“映画の半分は音楽で出来ている”―― とは、かのジョージ・ルーカスの言葉である。事実、名画と映画音楽は切っても切れない関係にあると言っていい。
例えば――
『ピノキオ』と「星に願いを」
『ティファニーで朝食を』と「ムーン・リバー」
『2001年宇宙の旅』と「ツァラトゥストラはかく語りき」
『ゴッドファーザー』と「愛のテーマ」
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と「パワー・オブ・ラヴ」
『プリティ・ウーマン』と「オー・プリティ・ウーマン」
―― etc
中でも、もはやタイトルと音楽が一体化している『スターウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』、『007シリーズ』や『ロッキー』などは、映像を思い浮かべるだけで、自然とテーマ曲が頭の中で再生される、映画音楽界の金字塔である。
ところが―― 今回ご紹介する映画は、なんと1時間46分の劇中、主題歌(テーマ曲)はもちろんのこと、劇伴の類いも一切かからないのだ。それだけじゃない。ご丁寧にも劇中でレコードをかけるシーンまで用意されているが、そこでも音楽が流れない。いや、登場人物たちには聴こえているが、観客に聴こえないのだ。そう、一切の音楽が排除された映画――。
ならば、その映画は、魅力が半分しかないのか?
違う。その年のキネマ旬報ベスト・テンの日本映画の1位に輝いている。紛うことなき傑作だ。日本アカデミー賞でも、優秀作品賞・優秀監督賞・優秀主演男優賞・優秀助演男優賞・優秀助演女優賞・新人俳優賞を受賞している。クオリティは間違いない。
その映画こそ、今から36年前の今日―― 1983年6月4日に封切られた森田芳光監督の『家族ゲーム』である。
同じ年の日本映画に、カンヌでパルム・ドールに輝いた今村昌平監督の『楢山節考』に、それとカンヌを競った大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』、五社英雄監督の『陽暉楼』、市川崑監督の『細雪』等々、強者どもが揃っていたことを思えば、キネ旬1位は見事である。
え? それはいいが、音楽のない映画じゃ、そもそも音楽を語る場である「リマインダー」で取り上げる意味があるのかって?
―― それがあるんですね。実は同映画、日本アカデミー賞で「優秀録音賞」も貰っている。いわゆる録音技師の人たちに贈られる賞で、現場の映像を撮るのがカメラマンなら、現場の “音”(セリフや効果音)を録るのが録音技師だ。
そう、同映画は徹底的に音にこだわっている。音楽は1秒も流れないのに、音にこだわるとは、何事か?
偉大なる音楽家ジョン・ケージの作品に「4分33秒」なる楽曲がある。かなり有名な作品なので、ご存知の方も多いだろう。楽譜には3つの楽章と、それぞれに休止を表す「tacet」の文字。早い話がオーケストラの全てのパートが演奏を休み、4分33秒間を過ごすというもの。指揮者もタクトを下ろして、何もしない。つまり “無音” を奏でる楽曲だ。
ケージはこの作品の構想にあたって、こう述べている。「この世で自然に聞こえるもの全てが音楽である」
そう、オーケストラの楽器が鳴り響かなくても、演奏会場内外のさまざまな雑音、鳥や虫の声、木々の揺れる音、遠くから聞こえる子供たちの歓声、会場のざわめきなど全てが音楽になり得る―― そうケージは伝えたかったのだ。
映画『家族ゲーム』も、まさにその思想を受け継いでいるのではないだろうか。音楽は一切流れない。その代り、人間の本能を浮き彫りにする様々な “生活雑音” が次々に繰り出される。卵の黄身をすする音、漬物を齧る音、シャーペンをノックする音、お茶を一気に飲み干す音、平手打ちする音―― etc
もし、この映画に他の作品と同じように音楽が流れていたら、これらの雑音はかき消されていたか、もしくは僕らは気にも留めなかっただろう。
原作は、1981年の第5回すばる文学賞を受賞した本間洋平の小説である。これまでに4回映像化され、いずれもヒットしているのは、『白い巨塔』同様、原作に力がある証しだろう。
本作は、その2作目である。時に1983年。黄金の6年間で言うところの最後の年だ。そう、東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代――。森田芳光監督は当時33歳で、これが劇場映画監督デビュー5作目。同映画のヒットで、一躍その名が世間に知れ渡る。
主演は松田優作である。この1ヶ月後に映画『探偵物語』にも出演しているが、飄々としながら、コメディにも振れる演技スタイルは、この時代が真骨頂。個人的には、後の文芸路線よりも、80年前後のライトな作風の方が彼には似合うと思う。
物語は、落ちこぼれでいじめられっ子の中学3年の茂之(宮川一朗太)のもとに、三流大学の七年生の吉本(松田優作)が家庭教師としてやって来るところから始まる。吉本は会うなり茂之の本質を見抜き、時に暴力も厭わないスパルタ式で成績を上げ、ついでにケンカの仕方も教える。そして、茂之は念願の志望校に合格する――。
だが、この物語の肝は、実は別のところにあった。よくある都会の核家族の話と思いきや、両親と兄弟2人の心はバラバラで、それを象徴するのが、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を彷彿とさせる食卓のシーン。4人がテーブルの同じ側に座り、同じ方向を向いて食事するアレ。予告編にも使われた、同映画のいわばアイコンである。
そう、彼らは “家族” を演じていたに過ぎなかった。そんなギリギリの均衡が、茂之の合格祝いの席で決壊する。この時の松田優作演じる吉本の暴れっぷりがとにかくおかしい。同映画最大の見所だろう。
ラストは、ヘリコプターの音が不穏に響き渡る中、なぜか兄弟2人は昼間から寝ており、母親がまどろむところで終わる。父親の姿はない――。
ひと言で言えば、シニカルなブラックコメディである。冒頭でも述べた通り、全編に渡って、人間の本能を浮き彫りにする “生活雑音” が立たせてあり、それがこの映画を非・日常空間へと昇華している。
役者陣も素晴らしい。松田優作以外にも、父親を演じる伊丹十三の役作りは突き抜けており(あのガサツな父親は、素の伊丹サンの正反対のキャラである)、どこか浮世離れして、現実逃避の母親を演じる由紀さおりもいい。そして茂之役の宮川一朗太のつかみどころのない現代っ子ぶりが、この映画にリアリティをもたらしている。
最後に―― 同映画を語る上で、忘れてはいけないバックボーンがある。それが ATG、日本アート・シアター・ギルドである。1961年に設立され、フランスのヌーヴェルヴァーグやアメリカンニューシネマなどの世界の映画の潮流を背景に、非商業主義的な芸術作品を製作・配給した映画会社である。
そんな ATG の転換点が1979年。当時、同社は経営が悪化し、配給できる映画館も減っていた。そこで、初代社長の井関種雄が退任し、佐々木史朗が新社長に就任。彼が打ち出した新たな戦略が、それまでの芸術志向の強い大物監督ではなく、大学の映研やポルノ映画出身の若手監督を積極的に起用することだった。
そして―― 80年代前半の ATG の “確変” 時代が訪れる。新人監督たちは次々に新しい技法の娯楽映画を生み出した。大森一樹監督の『ヒポクラテスたち』をはじめ、大林宣彦監督の『転校生』、井筒和幸監督の『ガキ帝国』、石井聰亙監督の『逆噴射家族』、伊丹十三監督の『お葬式』、相米慎二の『台風クラブ』、そして―― 森田芳光監督の『家族ゲーム』。
ATG の確変時代と、「黄金の6年間」はかなりの部分で重なる。東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった所以である。
2019.06.04