのぼる。
ビリー・ジョエル。生まれたのは1949年、ニューヨークはブロンクスである。父の影響で幼少時からピアノを習い、天賦の音楽の才もあって、その腕はめきめきと上達する。尊敬する音楽家はベートーベン。だが、やがて両親は離婚し、ビリーは女手一つの貧しい暮らしを強いられる。そんなビリー少年を慰めたのも、やはり音楽だった。
ビリーが10代の頃に影響を受けたミュージシャンは、プレスリーを始め、レイ・チャールズ、ベン・E・キング、ザ・タイムス、シュープリームス、フォー・シーズンズ、ジェームス・ブラウン、そして―― ビートルズ等々である。
「俺はコロンビア大学に行くんじゃなくて、コロムビア・レコードに行くんだ」
そう言い放つと、ビリーは高校を中退し、音楽の道を志したという。しかし、いくつかのバンドを経て、ソロデビューを果たすもヒットに恵まれず、ロサンジェルスに移住する。そこで、クラブでピアノの弾き語りをして生計を立てていたところを、本当にコロムビア・レコード(!)にスカウトされる。高校時代の予言が当たったのだ。そして1973年、アルバム『ピアノ・マン』をリリースするや、同名タイトルのシングルが大ヒット。ビリーは一躍、その名を全米に轟かせたのである。
ちなみに、米コロムビア・レコードは日本の CBS ソニーと提携関係にあり、これが縁で、後にソニーが開発した世界初の CD ソフトにビリーの『ニューヨーク52番街』が選ばれる。世界の CD 時代の扉を開けたのはビリーだった。コロンビア大学に行くより、遥かに難関な試験にパスしたのは言うまでもない。
閑話休題。1977年、ビリーは米音楽界のカリスマプロデューサーのフィル・ラモーンを招いて、自身5枚目のアルバムを作る。それが『ストレンジャー』だった。全米アルバムチャート2位。収録曲の「素顔のままで(Just The Way You Are)」はグラミー賞を受賞し、同名シングルの「ストレンジャー」は翌78年に日本でもリリースされ、オリコン2位の大ヒット。一般に、僕らがビリーを知るのはこのタイミングであある。
当時は、サーファーディスコ全盛期(六本木に「キサナドゥ」があり、スクエアビルは全階ディスコだった)で、「ストレンジャー」はディスコの定番曲として人気を博した。口笛の静かなイントロから一転、軽快なロックに転調する歌い出しが人気で、たまに分かっていない DJ がイントロを省いて、いきなり歌い出しから曲をかけると、フロアにいた客たちは一斉にブーイングした。
この78年からビリーの人気は沸騰する。そして次のアルバム『ニューヨーク52番街』、そして『グラス・ハウス』と3枚連続で700万枚以上を売り、グラミー賞を3年連続で受賞する。ここでもスター「黄金の6年」説は当てはまり、ビリーが最後にオリジナルアルバムを700万枚以上売るのは、83年の『イノセント・マン』である。この間、6年。
さて―― いよいよ本題の『イノセント・マン』である。
当リマインダーでも、前に
藤澤一雅サンが同アルバムについてコラムを書かれているが、その誕生には劇的な物語があった。それは、ビリーにとって最悪な1年と言われた1982年がプロローグだった。
その年、ビリーはバイク事故で瀕死の重傷を負い、妻のエリザベス・ウェーバーと離婚して財産の半分を失い、8枚目のアルバム『ナイロン・カーテン』はメッセージ性が強すぎると、今ひとつのセールスに終わった。傷心のビリーは、同年11月、ツアーの疲れを癒すために、カリブ海のサン・バルテルミー島を訪れる。そして―― かの島で、当時「アメリカの恋人」と謳われたスーパーモデルのクリスティ・ブリンクリーと出会い、一瞬で恋に落ちたのである。
僕が常々言っている「物語は最悪のタイミングで始まる」とは、こういうことである。
翌1983年1月、ビリーは9枚目のアルバムの制作に取り掛かる。もう、アタマの中は恋人のクリスティのことでいっぱいだ。そして、わずか2ヶ月で書き上げたのが――『イノセント・マン』である。
ひと言でいえば、それはビリーからクリスティへの恋文だった。タイトルを直訳すると “無垢な男” ――「少年のような僕を見て!」ということだろうか。事実、同アルバムには、ビリーが少年時代に愛聴した、50年代から60年代にかけてのR&Bやドゥーワップ、モータウンサウンド、アメリカンポップスなどのオールディーズの空気があふれていた。
俗に、エンタテインメントの世界では、「クリエイティブとは0から1を生み出す作業ではなく、1を2や3や5にアップグレードする作業である」と言われる。例えば、映画界でルーカスやスピルバーグが、50年代のパルプマガジンをオマージュして『スター・ウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』を作ったのは有名な話である。
同様に、『イノセント・マン』も、その根底にあるのは先人たちへのオマージュだった。先行シングルで全米1位を獲得した「あの娘にアタック(Tell Her About It)」はシュープリームス、同名シングルの「イノセント・マン」はベン・E・キング、「アップタウン・ガール」はフォー・シーズンズ、ビリーが一人で多重録音をこなした「ロンゲスト・タイム」はザ・タイムス、そして「今宵はフォーエバー(This Night)」に至っては、サビはベートーベンの「悲壮」だった。
この中で、特に僕のお気に入りが、ミュージックビデオに当の恋人のクリスティ・ブリンクリーが登場する「アップタウン・ガール」だ。短いイントロから、いきなりサビに入るシンプルな構成がいい。
Uptown girl
(アップタウン・ガール)
She's been living in her uptown world
(あの娘は山の手に暮らすお嬢様)
I bet she's never had a backstreet guy
(裏通りの男とは、まるで縁がない)
I bet her mama never told her why
(ママから、その存在すら教わってないんだ)
ビデオの舞台は、うらぶれた下町のガソリンスタンドだ。ビリーを筆頭に、油まみれの男たちが働いている。と、そこへ場違いな1台の高級車―― ロールス・ロイス・ファントムVが現れる。後部座席に乗るのは―― 美しく着飾ったスーパーモデルのクリスティ・ブリンクリーだ。一気にテンションが上がるビリー。
I'm gonna try for an uptown girl
(あの娘にアタックしてみるよ)
She's been living in her white bread world
(彼女は退屈な世界にいるんだ)
As long as anyone with hot blood can
(情熱あふれる誰かが現れるまでは――)
And now she's looking for a downtown man
(そう、彼女は今、下町の男を探している)
That's what I am
(それが、僕さ)
それが僕さ―― 手に持ったスパナで自分を指すビリー。凄い自信だ。実際、ビデオの中で、ビリーは彼女を口説き落とし、仕舞いには一緒にダンスまで踊り(このシーンは観ているこちらが赤面する)、最後はバイクの後ろに乗せて、タンデムで颯爽と街へと繰り出している。私生活で2人が結婚するのは、同アルバムのリリースから1年半後の1985年3月である。
話は飛んで、1991年1月―― フジテレビの『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』のテーマ曲に KAN さんの「愛は勝つ」が起用されると、あれよあれよとセールスを伸ばし、200万枚を突破した。そればかりか、その年の日本レコード大賞を受賞し、紅白歌合戦にも出場した。
僕ら―― 水泳部の後輩たちは驚き、歓喜した。KAN さんがプロのミュージシャンとしてデビューした話は聞いていたが、その展開は予想外だった(予想できるワケがない!)。何より、曲のクオリティが高かったのが嬉しかった。それは KAN さんが公言している通り、ビリー・ジョエルの「アップタウン・ガール」をオマージュしたものだった。
そう、エンタテインメントにおけるクリエイティブとは、0から1を生み出す作業ではなく、1を2や3や5にアップグレードする作業である――。
ちなみに、コラムの冒頭で紹介した、僕ら指南役の「第5の泳法」は、試行錯誤の末に「後ろ向き泳法」として完成に至り、高校3年の最後の大会で「フリースタイル」の種目で披露された。
現在、「城南」という泳法は存在しない。
2018.08.08